孝昭王
孝昭王(こうしょうおう、687年 - 702年8月24日)は、新羅の第32代の王(在位:692年 – 702年)であり、姓は金、諱は理洪(『三国史記』新羅本紀・孝昭王紀の分注には理恭ともいう)。先代の神文王の長子であり、母は一吉飡(7等官)の金欽運(同・分注には金欽雲)の娘の神穆王后。691年に太子に立てられており、692年7月に先王の死去に伴い王位に就いた。5歳での即位となるが、摂政が立てられたような記事は見られない[1]。
孝昭王 金理洪 | |
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新羅 | |
第32代国王 | |
王朝 | 新羅 |
在位期間 | 692年8月19日 - 702年8月24日 |
諡号 | 孝昭大王 |
生年 | 垂拱3年(687年) |
没年 |
長安2年7月27日 (702年8月24日) |
父 | 神文王 |
母 | 神穆王后 |
孝昭王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 효소왕 |
漢字: | 孝昭王 |
発音: | ヒョソワン |
日本語読み: | こうしょうおう |
ローマ字: | Hyoso Wang |
治世
編集即位時に唐の武則天から、<輔国大将軍・行左豹韜尉大将軍・鶏林州都督・新羅王>に冊封されており、699年2月に唐への朝貢を再開するなど、三国統一後の唐との間の緊張は緩和されることとなった[2]。また、698年3月には日本国からきた使者を崇礼殿で引見したと伝えられる[3]。
国内官制については、王の即位とともに諱を避けるために理方府(立法を管轄)が議方府と改称された。695年には王都金城(慶尚北道慶州市)の市場としてそれまであった東市[4]に加えて西市・南市を創設し、市場を管理する西市典・南市典の官を増設した。暦法の変更を試み、695年には子の月(陰暦11月)を正月とすることにし、700年には寅の月(夏王朝代に正月とされた陰暦の正月)を正月とすることにしたことが孝昭王紀には伝わっているが、当時の唐の暦法(麟徳暦)との関係など詳しいことは解かっていない。
在位11年にして702年7月に死去し、孝昭と諡されて望徳寺(慶州市排盤洞)の東に埋葬された。その王陵は現在の慶州市朝陽洞の史跡184号に比定されている。
孝昭王の死に当たって、唐では武則天が王のために葬儀を行なって政務を2日間執らなかったとされる。
脚註
編集参考文献
編集- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5
- 『三国史記』第3巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫454〉、1986 ISBN 4-582-80454-3
- 井上秀雄『古代朝鮮』、日本放送出版協会〈NHKブックス172〉、1972 ISBN 4-14-001172-6
外部リンク
編集- 慶州市公式サイト#文化遺産(国会指定文化財-史跡)