周東英雄

日本の政治家、官僚

周東 英雄(すとう ひでお、1898年1月27日 - 1981年8月8日)は、日本の政治家官僚農林大臣自治大臣などを歴任した。正三位勲一等旭日大綬章

周東 英雄
すとう ひでお
生年月日 1898年1月27日
出生地 山口県大津郡三隅村(現・長門市
没年月日 (1981-08-08) 1981年8月8日(83歳没)
出身校 東京帝国大学法学部独法科
所属政党日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 叙・正三位

日本の旗 第10・29代 農林大臣
内閣 第2次吉田内閣
第2次池田内閣
在任期間 1948年10月19日 - 1949年2月16日
1960年12月8日 - 1961年7月18日

内閣 第1次池田内閣
在任期間 1960年10月13日 - 1960年12月8日

内閣 第3次吉田第3次改造内閣
在任期間 1952年8月1日 - 1952年9月2日

日本の旗 第5代 建設大臣
第2代 北海道開発庁長官
内閣 第3次吉田第1次改造内閣
在任期間 1951年6月7日 - 1951年7月4日

内閣 第3次吉田第1次改造内閣
第3次吉田第2次改造内閣
第3次吉田第3次改造内閣
在任期間 1950年6月28日 - 1952年7月31日

その他の職歴
日本の旗 第7代 賠償庁長官
(1951年6月7日 - 1951年12月27日[1]
日本の旗 衆議院議員
1947年4月26日 - 1969年12月2日
第12代 自由民主党政務調査会長
(総裁: 池田勇人
1964年 - 1965年
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1953年

来歴・人物

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山口県大津郡三隅村(現・長門市)生まれ。少年時代より京都で過ごし、京都一中(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校を経て、1921年東京帝国大学法学部独法科を卒業。農商務省に入省する。後に農林大臣を務めた井野碩哉の懐刀として、農林省米穀局長、農務局長、総務局長の要職を務める。その後企画院第四部長、商工省物価局長官を経て、1942年帝国油糧統制会社初代社長となる。

戦後の1946年第1次吉田内閣にて内閣副書記官長に就任し、書記官長林譲治のお株を奪う八面六臂の活躍ぶりを見せ、吉田茂に引き立てられた。1947年前年の総選挙に出馬予定だった安倍寛1946年死去)の後継役として出馬し当選しながら公職追放された木村義雄の後継役として、第23回衆議院議員総選挙自由党から旧山口1区にて立候補し当選する[2](当選同期に田中角栄鈴木善幸中曽根康弘増田甲子七中山マサ松野頼三倉石忠雄荒木万寿夫石田博英原田憲園田直櫻内義雄根本龍太郎中村寅太など)。以後当選を重ね、通算9回。吉田政権下で重用され、1948年第2次吉田内閣で農林大臣、1950年第3次吉田内閣第1次改造内閣で国務大臣(経済安定本部総務長官、賠償庁長官)として入閣する。

保守合同後は宏池会に所属し、1960年浅沼稲次郎暗殺事件のため引責辞任した山崎巌の後任として自治大臣となり、続く第2次池田内閣では2度目の農林大臣に就任する。この他自民党政調会長も務めた。1969年、政界を引退(地盤は林義郎が引き継いだ)。1973年勲一等旭日大綬章受章。1981年8月8日死去。享年83。叙・正三位

脚注

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出典

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  1. ^ 『官報』第7494号、1951年(昭和26年)12月29日、p.663、叙任及び辞令
  2. ^ AERA NO.37「安倍家三代 世襲の果てに」

関連項目

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議会
先代
荒舩清十郎
  衆議院議院運営委員長
第15代:1960年
次代
福永健司
公職
先代
南条徳男
永江一夫
  農林大臣
第29代:1960年 - 1961年
第10代:1948年 - 1949年
次代
河野一郎
森幸太郎
先代
山崎巌
  自治大臣
第3代:1960年
次代
安井謙
先代
山崎巌
  国家公安委員会委員長
第12代:1960年
次代
安井謙
先代
設置
  経済審議庁長官
初代:1952年
次代
山崎猛
先代
増田甲子七
  建設大臣
第5代:1951年
次代
野田卯一
先代
増田甲子七
  北海道開発庁長官
第2代:1951年
次代
野田卯一
先代
増田甲子七
  賠償庁長官
第7代:1951年
次代
岡崎勝男
先代
青木孝義
  経済安定本部総務長官
第8代:1950年 - 1952年
次代
廃止
先代
青木孝義
  物価庁長官
第8代:1950年 - 1952年
次代
廃止
先代
新設
  内閣官房次長
1947年
次代
瀧川末一
党職
先代
三木武夫
自由民主党政務調査会長
第12代 : 1964年 - 1965年
次代
赤城宗徳
先代
結党
民主自由党政務調査会長
初代:1948年
次代
青木孝義