大伴是成
経歴
編集桓武朝の延暦10年(791年)従五位下に叙爵する。延暦14年(795年)信濃国介・石川清主が命中しなかったものの矢を射かけられる事件が発生する。まず、従五位下・藤原都麻呂が派遣されて犯人を捜索するも捕らえることができず、次に衛門佐の官職にあった是成が遣わされて、信濃国小県郡人の久米舎人望足に対して尋問を行ったところ、望足は罪状を認め讃岐国への流罪に処された[1]。
延暦18年(799年)兵部大輔兼中衛少将春宮亮の官職にあったが、伝燈大法師位・泰信らとともに淡路国へ派遣され、奉幣して早良親王の霊に謝罪を行う。翌延暦19年(800年)桓武天皇の詔により、早良親王を崇道天皇と称し、井上内親王を皇后に戻して、二人の墓を山陵と改称することになった際、是成は陰陽師や衆僧を引率して、淡路国にある崇道天皇の山陵を鎮め謝罪した[2]。
官歴
編集『六国史』による。