吉川之経
吉川 之経(きっかわ ゆきつね)は、室町時代中期から戦国時代前期にかけての武将。安芸国国人・吉川氏10代当主。
時代 | 室町時代中期 - 戦国時代前期 |
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生誕 | 応永22年(1415年) |
死没 | 文明9年1月7日(1477年1月21日)[1] |
改名 | 経幸[1]→之経 |
別名 | 左衛門大夫[1]、経幸 |
戒名 | 大智院正観中公 |
官位 | 伊豆守[1]、左衛門大夫 |
主君 | 室町幕府足利将軍家 |
氏族 | 藤原南家工藤流吉川氏 |
父母 | 父:吉川経信[1] |
兄弟 |
之経、宮庄経友[2]、志路原信経[1][2]、 大塚経方[2]、庄式部大輔室、 宍戸元家室(後村上氏室)、河上讃岐守室 |
子 | 経基[1][2]、元信、経清、出羽祐盛室、福屋教兼室 |
康正2年(1456年)、父吉川経信の死去により吉川氏の名跡を継ぐ。安芸分郡守護武田信賢と所領をめぐって争うが、小早川氏の仲介を受けて和解している。翌長禄元年(1457年)、周防国・長門国守護大内教弘が厳島神主家との関係で武田信繁(信賢の父)の佐東銀山城を攻めた際には、管領細川勝元の命を受けて毛利煕元ら安芸国人と共に信繁を支援して大内軍を撃退した(山本合戦)。その後、子の経基に実権を譲渡している。
応仁元年(1467年)の応仁の乱に際しては、東軍の細川方に加わって京都へと出兵し、相国寺周辺での戦闘にも参加した。この京都周辺での戦闘において経基は勇戦奮闘し、その武勇を天下に轟かせた。
文明9年(1477年)正月7日に死去。享年63。
脚注
編集出典
編集参考文献
編集- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 中国新聞社『歴史紀行 安芸吉川氏』新人物往来社、1988年6月。ISBN 4-404-01517-8。
- 光成準治 編『吉川広家』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第四巻〉、2016年。ISBN 978-4-86403-215-5。