周 嵒(しゅう がん)は中華民国台湾)の軍人。奉璋

周 嵒
Chou Yen
生誕 1895年12月26日
光緒21年11月11日)
清の旗 浙江省紹興府嵊県
(現:紹興市嵊州市
死没 (1953-07-22) 1953年7月22日(57歳没)
民国42年)
中華民国の旗 中華民国 台湾省台北市
所属組織 中華民国陸軍
軍歴 1916 - 1952
最終階級 二級上将(追贈)
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周嵒
職業: 軍人
各種表記
繁体字 周嵒
簡体字 周岩
拼音 Zhōu Yán
ラテン字 Chou Yen
和名表記: しゅう がん
発音転記: ヂョウ イェン
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事跡

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浙江中学、浙江陸軍小学、浙江第二予備学校をそれぞれ卒業した。1914年民国3年)8月、保定陸軍軍官学校第3期砲兵科に入学し、1916年(民国5年)8月に卒業した。その後は浙江陸軍に編入され、1924年(民国13年)には陸軍大学正則班第7期として学んだ。1927年(民国16年)に卒業している。

その直後、周嵒は国民革命軍に転じ、1928年(民国17年)春に第26軍第5団団長に昇進した。以後も着実に昇進し、1933年(民国22年)3月、第6師師長となり、第4次・第5次の中国共産党紅軍)掃討作戦に従事した。1935年(民国24年)4月、陸軍中将の位を授与されている。西安事変後に第6師を率いて陝西省入りした。1937年(民国26年)1月、討逆軍第4集団軍第4縦隊指揮官を務めている。

同年に日中戦争が勃発すると、周嵒は第75軍軍長に昇進し、第2次上海事変(淞滬抗戦)で日本軍と交戦している。翌年春には台児荘の戦いにも参戦した。6月、江南区指揮官を兼任し、武漢防衛戦(日本側呼称・武漢作戦)に参戦している。1939年(民国28年)1月、第31集団軍副総司令に昇進し、翌1940年(民国29年)5月、棗宜会戦に参戦した。同年7月に第26集団軍総司令に昇進し、1943年(民国32年)11月、常徳会戦に参戦している。1945年(民国34年)5月、中国国民党第6期中央監察委員に当選した。

戦後の同年8月、周嵒は第6戦区副司令長官に就任し、翌1946年(民国35年)2月、同戦区を再編した第6綏靖区司令官となった。1948年(民国37年)9月、第1綏靖区司令官に異動する。1949年(民国38年)1月、京滬警備副総司令兼浙江警備司令となり、翌月、浙江省政府主席に任ぜられた(共産党への内通を図り解任・逮捕された陳儀の後任)。国共内戦敗北に伴い台湾に逃れ、総統府戦略顧問となる。1952年(民国41年)10月、退役した。

1953年(民国42年)7月22日、台北市にて病没。享年59(満57歳)。

参考文献

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  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  中華民国国民政府
先代
陳儀
浙江省政府主席
1949年2月 - 1950年?
次代
(廃止)