天正寺 (京都市)
概要
編集本能寺の変の後豊臣秀吉は、かつての主君織田信長の後継者としての地位を確立しつつあった。後年秀吉は方広寺(京の大仏)という巨大寺院を造立したが、当初計画では天正寺という巨大寺院を造立する計画であった[1][2]。この寺院は京都大徳寺近傍の「紫野」に造営する計画となっていた[2][1]。正親町天皇の真筆による「天正寺」と書かれた勅額が秀吉に下賜され[3]、信長の葬儀の導師を勤めた大徳寺の古渓宗陳を開山に招請した[1]。秀吉は紀伊国(現和歌山県)の根来寺の大伝法堂を、天正寺の仏殿にするため、それを解体して資材を京都へ移送するよう命じた[3]。天正寺造営の計画は順調に進むかのように思われたが、途中で中断され、計画は雲散霧消になってしまった[3][1]。天正寺造営中断の理由について、天正寺の造営目的は、信長の菩提を弔うことが主目的であったとされるが、天正13年(1585年)に秀吉が関白に任官し、もはや織田氏に配慮する必要性がなくなったためとする見解もある[4]。開山に召集された古渓宗陳は博多へ追放されてしまった[1]。根来寺の大伝法堂の部材は大坂で放置され、腐朽してしまったという[5]。その後秀吉は天正寺に代わり、巨大な大仏を造立することを企図するようになったが[1]、それについては京の大仏の記事を参照のこと。