土岐 頼明(とき よりあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将土岐頼貞の十二男(末子)。兄弟に頼清頼遠長山頼基頼兼など多数。

 
土岐頼明
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不詳
死没 正平3年/貞和4年1月5日1348年2月4日
別名 弥十郎(通称)
戒名 周済房[1]
官位 兵庫頭[1]
幕府 室町幕府
氏族 土岐氏
父母 父:土岐頼貞
兄弟 頼直、高頼(妙光)、乾道謙、舟木頼衡、墨俣頼連(周崔)、頼清(頼宗)頼遠、頼仲、長山頼基頼兼、頼里、頼明
不詳
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生涯

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父の頼貞と共に初めは鎌倉幕府執権北条得宗家、および六波羅探題に仕えていた。後に後醍醐天皇に呼応して、足利尊氏に仕えて各地を転戦した。

兄の頼遠が長森城に土岐氏の本拠地を移すと、父の頼貞は大富館へ移り、一日市場館を頼明に譲った。

興国3年/康永元年12月1日1342年12月29日)に、美濃守護であった兄頼遠が、光厳上皇に狼藉を働いたことに激怒した足利直義に捕らわれて、京都六条河原で処刑されると、その後を継いだ甥の頼康を補佐しながら、北朝方の高師直に従って転戦した。

正平3年/貞和4年(1348年)に、河内国四条畷で、南朝方の楠木正行と戦って、戦死を遂げた(四条畷の戦い)。

岐阜県瑞浪市釜戸町に頼明の墓とされる宝篋印塔が有り、瑞浪市の有形文化財となっている。

関連リンク

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脚注

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  1. ^ a b 尊卑分脈