堀杏庵
堀 杏庵(ほり きょうあん、天正13年5月28日(1585年6月25日)[1]- 寛永19年11月20日(1643年1月10日)[1])は、江戸時代初期の医師・儒学者。名は正意[1]。字は隆夫[1]。通称は与十郎[1]。号は杏庵のほか、杏隠・敬庵・蘇巷・茅山山人など[1]。
近江国安土の生まれ[1]。祖父は近江国野村城主・堀定澄で、父は医師・堀徳印[1]。医術を曲直瀬正純に、句読を南禅寺塔頭帰雲院の梅心正悟に、儒学を藤原惺窩に学び、惺門四天王(林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵)の一人に数えられた[1]。1611年(慶長16年)紀伊和歌山藩主浅野幸長に出仕し、1619年(元和5年)幸長の移封にともなって安芸広島に移る[1]。1622年(元和8年)徳川義直の要請によって尾張藩に仕えた[1]。1643年(寛永19年)江戸へ赴き、『寛永諸家系図伝』の編纂を命じられるが、そのまま病没した[1]。博識多学で温厚な長者として知られた[1]。
長男の立庵は芸州浅野家に、次男忘斎と三男道隣は尾張藩にそれぞれ仕えた[1]。本居宣長が従学した堀景山は孫にあたる[1]。子孫に1885年に東京大学理学部化学科を卒業し、ミュンヘン大学留学後、第一高等学校化学教諭となった堀鍼之丞がいる[2][3][4]。
著書には『堀杏庵文集』『杏陰集』『東行日録』『有馬温湯記』『朝鮮征伐記』などがある。