姫田真佐久
姫田 真佐久(ひめだ しんさく、1916年11月19日 - 1997年7月29日[1])は、日本の撮影監督である。兵庫県[1]加古川市出身[2]。
ひめだ しんさく 姫田 真佐久 | |
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生年月日 | 1916年11月19日 |
没年月日 | 1997年7月29日(80歳没) |
出生地 | 日本 兵庫県加古川市 |
職業 | 撮影監督 |
ジャンル | 映画 |
来歴
編集帝国美術学校を中退し、1937年4月日活多摩川撮影所(後の大映東京撮影所)に撮影助手として入社[1]。同期には的場徹がいる。渡辺五郎の下で特撮カメラマンを経て、本編班に移り撮影監督デビュー。退社後は主に日活で活動した[3]。今村昌平や神代辰巳との仕事で知られている[3]。「戦後の日本映画を代表する撮影監督の一人」とされている[3]。 日本アカデミー賞を3度受賞した他[4]、1970年には『トラ・トラ・トラ!』でアカデミー賞撮影賞にノミネートされた[5]。
フィルモグラフィー
編集撮影
編集- 母紅梅(1949年)
- 壮烈神風特攻隊(1954年)
- 警察日記(1955年)
- 続警察日記(1955年)
- 神阪四郎の犯罪 (1956年)
- 美しい庵主さん(1958年)
- 星は何でも知っている(1958年)
- 赤い波止場(1958年)
- 牛乳屋フランキー(1958年)
- その壁を砕け(1959年)
- 海から来た流れ者(1959年)
- ゆがんだ月(1959年)
- にあんちゃん(1959年)
- 鉄火場の風(1960年)
- 邪魔者は消せ (1960年)
- 霧笛が俺を呼んでいる(1960年)
- 俺の血が騒ぐ(1961年)
- 豚と軍艦(1961年)
- 紅の拳銃(1961年)
- 太陽、海を染めるとき(1961年)
- キューポラのある街(1962年)
- にっぽん昆虫記(1963年)
- アカシアの雨がやむとき(1963年)
- 赤い殺意(1964年)
- 明日は咲こう花咲こう(1965年)
- 日本列島(1965年)
- エロ事師たちより 人類学入門(1966年)
- 私は泣かない(1966年、日活)
- 愛と死の記録(1966年)
- 波止場の鷹 (1967年)
- 東シナ海 (1968年)
- 野獣を消せ (1969年)
- 戦争と人間 第一部 運命の序曲(1970年)
- トラ・トラ・トラ! Tora! Tora! Tora!(1970年)
- 戦争と人間 第二部 愛と悲しみの山河(1970年)
- いちどは行きたい女風呂(1970年)
- 濡れた唇(1972年)
- 白い指の戯れ(1972年)
- 真夏の夜の情事(1972年)
- 官能地帯 哀しみの女街(1972年)
- 一条さゆり 濡れた欲情(1972年)
- 官能教室 愛のテクニック(1972年)
- OL日記 牝猫の情事(1972年)
- 哀愁のサーキット(1972年)
- 恋人たちは濡れた(1973年)
- 戦争と人間 第三部 完結篇(1973年)
- 四畳半襖の裏張り(1973年)
- 濡れた欲情 特出し21人(1974年)
- 四畳半襖の裏張り しのび肌(1974年)
- 鍵(1974年)
- 青春の蹉跌(1974年)
- 赤線玉の井 ぬけられます(1974年)
- 宵待草(1974年)
- 東京エマニエル夫人(1975年)
- 櫛の火(1975年)
- アフリカの光(1975年)
- 黒薔薇昇天(1975年)
- パリの哀愁(1976年)
- 女教師童貞狩り(1976年)
- 「妻たちの午後」より 官能の檻(1976年)
- 性処女 ひと夏の経験(1976年)
- 悶絶!!どんでん返し(1977年)
- 壇の浦夜枕合戦記(1977年)
- 人間の証明(1977年)
- 16歳 妖精の部屋(1977年)
- 順子わななく(1978年)
- 野性の証明(1978年)
- 復讐するは我にあり (1979年)
- 天平の甍(1980年)
- 少女娼婦 けものみち(1980年)
- ええじゃないか(1981年)
- 誘拐報道(1982年)
- 飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ(1982年)
- 嵐を呼ぶ男(1983年)
- ルージュ(1984年)
- ハチ公物語(1987年)
- あぶない刑事(1987年)
- 螢川(1987年)
- ふたりだけのアイランド(1991年)
出演
編集著書
編集- 姫田真左久のパン棒人生(1998年、ダゲレオ出版)ISBN 4-924984-00-0