呉郡
概要
編集129年(永建4年)、会稽郡を分割して呉郡が置かれた[1]。後漢の呉郡は揚州に属し、呉・海塩・烏程・余杭・毗陵・丹徒・曲阿・由拳・安・富春・陽羡・無錫・婁の13県を管轄した[2]。
晋のとき、呉郡は呉・嘉興・海塩・塩官・銭唐・富陽・桐廬・建徳・寿昌・海虞・婁の11県を管轄した[3]。
南朝宋のとき、呉郡は呉・婁・嘉興・海虞・海塩・塩官・銭唐・富陽・新城・建徳・桐廬・寿昌の12県を管轄した[4]。
南朝斉のとき、呉郡は呉・婁・海虞・嘉興・海塩・銭唐・富陽・塩官・新城・建徳・寿昌・桐廬の12県を管轄した[5]。
589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、呉郡は廃止されて、蘇州に編入された。605年(大業元年)、蘇州は呉州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、呉州は呉郡と改称された。呉郡は呉・崑山・常熟・烏程・長城の5県を管轄した[6]。
621年(武徳4年)、唐が李子通を平定すると、呉郡は蘇州と改められた。742年(天宝元年)、蘇州は呉郡と改称された。758年(乾元元年)、呉郡は蘇州と改称され、呉郡の呼称は姿を消した[7]。