土御門有脩
土御門 有脩(つちみかど ありなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿・陰陽師。陰陽頭・土御門有春の子。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 大永7年(1527年) |
死没 | 天正5年1月2日(1577年1月20日) |
官位 | 従三位・非参議、陰陽頭、刑部卿 |
主君 | 後奈良天皇 |
氏族 | 安倍氏嫡流土御門家 |
父母 | 父:土御門有春 |
兄弟 | 勘解由小路在高 |
妻 | 正室:青春院 |
子 | 久脩、勧修寺晴豊室 |
経歴
編集官位は従三位・非参議、陰陽頭、刑部卿。堂上家(家格は、半家・安倍氏嫡流)である、土御門家30代当主。
天文11年(1542年)、戦乱が続き疲弊した京を離れ、所領の若狭国名田庄に退いていた有脩は陰陽頭としての職務を放棄していたため、同じく相模国の太守北条氏綱を頼って下っていた賀茂氏系陰陽師の公卿・勘解由小路在富が陰陽頭の職務を代行するために京に呼び戻された。
系譜
編集家族
編集末裔
編集土御門有脩を経て伝わってきた安倍晴明の男系血脈は、宇多源氏綾小路家[1][注 1]の子で倉橋家(有脩の息子久脩の末裔・安倍氏庶流)の養子となった倉橋有儀(1738年 - 1784年)[2]と、その息子で土御門家の養子となった土御門泰栄(1758年 - 1806年)[3]の代で断絶している[注 2]。
しかし、有脩の娘が勧修寺晴豊[4]の妻になり子を残しているため、勧修寺家[5][注 3]とその血脈を汲む幾つかの堂上公家・華族の子孫が現存する。現在の土御門家[6][注 4]・倉橋家[7][注 5]当主はいずれも、共に4回も女系を経た遠縁ではあるが、土御門有脩の血脈を汲んでいる。
また、仁孝天皇以降の歴代天皇も、この系譜に連なる[8][注 6]。
→「土御門久脩 § 末裔」も参照
脚注
編集注釈
編集- ^ 男系を辿ると藤原北家閑院流三条家に行き至る。
藤原師輔-(閑院)公季-4代-三条実行-2代-正親町三条公氏-11代-滋野井季国-五辻為仲-之仲-綾小路高有-3代-倉橋有儀-土御門泰栄 - ^ よって、「安倍晴明の男系直系末裔」は、信憑性のある公的な系譜上、現存しない。
- ^ 勧修寺家:土御門有脩-勧修寺晴豊室-坊城俊昌-勧修寺経広-10代-美温
- ^ 現在の土御門家の安倍氏血脈:安倍晴明-15代-土御門有宣-有春-土御門有脩-勧修寺晴豊室-坊城俊昌-勧修寺経広-4代-経逸-高倉永雅室-鷲尾隆賢室-隆聚-三室戸和光室-土御門晴善-範忠-善子
男系を辿ると、藤原北家三室戸家(藤波家からの養子)を経て大中臣氏藤波家に行き至る。 - ^ 現在の倉橋家の安倍氏血脈:安倍晴明-15代-土御門有宣-有春-土御門有脩-勧修寺晴豊室-坊城俊昌-勧修寺経広-経敬-尹隆-愛宕通貫室-倉橋有儀室-4代-豊子(婿・信忠)-純信(-輝行)
男系を辿ると、倉橋信忠は松平恒三郎の子のため松平氏に行き至る。 - ^ 皇室へ至る血脈:土御門有脩 - 勧修寺晴豊室 - 坊城俊昌 - 勧修寺経広 -(4代略)- 経逸 - 婧子(光格天皇典侍)- 仁孝天皇 - 以下歴代天皇
出典
編集参考文献
編集- ネケト. “Reichsarchiv ~世界帝王事典~”. 2019年10月4日閲覧。
- “歴史ディレクトリ”. 2019年10月7日閲覧。