大蔵公望
大蔵 公望(おおくら きんもち、1882年(明治15年)7月23日[1] – 1968年(昭和43年)12月24日[2])は、日本の鉄道官僚。貴族院男爵議員。南満州鉄道理事。
経歴
編集陸軍中将・男爵大蔵平三の三男として東京府[3]で生まれる[4]。1904年(明治37年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業[4]。渡米してミズーリ・パシフィック鉄道、タイドウォーター鉄道などに勤務[4]。1908年(明治41年)に帰国して鉄道院に入り、静岡駅助役[3]、新橋運輸事務所長、運輸局貨物課長、神戸鉄道管理局運輸課長、西部鉄道管理局運輸課長[3]などを歴任した[4]。父の死去に伴い、1911年(明治44年)9月20日、男爵を襲爵[5]。1919年(大正8年)に南満州鉄道に転じ、運輸部次長を経て理事に就任し[4]、計画部長・殖産部長・地方部長を兼ねた[1]。
1932年(昭和7年)に満鉄理事を辞任[6]、帰国して同年7月10日、貴族院議員(男爵議員)に選出され公正会に所属した[7][8]。その後、国策研究同志会およびその後継団体である国策研究会を矢次一夫とともに設立。中心的人物として運営に関与[9]。国策研究会における彼の役割は、研究内容面だけでなく、組織運営全般に及んだ[10]。
政治思想としては、関西の鉄道業界からの依頼を作成された再編計画などから、反個人主義的傾向が認められる[11]。
その他、1938年(昭和13年)9月1日に設立された東亜研究所の副総裁に就任[12]したほか、満洲移住協会理事長、拓殖大学専務理事などを務めた。さらに東亜旅行社の総裁を務め[13]、1945年(昭和20年)に東亜旅行社が日本交通公社に改称してからは会長を務めた。1946年(昭和21年)2月23日、貴族院議員を辞職した[14]。その後、公職追放となる[15]。
著書
編集- 『ソヴェート聯邦の実相』(南満洲鉄道株式会社、1929年)
- 『満洲移住に就き農村青年諸君の奮起を促す』(満洲移住協会、1936年)
- 『ソ聯邦の長所及び弱点』(皐月会、1938年)
- 『国際情勢と満蒙開拓の重要性』(満洲移住協会、1941年)
- 『日満統制経済論』(日本評論社、1956年)
脚注
編集- ^ a b 大衆人事録 1930.
- ^ 『昭和物故人名録』 日外アソシエーツ、1983年。
- ^ a b c d 『近代日本土木人物事典』154-155頁。
- ^ a b c d e 人事興信録 第13版 1941.
- ^ 『官報』第8477号、明治44年9月21日。
- ^ 『大蔵公望日記』、1932年1月3日条
- ^ 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年、66頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、42頁。
- ^ Ito: Militarismus des Zivilen in Japan 1937–1940, S. 31
- ^ Ito: Militarismus des Zivilen in Japan 1937–1940, S. 106
- ^ Ito: Militarismus des Zivilen in Japan 1937–1940, S. 120-133
- ^ 東亜の人文・自然を研究、会長は近衛首相『東京朝日新聞』1938年(昭和13年)9月2日夕刊
- ^ 人事興信録 第14版 1943.
- ^ 『官報』第5737号、昭和21年3月1日。
- ^ 公職追放の該当事項は「満鉄顧問理事」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、484頁。NDLJP:1276156。 )
参考文献
編集- 『大蔵公望日記』(全四巻)日本近代史料研究会、1973-1975年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版(上)』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版(上)』人事興信所、1943年。
- 伊藤智央(Tomohide Ito) (2019). Militarismus des Zivilen in Japan 1937–1940: Diskurse und ihre Auswirkungen auf politische Entscheidungsprozesse. Iudicium Verlag
- 高橋裕、藤井肇男共著『近代日本土木人物事典: 国土を築いた人々』鹿島出版会、2013年。
日本の爵位 | ||
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先代 大蔵平三 |
男爵 大蔵(平三)家第2代 1911年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |