垂井ひろし
概略
編集墨画の技法を取入れた独特の描画法で疾走するF1マシンやGTマシンなどモータースポーツ・イラストを描き、レーシングカーの空気感や生の醍醐味を表現する。鈴鹿サーキットをはじめ京都知恩院など全国各地で「墨のF1アート展」を精力的に展開していることで知られている。2010年頃より墨画ライブアートと称して大型作品の実演も行なっている。
元々は、サッカーや大相撲力士などスポーツ選手の似顔絵を描くイラストレーターからスタートし、近年は「現代版大首絵」と称し、軽妙洒脱な似顔絵イラストも得意としている。また、幼少時より日本史や三国志など歴史にも造詣が深く、歴史雑学モノの表紙や挿絵のイラストも数多く手掛けている。雅号は雪嶺。
日本出版美術家連盟会員(2012〜14年、17年〜理事)
経歴
編集- 1984年 東京造形大学デザイン科を卒業。大学卒業後は出版社、編集プロダクション、デザイン事務所などに勤務。
- 1994年、フリーのイラストレーターとして活動開始。
- 1995年、墨画家鈴木缶羊に師事、墨画を学びはじめる。
- 1998年、サッカー日本代表が初めて本大会に出場したW杯フランス大会、日本代表オフィシャルグッズの代表選手似顔絵マフラータオル、Tシャツのイラストレーターとして起用される。
- 1990年代末ころより墨画の技法を取入れたモータースポーツ・イラストを描きはじめる。
- 2002年、サッカーW杯日韓大会開催期間中、読売新聞紙面にて1コマ漫画を発表。
- 2004年、毎年恒例となる鈴鹿サーキットでの「墨のF1」個展が始まる。
主な活動
編集個展など
編集- 2002年 東京、ホンダ本社ビル、ウェルカムプラザ青山『墨のCART・垂井ひろしイラスト展』
- 2003年 オランダ Zandvoortにて 『Art Work Exhibition at Marlboro Masters』
- 2004年 東京、ホンダ本社ビル、ウェルカムプラザ青山『墨のF1・垂井ひろしイラスト展』
- 2004年 F1日本GP 鈴鹿サーキット『墨のF1・垂井ひろしイラスト展』
- 2005年 F1日本GP 鈴鹿サーキット『墨のF1・垂井ひろしイラスト展』
- 2006年 F1日本GP 鈴鹿サーキット『墨のF1・垂井ひろしイラスト展』
- 2007年 東京渋谷、Gallery LE DECO『墨のF1・垂井ひろしイラスト展 in Tokyo』
- 2007年 ツインリンクもてぎ Hondaコレクションホール『墨のINDY &F1・垂井ひろしイラスト展 at INDY JAPAN』
- 2007年 東京池袋、アムラックス東京『墨のF1・垂井ひろしイラスト展』
- 2007年 京都、知恩院 和順会館『墨のF1・垂井ひろしイラスト展 at 知恩院』
- 2007年 鈴鹿サーキット(2009 SUZUKA AGAIN)『墨のF1・垂井ひろしイラスト展』
- 2008年 京都、知恩院 和順会館『墨のF1・垂井ひろしイラスト展 at 知恩院』
- 2008年 大阪、アリオ八尾トヨタオートモール『墨のクルマイラスト展』
- 2009年 京都、ぎゃらりぃ西利『鈴鹿墨展+墨のF1アート垂井ひろし展 at 祇園』
- 2009年 東京六本木、 F1 PIT STOP CAFE『墨のF1アート垂井ひろし展 at F1 PIT STOP CAFE』
- 2009年 F1日本GP 鈴鹿サーキットにて『墨のF1アート垂井ひろし展』
- 2010年 鈴鹿サーキットゆうえんち『墨のF1アート展・垂井ひろし鈴鹿墨かきぞめライブ』
- 2010年 イオンモール鈴鹿ベルシティ『墨のF1アート垂井ひろし展』&墨画ライブ
- 2010年 F1日本GP 鈴鹿サーキット『墨ぐらんぷり垂井ひろし展』&墨画ライブ
- 2011年 イオンモール鈴鹿ベルシティ『墨のF1アート垂井ひろし展』&墨画ライブ
- 2012年 幕張メッセ、東京オートサロン・オープニングセレモニーにて墨画パフォーマンス
- 2012年 イオンモール鈴鹿にて『墨のF1アート展』『F1ドライバーズ顔展1987〜』&墨画ライブ
- 2012年 京都、知恩院 和順会館にて『墨ぐらんぷり展』『F1ドライバーズ顔展1987〜』
- 2012年 第1回 富士山マラソン(旧河口湖日刊スポーツマラソン)前夜祭にて墨画ライブ
- 2013年 幕張メッセ、東京オートサロン・オープニングセレモニーにて墨画パフォーマンス
- 2013年 東京新宿、Coffee & Gallery ゑいじう『墨ぐらんぷり垂井ひろし展』
- 2013年 イオンモール鈴鹿ベルシティ『墨のF1アート垂井ひろし展』&墨画ライブ
- 2013年 東京日本橋、伊場仙まちがど展示館『The 歌舞伎役者絵展』
- 2014年 幕張メッセ、東京オートサロン・オープニングセレモニーにて墨画パフォーマンス
- 2014年 東京新宿、Coffee & Gallery ゑいじう『墨ぐらんぷり垂井ひろし展』
- 2014年 富士スピードウェイ、FIA世界耐久選手権、歓迎レセプションにて墨画パフォーマンス
- 2015年 幕張メッセ、東京オートサロン・オープニングセレモニーにて墨画パフォーマンス
- 2015年 ロシア・モスクワ、JAPAN FES "HINODE"にて墨画パフォーマンス
- 2015年 東京新宿、Coffee & Gallery ゑいじう『墨ぐらんぷり垂井ひろし展』
- 2016年 グランドハイアット東京、Excellence Porsche 発表会にて墨画パフォーマンス
- 2016年 東京新宿、Coffee & Gallery ゑいじう『墨ぐらんぷり垂井ひろし展』
グループ展参加多数。
自動車系雑誌連載
編集- 1994年〜2001年 『F1グランプリ特集』(ソニーマガジンズ)
- 1996年〜1997年 『CAR STAGE』(ソニーマガジンズ)
- 1999〜2002年 『オートスポーツ』(三栄書房)
- 2000年 『GPX』(山海堂)
- 2001〜 02年 『Racing On』(ニューズ出版)
- 2001〜04年 『アズエフ』(三栄書房)
- 2001〜04年 『F1速報』(ニューズ出版)
- 2002〜04年 『af The STAGE』(交通タイムス社)
- 2003年 『F1der』(三栄書房)
- 2004〜06年 『GT-Rマガジン』(交通タイムス社)
- 2004〜06年 『GENROQ』(三栄書房)
- 2008年〜2009年 『CARトップ』(交通タイムス社)
サッカー雑誌連載
編集- 1995〜97年 『Jサッカーグランプリ』(ソニーマガジンズ)
- 2002〜06年 『Footival』(ソニーマガジンズ)
音楽活動
編集音楽活動については本人の公式サイトのプロフィールで一切触れられていないのであまり知られていないが、イラストレーターとしての活動より長い。
作詞・作曲・ボーカルを手がけるが、楽器は一貫してベースにこだわっている。
中学生でビートルズを知り、楽器の練習をはじめる。
1978年、ロンドンパンクやニューヨークのラモーンズの強い影響を受け「喝!タルイバンド」結成。
最初はサイドギター担当だったが、後にベースに転向。
バンド活動開始当初から長い間「たるい正太郎」を名乗っていたが、近年はイラストレーターと同じ「垂井ひろし」と名乗っている。
学園祭でのライブの他、吉祥寺マイナー、六本木S-KENスタジオで東京ロッカーズ周辺のバンド(鳥井賀句バンド、ノンバンドなど)とギグ。
1981年、ベース担当の片岡理が病気により脱退。垂井がベースに転向。
(後に片岡はスラッヂのギタリストとして音楽活動に復帰)
1982年、アスピリンレコードよりシングル「ダンスそうじき/赤い花咲く緑の丘に」リリース。
1982年末、Vo.として杏子が加入、翌83年8月脱退しBARBEE BOYSに参加[1]。
現在まで続く3人Vo.のトリオ編成(たるい正太郎B 嘉多山信G 杉山靖幸D)となる。
1987年、ザ・バンカース!に改名。
同年、ビデオクリップ集「VIDEO BANK '87」をリリース。
1991年〜94年、ベーシストとして片桐麻美(EPIC SONY)のレコーディングやツアーに参加。
1999年、ザ・バンカース!より脱退、イラストレーターに専念。
2001年、垂井ひろしB 嘉多山信G 杉山靖幸Dのトリオで、喝!タルイバンド活動再開。
エピソード
編集東京都立武蔵丘高等学校時代は美術工芸部に在籍、当時若者に人気だったTV番組「銀座NOW!」の洋楽ミュージシャンの似顔絵コーナーに投稿し、グランプリ等複数回受賞[2]。
1984年、喝!タルイバンド、NHK YMF東京大会(NHKホール)で金賞(グランプリ)獲得し東京代表になったが、全国大会には進めず[3]。
1985年、86年、ヤマハ池袋店の予選会からEastWestに出場。86年は中野サンプラザで行われた決勝大会に駒を進め入賞。同じ池袋店の予選会から出場したバンドにJUN SKY WALKER(S)がいたが、彼らは2年とも決勝大会には進めなかった[3]。
1987年から喝!タルイバンドはザ・バンカース!に改名したが、新バンド名は当時何度か競演したザ・コレクターズのリーダー加藤ひさしのアイディアによる。
1988年、BARBEE BOYS全盛期に『杏子 with ザ・バンカース!』として、汐留PITでライブを行い、喝!タルイバンド時代のオリジナル曲などを演奏。
1989年、ザ・バンカース!、TBSイカ天に出場。イカ天キングへの挑戦権、在宅審査員賞を獲得するも、イカ天キングのフライングキッズに完敗。
同年、某レコード会社よりメジャーデビュー予定の「カスタネッツ」のメンバーとして再度イカ天に出場。完奏できず、審査員伊藤銀次より酷評されるも、たるい正太郎個人は吉田建より評価されベストプレーヤー賞を受賞。その1ヶ月後カスタネッツより脱退。
モータースポーツ関連の仕事のきっかけは、音楽関係の仕事で知り合ったソニーミュージックのプロデューサーからソニーマガジンズ月刊「F1グランプリ特集(現Grand Prix Special」編集部を紹介され、1994年の後半から6年に渡る連載が始まった。
90年代末頃より墨画の技法を取入れたレーシングカー・イラストを描きはじめ、99年からはじまった「オートスポーツ」での連載でその技法によるイラストを描き始め、墨のF1の原形になった。
2002年10月、今はなき東京恵比寿のMr.クラフトにて、カメラマンの松本浩明と『F1佐藤琢磨イラスト&写真展』を開催。佐藤琢磨選手本人もお忍びで会場に訪れた。
2007年10月頃、Video Bank 87の1曲「君はファミコンボーイ」がメンバー、関係者に無断でYouTubeにアップロードされ、アキバ系ブロガーたちの間で「謎のバンド、伝説になるかも」と話題になる。現在この動画は削除されている。
2009年1月12日付け朝日新聞朝刊、2面「ひと」欄にて墨のF1イラストレーターとして紹介される。
脚注欄
編集外部リンク
編集✳︎[Twitter @tarui〕