喜屋武岬
地理
編集一般には喜屋武岬が沖縄本島最南端と誤解されがちだが、東南東約1.4km離れた荒崎が実の最南端である[3][4]。1991年発行の『角川日本地名大辞典』[2]によれば、当時の地形図には喜屋武地区の南西端を「喜屋武岬」としているが、そこから東へ約1km離れた慰霊碑「平和之塔」と灯台へ向かう場所に喜屋武岬の案内標識があるという。また大木隆志(2002年)[5]によると、地形図では喜屋武南西端に記された「喜屋武岬」が削除され、慰霊碑や灯台のある場所に当岬が表記されているという。
喜屋武岬一帯は琉球石灰岩の海岸段丘を形成している。喜屋武南西端の海岸は約1mの平坦なカレンフェルトを成すが、荒崎付近は高さ約5m、灯台付近は高さ約30mの断崖となる[2]。
歴史
編集元来「喜屋武」(方言でキャン)は限度・到達を意味する「~まで」を表す「きやめ」から変化したと考えられる[7]。周辺住民は喜屋武地区の南西端の岬を「キャンサチ」(「キャンヌサチ」)、灯台近くの岬を「キャンミサキ」(「キャンミサチ」)と呼んで区別している。明治時代の水路誌には「喜屋武崎(埼)」と記され[1]、国土地理院の『標準地名集』(1981年発行)には、「喜屋武崎(きやんざき)」とある[8]。またバジル・ホールとマシュー・ペリーの探検記には当岬一帯を「サウス・ポイント(South Point )」と命名しているが、記述内容から荒崎を示す名称でないかと考えられる[9]。
灯台の西方500mに国の史跡に指定されている具志川城跡があり、13 - 14世紀の中国の陶磁器が出土している[5][1][10]。バジル・ホールは1816年10月14日に、喜屋武岬・荒崎一帯を巡航、近海に大きさ約10マイル(約16km)のサンゴ礁地帯が存在し、上陸は困難であったと述べている。翌日彼はようやく付近に接岸し、そこで出会った漁民と会話を交わしている。当地一帯は沖縄戦の激戦地で、米軍から逃げ場を失った住民・日本軍は自決し最期を遂げた。当地一帯は沖縄戦跡国定公園に含まれている[2]。
付近の史跡・施設
編集- 平和之塔
- 平和創造の森公園
- 具志川城跡
- 沖縄航空無線標識局
交通
編集ギャラリー
編集出典
編集- ^ a b c 「喜屋武村」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.226下段
- ^ a b c d 「喜屋武岬」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、p.306
- ^ 大木(2002年)、p.86
- ^ 島袋伸三「喜屋武岬」、『沖繩大百科事典 上巻』(1983年)、pp.872 - 873
- ^ a b 大木(2002年)、pp.82 - 83
- ^ 受賞対象名 - 休憩所 [喜屋武岬展望休憩所] - GOOD DESIGN AWARD
- ^ 「喜屋武〈糸満市〉」、『角川日本地名大辞典』(1991年)、pp.301 - 302
- ^ 「喜屋武崎」、『標準地名集』(1981年)、p.190
- ^ 「荒崎」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.228下段
- ^ 「具志川グスク」、『日本歴史地名大系』(2002年)、pp.226 - 227
- ^ バスマップ沖縄
参考文献
編集- 角川日本地名大辞典編纂委員会編 『角川日本地名大辞典 47.沖縄県』 角川書店、1991年。ISBN 4-04-001470-7
- 沖繩大百科事典刊行事務局編 『沖繩大百科事典』 沖縄タイムス社、1983年。全国書誌番号:84009086
- 平凡社地方資料センター編 『日本歴史地名大系第四八巻 沖縄県の地名』 平凡社、2002年。ISBN 4-582-49048-4
- 建設省国土地理院地図管理部 『標準地名集(自然地名) 増補改訂版』 建設省国土地理院地図管理部、1981年。全国書誌番号:82003525
- 大木隆志 『海と島の景観散歩 沖縄地図紀行』 ボーダーインク、2002年。ISBN 4-89982-027-5
関連項目
編集外部リンク
編集座標: 北緯26度04分41.5秒 東経127度40分8.2秒 / 北緯26.078194度 東経127.668944度