奥田秀種
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文亀3年(1503年) |
死没 | 弘治3年9月5日(1557年9月27日) |
改名 | 満長(初名)→満利→秀種 |
別名 | 三郎、三右衛門(通称) |
主君 | 土岐頼武→頼芸 |
氏族 | 斯波氏→奥田氏 |
父母 | 父:斯波政敏、養父:奥田直種 |
子 | 直純 |
概要
編集先祖は斯波義将の弟・義種で、民部少輔満種 - 修理大夫持種 - 左兵衛督義敏 - 三郎政敏(秀種の父)と連なる血筋である(『寛政重修諸家譜』の場合。『群書系図部集』の「武衛系図」では義敏の子に彌三郎寛元、又三郎義延という人物はいるが、彌三郎は越前国北郡で討死、又三郎は続末野之跡とある。三郎政敏が途中で改名したのか同一人物かどうか不明)。 満種の3男で源三郎氏種という者が尾張国中島郡奥田庄[1]の領主となり、奥田氏を称した家系があった。この奥田家が3代目・直種の代で断絶のところ、秀種が養子となり奥田家を相続した。よって最初尾張国奥田庄に住んでいたが、のち美濃国茜部[2]に移住し、土岐氏の家臣となった。近江国へ度々合戦へ赴き手柄を立てた。近江の佐々木一門との合戦で、佐々木氏の「四つ目結び」の旗指物を奪い取り、四つ目のうちの一つをとり、「釘貫き」の家紋とした。定紋は「亀甲に花菱」。「釘貫き」の発祥自体は鎌倉時代の関東の武士のようだが、村松藩の堀家の「釘貫き」は秀種に由来する。
弘治3年(1557年)9月5日没、享年54。