大塚 節治(おおつか せつじ、1887年3月3日 - 1977年11月18日)は、大正昭和期のキリスト教神学者文学博士(1949年)。旧姓は沖田。同志社第13代総長。

大塚節治(1935年頃)

経歴

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1887年明治20年)広島県高宮郡飯室村(現在の広島市安佐北区安佐町)で沖田惣左衛門の六男に生まれる[1][2]1912年(明治45年)に愛媛県伊予郡中山村(現在の伊予市中山町)の大塚家の養子となる[2]

広島県師範学校講習部から[1]1903年同志社普通学校に入学[3]1905年日野真澄から受洗[3]1909年同志社普通学校を卒業して同志社神学校に入学[2]1912年に渡米し[4]ユニオン神学校コロンビア大学で学び[1]、マスター・オブ・アーツの学位を受ける[5]。帰国後の1919年専門学校令による同志社大学神学部教授、翌年大学令による同志社大学文学部神学科教授となり、多くの著書、論文を発表、キリスト教倫理学および組織神学を講じた。学風は自由主義神学の伝統を踏襲しつつ、弁証法神学を取り入れたもので、日本では未開拓に近かったキリスト教倫理の基礎を築いた[1]

1923年から翌年にかけて渡欧[3]1925年文学部長、1937年7月から12月まで同志社大学学長を兼任[6]1943年から44年まで日本西部神学校にも出講した[7]

戦後1949年文学博士1950年同志社大学学長、同志社理事長となり[5]、同年、同志社13代総長就任。1963年まで13年間その任にあって、戦後の世相および学制改革に伴う混乱期、時代の要請に応じ、同志社諸校の校舎拡充など、戦後の同志社発展の土台作りに尽力した[1]

1957年同志社大学名誉教授1972年同志社大学名誉神学博士[5]

太平洋戦争中、キリスト教は迫害を受け学問の自由も束縛された。その反省から、戦後は学者として新憲法を護る発言を続けた[1]

1977年11月18日に京都で死去。12月3日同志社栄光館で社葬が行われた[2][8]

主な著書

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  • 基督教倫理学序説、基督教思想叢書刊行会、1935年2月
  • 基督教人間学、全国書房、1948年10月
  • 近代文明の禍根、同志社、1959年2月
  • 日本国憲法と基督教、同志社、1960年3月
  • 新島先生を偲ぶ(NHK人生読本放送)、同志社、1961年2月
  • 人間は何故神を信ずるか、同志社、1961年2月
  • 神の算盤(大塚節治先生謝恩記念事業委員会)、新教出版社、1965年7月
  • キリスト教要義、日本基督教団出版局、1971年10月
  • 学術用語集・キリスト教学編、学術審議会学術用語分科会キリスト教学用語専門委員会主査(文部省)、丸善、1972年3月
  • 回顧七十七年、同朋舎、1977年7月

家族

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栄典

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 『広島県大百科事典』 上巻、177頁
  2. ^ a b c d 『中山町誌』 1401頁
  3. ^ a b c 『日本キリスト教歴史人名事典』 153頁
  4. ^ a b 『日本キリスト教歴史大辞典』 228-229頁
  5. ^ a b c d 京都市:京都市名誉市民 大塚節治氏
  6. ^ 『同志社九十年小史』 326頁
  7. ^ 『同志社九十年小史』 329-330頁
  8. ^ 同志社社史史料編集所 『同志社百年史』 資料編二、学校法人同志社、1979年、年表49頁

参考文献

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  • 同志社々史々料編纂所 『同志社九十年小史』 学校法人同志社、1965年
  • 中国新聞社、『広島県大百科事典』 上巻、1982年10月
  • 日本キリスト教歴史大事典編集委員会 『日本キリスト教歴史大事典』 教文館、1988年 ISBN 978-4-7642-4005-6
  • 中山町誌編纂委員会 『中山町誌』 愛媛県伊予郡中山町、1996年
  • 日本キリスト教歴史人名事典編集委員会 『日本キリスト教歴史人名事典』 教文館、2020年 ISBN 978-4-7642-4042-1

関連項目

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外部リンク

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