大番 (小説)
『大番』(おおばん)は、獅子文六の大衆小説。昭和前期の兜町を舞台に、相場師「ギューちゃん」の波乱万丈の一生を描く。
原作は1956年から1958年まで『週刊朝日』に連載された。人気作となって加東大介主演で映画化され、さらにフジテレビで連続ドラマ化されて、主人公を演じた渥美清の作品となった。
ストーリー
編集大正末期、愛媛県宇和島近郊の農村に生まれた田舎青年・赤羽丑之助は、村の男女の出会いの場である村祭りの夜に、なんとか彼女を作ろうと知恵を絞る。ハンサムではない彼が考えたのは、ラブレターをガリ版印刷で大量生産し、村の女の子に見境なく渡す、数撃ちの物量作戦に出ることであった。祭りの当日、彼は印刷ラブレターの一枚を、血迷って地元資産家の令嬢の可奈子に渡してしまう。これはたちまち村の大スキャンダルになり、追い込まれた丑之助は村から夜逃げする羽目になった。
遠く東京にやってきた彼は日本橋兜町の株仲買店の小僧に就職、相場の世界に足を踏み入れた。戦前から戦後にかけての東京証券界を舞台に、相場師「ギューちゃん」となった彼の破天荒な一代記を描いた、痛快小説。
映画
編集テレビドラマ
編集1962年10月3日から1963年4月24日までフジテレビ系列で放送。全26回。放送時間は毎週水曜22:15 - 22:45(JST)。
出演者
編集スタッフ
編集フジテレビ系 水曜22:15 - 22:45枠 | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
反逆児
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大番
(テレビドラマ版) |
モデル
編集主人公「ギューちゃん」の人物像は「ブーちゃん」のあだ名があった実在の人物・合同証券社長の佐藤和三郎をモデルに造形された[1][2][3]。本作は昭和の兜町界隈の風俗をよく伝えるとともに、主人公のライバルで売りの名人といわれた角政(山種証券創設者の山崎種二[4])、大手証券の総帥でありながら、仕手戦の敗北で自殺した木谷(山一證券社長・太田収)、かつての山一・野村・日興・大和がモデルの大手四大証券など、戦前戦後の証券界に仮借した人物や企業が登場する。
方言
編集主人公の若者時代や取引で失敗し郷里に引き上げる場面では、宇和島地方の人情、文化、方言などを詳しく知ることができる。作者が終戦直後、妻の実家である宇和島市津島町(旧北宇和郡岩松町)に疎開していた時の見聞が、本作や「てんやわんや」などの題材になったと思われる。
現在はあまり使われないもの
編集- 【〜ですらい】:「ます、です」の丁寧語。目上の人や改まった席などで使用される。
- 【やんなせ】:「ください」「~~してください」
- 【あのな~し】:「もしもし」「ちょっといいですか?」などの丁寧語
- 【お~~た】:感嘆詞、びっくりした様
- 【てんご】:理不尽な、法外な
- 【だんだん】:ありがとう
- 【とっぽ作】:間抜け者
- 【てんぽ作】:向う見ずな者
現在も使われているもの
編集- 【がいや!】【がいな!】:「ものすごい」「おおげさな」
- 映画で主人公がタンカをきる時は「お~た、がいやの、そうてて、な~しじゃ!」と言う。この方言をちなんだ「ガイヤ・オン・ザ・ロード」(宇崎竜童作)という踊りが、うわじま牛鬼まつりの初日に「ガイヤカーニバル」として開催されている。
- 【おーとろっしゃ!】:「おぅ!なんてこったい!」
- 【どがいするぞ!】:「いったい、どうするって言うんだ!」
- 【かんまんです】:「結構です」「かまいません」
- 【そうてて】:「だって」「しかしながら」
- 【おことわり】:謝罪すること
- 【こらえてやんさい。(やんなせ)】:謝罪の言葉。許してください。我慢してください。
その他話題
編集- 映画の地元シーンには、みかんを植林する前の芋畑「だんだん畑」、護岸のための石垣、松くい虫被害のため後に伐採された頂上の松林が現存している九島、米がほとんど取れないため代用食として1960年ごろまで主に村落での主食になっていた芋をスライスして干したものを原料とした「かんころめし」(オツメ、オカチン)、芋とは食感、栄養と共にベストチョイスとされる「かいぼし」と呼称されるいわしの干物、「ホケ」と呼称される芋を原料とした密造焼酎、「若衆宿」と呼ばれた青年教育制度など、往時をしのぶ映像が多数存在する。古い町並みが多数残っていた吉田町(現、宇和島市吉田町)でも多く撮影され、鳥羽酒造が森家として使用された。
- この映画を記念して作られた菓子「大番」は今も「唐饅」(映画中登場)「蜜饅」と並び、宇和島市の銘菓として知られ、獅子文学が発端で開発された菓子としては「てんやわんや」の「善助餅」とともに知られている。映画で主人公が東京駅に立った時の姿が包装紙のデザインに使われている。
出典
編集- ^ 佐藤和三郎(コトバンク)佐藤は新潟県新発田市生まれで、尋常小学校卒業後に上京して、16才の時に証券界で働き始める。相場師として徐々に自身を確立して、26才で独立。1949年に合同証券を設立して、翌翌年に「旭硝子仕手戦」で大儲けをする。背丈が低く、太っていたので「ブーちゃん」というあだ名で親しまれていた。後に中央開発(土地開発会社)社長。
- ^ ゼネックス・星雲社版『大番 下』1997年12月 ISBN 4-7952-6120-2 、解説「生まれながらBullの素質――ギューちゃんのモデル」(pp. 372 ~)
- ^ 大宅壮一著『昭和怪物伝』(大宅壮一文庫、1957年)
- ^ 佐藤和三郎と対比して、「買いのブーちゃん」「売りの山種」、「人気のブーちゃん」「実力の山種」と言われた相場師であった