吉良貞家
吉良 貞家(きら さだいえ)は、南北朝時代の武将。初代奥州管領[1]。陸奥国の南朝勢力の制圧に努めた。
時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 左馬助・修理権大夫・右京大夫 |
幕府 | 室町幕府 因幡・但馬守護 評定衆 奥州管領 |
主君 | 足利尊氏→直義 |
氏族 | 奥州(武蔵)吉良氏 |
父母 | 父:吉良経家 |
兄弟 | 貞家、貞経、氏家 |
子 | 満家、治家 |
略歴
編集三河国幡豆郡吉良荘[2]の奥州(武蔵)吉良氏(前期東条吉良氏)3代当主・吉良経家の嫡男として誕生。幡豆郡東条城に居城したと考えられるが、この時期の詳細については史料が乏しく不明である。
元弘の乱では他の吉良一族と共に足利宗家に従ったと考えられ、建武の新政期に足利尊氏の弟・直義に従い関東に下向、建武元年正月(1334年2月)に関東廂番[3]六番衆の第三番の頭人に任ぜられ、成良親王警護の任を負った。同僚には一族の吉良満義[4]がいた。
南北朝の内乱が始まると、建武2年(1335年)12月の箱根・竹ノ下の戦いに参加した後、足利尊氏の本軍とは分かれ、建武3年(1336年)正月から2月にかけて尾張国・三河を転戦、2月に三河矢作で軍を再編して関東へ向かった。関東では鎌倉や下野国で南朝軍と戦い、南朝軍に追われ九州に出奔していた尊氏が反攻で京を奪回すると、8月ごろ上洛して本軍に合流、因幡国・但馬国両国の守護職に任じられ[5]また、幕府評定衆・五番制引付方の二番頭人をも歴任した。
興国6年/康永4年/貞和元年(1345年)、畠山国氏と共に奥州管領に補任され、奥州国府に下向・着任、奥州を拠点に反北朝活動を展開する北畠氏など南朝軍と戦う。
観応の擾乱には直義方として畠山氏と対立、正平6年/観応2年2月(1351年3月)畠山高国・国氏父子を陸奥大仏城に攻めて自刃させた[6]。3月、高師直、高師泰の軍勢が陸奥岩切城に援軍を出すという報を得て、結城朝胤に白河関を守らせた[7]。4月、出羽国において円覚寺領を横領していた少輔与一への是正を、足利直義より指示される[8]。
7月から11月にかけて、陸奥行方郡、山村城、高野郡などに沙汰を出す[9]。11月、宇津峰宮(守永親王)と名取郡広瀬川で戦うも敗北、伊具郡の伊具館に退却する[10]。翌正平7年/文和元年3月(1352年)貞家の軍は陸奥府中城に依る南朝軍を攻めて陥落させた[11]。その後、陸奥の南朝勢力を宇津峰城に追い詰め[12]、 正平8年/文和2年(1353年)5月に陥落させた[13]。
その後の動向は正平9年(1354年)以降には貞家の現れる史料が存在しなくなるため、この頃に死没したと推定されている。
脚注
編集- ^ 畠山国氏も同じく奥州管領に任じられた。
- ^ 愛知県幡豆郡吉良町。
- ^ -ひさしばん。
- ^ 西条吉良氏。
- ^ 守護職在任記録は因幡守護職は建武3年から正平元年(1346年)まで、但馬守護職は延元3年11月(1338年)が知られている。
- ^ 『大日本史料』6編14冊724頁。二月十二日条。「結城古文書写」
- ^ 『大日本史料』6編14冊869頁。「結城文書」
- ^ 『大日本史料』6編14冊971頁。「前田家所蔵文書」
- ^ 『大日本史料』6編15冊120頁、6編15冊300頁、6編15冊497頁、6編15冊541頁、6編15冊545頁。
- ^ 『大日本史料』6編15冊602頁。「結城古文書写」、「相馬文書」
- ^ 『大日本史料』6編16冊348頁。「白川文書」
- ^ 『大日本史料』6編16冊715頁。「白川文書」
- ^ 『大日本史料』6編18冊57頁。「大国魂神社文書」、「白川文書」
出典
編集- 今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典(上)』新人物往来社刊(ISBN 4-404-01501-1 C1521)
- 『安城市史1 通史編 原始・古代・中世』安城市、2007年。
- 東京大学史料編纂所データベース『大日本史料』