吉井町 (福岡県)
日本の福岡県浮羽郡にあった町
吉井町(よしいまち)は、かつて福岡県の中南部にあった町、および現在のうきは市における旧同町町域の地域である。
よしいまち 吉井町 | |||||
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筑後吉井の白壁通り | |||||
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廃止日 | 2005年3月20日 | ||||
廃止理由 |
新設合併 浮羽町・吉井町 → うきは市 | ||||
現在の自治体 | うきは市 | ||||
廃止時点のデータ | |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 九州地方 | ||||
都道府県 | 福岡県 | ||||
郡 | 浮羽郡 | ||||
市町村コード | 40481-1 | ||||
面積 | 28.29 km2 | ||||
総人口 |
17,182人 (推計人口、2005年3月1日) | ||||
隣接自治体 | 浮羽郡浮羽町・浮羽郡田主丸町・朝倉郡朝倉町・朝倉郡杷木町・八女郡星野村 | ||||
町の木 | モクセイ・カリン | ||||
吉井町役場 | |||||
所在地 |
〒839-1393 福岡県浮羽郡吉井町大字新治316番地 | ||||
座標 | 北緯33度20分50秒 東経130度45分18秒 / 北緯33.34731度 東経130.75492度座標: 北緯33度20分50秒 東経130度45分18秒 / 北緯33.34731度 東経130.75492度 | ||||
ウィキプロジェクト |
2005年3月20日に浮羽郡浮羽町と合併し、うきは市として市制施行したため自治体としての吉井町は消滅した。なお、合併後の人口は約3万4000人であった。現在、町役場はうきは市役所吉井庁舎(議会設置庁舎)となり、業務が行われている。
地理
編集福岡県の中南部(筑後地方)、福岡市の南東約40km、久留米市中心部から東に約25kmの場所に位置しており、現在のうきは市の北西部にあたる。町の北部を筑後川が、町の中央部を巨瀬川がそれぞれ東西に流れている。北部から中央部にかけては筑後平野の東端部にあたり比較的平坦な地形で、南部は耳納山地の一角を占めており山がちな地形である。
中心部は町の中央部にある。
隣接していた自治体
編集歴史
編集近現代
編集- 1889年4月1日 - 町村制施行により生葉郡吉井町・千年村・江南村・福富村、竹野郡船越村が発足。
- 1896年2月26日[矛盾 ][矛盾 ] - 生葉郡と竹野郡が合併して浮羽郡となる。
- 1955年1月1日 - 吉井町・千年村・江南村・福富村・船越村の一部が新設合併し、吉井町が発足(船越村の他の地域は田主丸町へ編入)。
- 1955年4月18日 - 田主丸町の一部を編入。
- 1969年7月1日 - 集中豪雨により巨瀬川の堤防が決壊。浮羽町と合わせて約1300戸が床上、床下浸水。災害救助法が適用される被害となった[1]。
- 1996年2月26日 - 浮羽郡田主丸町と境界変更。
- 2001年3月12日 - 朝倉郡朝倉町及び浮羽郡田主丸町と境界変更。
- 2003年2月14日 - 浮羽郡浮羽町と境界変更。
- 2005年3月20日 - 浮羽町と新設合併して市制施行、うきは市となり消滅。
経済
編集産業
編集- 農業
『大日本篤農家名鑑』によれば吉井町の篤農家は、「橋詰好、橋詰又三郎、原吉徳、原皎、鳥越新七、鳥越密三郎、鳥越吉太郎、彌吉澤次郎」などである[2]。橋詰又三郎、松田大策、矢野静一は農業を営み、福岡県多額納税者であった[3]。
- 商工業
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地域
編集教育
編集高等学校
編集小・中学校
編集- 吉井中学校
- 千年小学校
- 吉井小学校
- 福富小学校
- 江南小学校
いずれも吉井町立から合併によりうきは市立となった。
交通
編集鉄道
編集バス路線
編集一般路線バス
編集道路
編集一般国道
編集県道
編集主要地方道
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
編集- 吉井温泉(国民保養温泉地)
- 筑後吉井地区 (重要伝統的建造物群保存地区)
吉井町出身の有名人
編集脚注
編集参考文献
編集- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 帝国実業奨励会編『福岡県壱万円以上実業家資産名鑑と大日本富豪家蓄財の経歴 大正11年8月現在』若越書院、1922年。
- 交詢社編『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』交詢社、1933年。