和気彜範
和気 彜範(わけ の つねのり)は、平安時代前期の貴族。隠岐守・和気時盛の子とする系図がある[1]。官位は従四位下・伊予守。
時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 仁和4年5月3日(888年6月15日) |
官位 | 従四位下・伊予守 |
主君 | 清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇 |
氏族 | 和気氏 |
父母 | 父:和気時盛 |
兄弟 | 巨範?、彜範 |
経歴
編集木工大允を経て、清和朝の貞観2年(860年)従五位下に叙爵し、翌貞観3年(861年)木工権助に昇格する。貞観7年(865年)木工頭・紀春枝や木工権頭・有宗益門ら木工寮の官人らと共に近江国へ派遣されている[2]。貞観9年(867年)少納言に転じて、のち侍従を兼ね、清和朝後半は少納言兼侍従として天皇の身近に仕えた。また、同年には円珍を延暦寺座主とする使いも務めた[3]。貞観11年(869年)従五位上に叙せられ、翌貞観12年(870年)検河内国水害堤使に任ぜられる。またこの間、以下の奉幣使も務めた。
- 貞観3年(861年)雨乞いのための平安京近郊の名神七社への奉幣使[4]
- 貞観7年(865年)阿蘇山神霊池の変に伴う豊前国八幡大菩薩奉幣使[5]
- 貞観7年(865年)盾と矛の奉納のための石清水八幡大菩薩宮奉幣使[6]
- 貞観14年(872年)国内外の頻繁な怪異発生に伴う石清水社奉幣使[7]
貞観19年(877年)正月の陽成天皇の即位に伴い正五位下に昇叙される。まもなく内蔵頭に遷り、同年4月に大極殿の起工を行った際、権左中弁・藤原春景や木工権頭・藤原維邦らと共に行事を仕切った[8]。元慶3年(879年)従四位下に叙せられる。元慶7年(883年)渤海使が来日した際には、鴻臚館に派遣されて貢物と回賜の交換対応を行っている[9]。
元慶8年(884年)光孝天皇の即位後まもなく山城守として地方官に転じるが、翌元慶9年(885年)内蔵頭に復任する。仁和3年(887年)伊予守に任ぜられ再び地方官を務めた。
官歴
編集『日本三代実録』による。