史学史(しがくし)とは、歴史学研究史である。具体的には、歴史事実研究に関する歴史意識と学説の歴史、また、歴史観の変遷に関する歴史のことである。

ゴヤ1800年ごろの作『時間・真理・歴史』
右の老人が「時間」、左が「真理」、そして前面にいて筆写をしているのが「歴史」である。「歴史」は足下にある書物を疑い深げに見ながら、別の書物に書き写している。

必要性と前史

編集

定義とその必要性

編集

史学史は、狭義には近代に成立した歴史学の学説史のことを指すが、近代歴史学以前にも歴史記述を対象とし、歴史事実や歴史意識、歴史観などを記述する学問的営みが行われていた。また、それらを記述するに当たっては様々な方法論が用いられ、その方法論は近代歴史学の研究方法に大きく影響をおよぼしている。同時に、近代歴史学自体が近代以前の歴史記述を主要な研究対象としているため、事実把握において、それらの歴史記述の客観性を検討(史料批判)しなければならず、したがって、史料がどのような方法論にもとづいて記述されているかは主要な関心となる。ここに、広義の意味での史学史、すなわち、歴史記述や歴史意識、歴史観の変遷の歴史も歴史学の対象として成立する[注 1]

歴史意識と歴史記述

編集

歴史学研究が成立するには、歴史観、あるいは歴史意識の成立とそれにもとづいた歴史記述の存在が前提とされる[注 2]。独特の時間意識としての歴史意識が存在していても、それが記述されない場合は記述としての歴史が存在しないことがある[注 3]。歴史意識とは時間が一定方向に流れていくという時間意識のことであるが、これはある一定の時点から現在までの直線として時間を把握する紀年法的発想を必要とする。したがって、時間を一定の暦という形で把握する暦思想の成立なくして歴史記述は成立しない。

同時代記述と歴史記述

編集
 
ハンムラビ(左側の人物)
バビロン第1王朝の代表的な君主。ハンムラビ法典を制定したことで有名。ハンムラビ王の在位43年のそれぞれの年がどのように記録されたかは研究により解明されている。

このような暦思想の成立以前、すでに文字による同時代の出来事記述はされていた。文字は元来古代の行政・財政の記録を保存する必要性から発明されたと考えられている。このような行政文書においては、当然、「いつ」、「どこ」で「誰」と「誰」が「どのような」取引をおこなったかが主要な関心となるため、その「いつ」の部分を特に重要な出来事を目安にして記録されることが行われた。このように、出来事にもとづいてある一年をほかの年から区別する方法は古代メソポタミアのウル第3王朝時代にはすでに成立していたといわれる[注 4]

時代が進むと、王の在位年と主な業績を付記した王名表という文書が出現し、王名表は王朝を一つの歴史的連続性によって認識していることを示しており、歴史意識とその記述の原型を見ることができる。ただし、この王名表において個々の王は一人称で記述され、同時代向けのプロパガンダ的側面が看取される点で客観的な歴史記述とは異なるものであった。

一方で、支配者は主に軍事的成功など自らに関する特別な出来事があった場合は記念碑を作ってこれを顕彰した。これは出来事をただ記すのではなく、その偉大さ重要性などを具体的に叙述することで事実としての歴史を文章にして表現したものであった。このような碑文はあくまで同時代を対象としている点で歴史記述ではないが、その記載に対しての態度は歴史の記述方法に継承されるものであった。

やがて、古代オリエント末期の新バビロニア時代になると、歴代誌という形式の文書が出現する。これは新バビロニアの数代の王の治世を記述対象としているもので、文書内で王を三人称で呼んでいることから、客観的な事実を記載する意図を持ったと思われる。したがって、今日的な意味での歴史記述の成立はこの歴代誌に求めることができる。やがて、時代をさかのぼって新バビロニア以前の王朝を歴代誌と同じように記載する文書が出現し、現在ある王朝以前からの連続した世界を客観的に記述する意図を持つ歴史編纂の態度が現れた。このような歴史を編纂する営みのことを「修史」という。歴史記述としての歴史学はまず修史として成立した。

歴史的展開

編集

近代歴史学との関連性から、ここでは主に西ヨーロッパの歴史記述と記述方法論を中心に概観する。西ヨーロッパ以外の地域でも独自の歴史記述がおこなわれていたが、それについての詳細は割愛し、地域ごとの歴史記述に関する記事・史学史記事に譲る。

古代ギリシャにおける歴史記述の始まり

編集
 
ヘロドトス(左側)とトゥキュディデス(右側)

歴史記述としての歴史学の始まりは古代ギリシャであるというのが一般的である[注 5]。古代ギリシャの代表的な歴史家として挙げられるのはヘロドトストゥキュディデスである。彼らの著作は同時代的な出来事の原因と推移を示すために歴史記述をしている点が特徴としてあげられる[注 6]。また記載されている事実は両者が実際に見聞したものが大半で、記述に当たって自分の見聞以外の原史料を使用している痕跡があまりない[注 7]。(詳細は西洋古代の歴史記述を参照

ヘロドトス

編集

一般に、「歴史学の父」といわれるヘロドトスは紀元前5世紀のギリシャの人である。彼はアケメネス朝とギリシャのポリスの間で起こったペルシア戦争の原因と推移を詳述し、さらにはその勝敗の理由を両者の政治体制の相違に求めた。ヘロドトスの歴史記述の特徴は、客観的な事実性をあまり重視しておらず、自身の見聞にもとづいてさまざまな伝承伝説を多く著述していることが挙げられ、これが後述するトゥキュディデスの批判するところとなった[注 8]

トゥキュディデス

編集

一方、ギリシャのポリス間同士でおこなわれたペロポネソス戦争を記述したトゥキュディデスは、ヘロドトスが伝承や伝説までも記述の対象としていたのを批判し、検証性を重視して歴史を記述した[注 9]。一方で、トゥキュディデスの歴史記述に登場する為政者の演説などは創作性が大きく、また、見聞に頼っているせいか、事実の記述においてやや偏りがみられる[注 10]

古代中国における歴史記述の始まり

編集
 
司馬遷
『春秋』などの先行する史書、諸子百家と呼ばれた思想家たちの著作や自身の見聞をもとに、当時の中国世界の体系的な歴史書である『史記』を著した。

古代中国においては、歴史記述はその成立の当初から批判精神にもとづいて実践的に扱われていた[注 11]儒教の始祖である孔子の歴史書である『春秋』を重視したが、この『春秋』にはすでに漢代初期には独自の注解を加えた『左伝』、『公羊伝』、『穀梁伝』の三種が存在した[注 12]。古代中国では当初から文献考証を通じた歴史の解釈が盛んに行われ、高度に発達した歴史記述が行われた[注 13]

孔子と春秋学

編集

孔子はその政治思想を述べるに当たって、実際、政治における実践性を特に重視し、また、その思想の、古の時代を賛美する復古主義的な性格から歴史事実を尊重していた。したがって、孔子の教えを継承した思想家たちは歴史記録を解釈することを主要な関心とするようになり、とくに、孔子が重んじた『春秋』を解釈する学問、「春秋学」が成立した。漢代儒教が国教化されると、春秋学も歴代王朝の公的な歴史記述である正史の編纂方法の重要な根拠となった[注 14]

司馬遷

編集

司馬遷が著した歴史書『史記』は、神話の時代から司馬遷自身の時代に至るまでの正統的な支配者を「本紀」として中心に著述し、中国国内の諸国史、中国国内の社会史、法制史、周辺異民族などの歴史を本紀の周りに配した構成となっており、中国の支配者を中心とした体系的な世界史になっている[注 15]。司馬遷以後中国の歴史書はこの連続性・体系性が重視されるようになり、歴代王朝で正史が編纂されるようになるが、それらはほぼ『史記』の体裁を継承するものであった[注 16]

西洋中世における歴史記述の推移

編集
 
アウグスティヌス
代表的な著作『神の国』では、二元的な世界観を示し、以後のキリスト教神学・政治思想・歴史観などに決定的な影響を与えた。

キリスト教がヨーロッパで支配的となると、学問分野においてもキリスト教の世界観が支配的となった。ここにの意図を実現する過程として歴史を捉える見方が現れ、個別の国家・民族・個人を超えた歴史の根本法則を見出す観点、普遍史の観点が成立した[注 17]。しかしルネサンス期になると普遍史的観点は薄れ、同時代史を重視するようになった。(詳細は西洋中世の歴史記述ルネサンスの歴史記述を参照

アウグスティヌスと「二国史観」

編集

中世の歴史記述の特徴の一つとして「二国史観」という観点がある[注 18]。これはキリスト教的世界である「神の国」と神を侮る人間の自己愛的世界である「地の国」の対立のもとに歴史を把握する歴史観で、アウグスティヌスによって理論づけられ、歴史は「地の国」に「神の国」が実現する過程であると理解された。ここに歴史事実の背景に何らかの根本法則を見出そうとする歴史意識が成立したが、この意識はキリスト教的精神によって支えられていたために、キリスト教の権威が相対的に弱まるとともに希薄化した。

ルネサンス期の歴史記述(マキャヴェリとグイッチャルディーニ)

編集

キリスト教の権威が弱まり、普遍史的意識が希薄化すると、歴史記述は再び同時代史を中心になされるようになった。ルネサンス時代の代表的政治思想家で歴史家でもあるマキャヴェリの『フィレンツェ史』[34]は、民族移動から1492年ロレンツォ・デ・メディチの死にいたるまでのフィレンツェイタリア半島の歴史であるが、その冒頭から1434年に至るまでの歴史は全9巻[注 19]の中でただ1巻で述べられているに過ぎない。彼の同時代人で『フィレンツェ史』[35]・『イタリア史』[36]を著したグイッチャルディーニに至っては、同時代史の比重がより大きくなり、この点で古代ギリシャの歴史記述と同じ傾向を持つものとなった[注 20]

啓蒙主義の歴史記述

編集
 
モンテスキュー
啓蒙主義を代表する政治思想家。歴史研究を実際の政治理論に応用し、その著作はいまなお古典として高い評価を受けている。

理性の不変と普遍を主張し、あらゆる物事を理性によって体系づけようとする啓蒙思想がヨーロッパで支配的になると、歴史記述にも大きな影響を与えた。啓蒙思想は懐疑と批判によって、歴史記述に事実尊重・方法論重視の傾向をもたらし、さらに歴史研究を実践に結びつけようという風潮につながった。(詳細は啓蒙主義の歴史記述を参照

フランス(ベールからボーフォールまで)

編集

ベールは『歴史批評辞典』を著し、具体的な事実をそれ自体として尊重する立場を示し、既存の歴史記述の誤謬を指摘した[注 21]。事実を尊重するベールから始まった啓蒙主義の歴史研究はやがて、実践的な歴史記述に結びついた。ブーランヴィリエは『フランス旧統治史』[40]を著し、貴族の復権を訴えたが、彼は当時フランス政府が行った各地の古い慣行についての報告書を検討してその主張の根拠とした。デュボスの『フランス王政樹立の批判的歴史』[41]はブーランヴィリエとは逆に、貴族とその特権を攻撃するものであったが、彼はフランス王権の由来を、民族大移動の際にガリアローマ系住民とフランク族の間で交わされた契約の結果であるとし、それを根拠とした。このように啓蒙主義の歴史研究は過去の事実を尊重する立場から、やがて過去の事実を現在の批判の材料として使用する実践的な側面を持つようになった。

この意味で、啓蒙主義の歴史家の典型を示し、かつ評価が高いのはモンテスキューである。彼は代表的著作『ローマ人盛衰原因論』[42]および『法の精神』[43]において、歴史事実から理論的なモデルを抽出し、それを現在の社会に適用して問題解決の手段に利用しようとした[注 22]。一方でボーフォールは『ローマ史最初の五世紀の不確実さに関する論文』[45]を著し、ローマ史冒頭のロームルスレムスに始まる王政の歴史が神話と伝説に過ぎないことを論じた。ボーフォールの研究は近代歴史学に直接つながるものであった[注 23]

イギリス(ヒューム、ロバートソン、ギボン)

編集
 
ヴィーコ
デカルト的方法論を批判し、「自然科学とは別個に社会科学の研究分野が確立されるべきだ」と述べたが、彼の思想は同時代にはほとんど顧みられることがなかった。

ブリテン島での啓蒙主義的歴史研究は、まずスコットランドで「スコットランド啓蒙主義」と呼ばれた思想家たちの間で行われた。このスコットランド啓蒙主義の代表的著作はヒュームの『イングランド史』[47]であるが、これも前期ステュアート朝の君主、とくにチャールズ1世を悪の権化とするような当時の風潮に対する批判が込められていた[注 24]。スコットランド啓蒙主義は事実をそのまま記述しようという叙述的歴史を重視する態度に進み、ロバートソンの『スコットランド史』[49]・『カール5世時代史』[50]につながり、さらにイングランドギボンによる『ローマ帝国衰亡史』[51]などの歴史叙述を生んだ。

独立した先駆的研究(ヴィーコとミシュレ)

編集

上述したような啓蒙主義の主流とは独立に、歴史研究の独自な方法論を模索したのがヴィーコであった。ヴィーコは自然認識を重視するデカルト的方法論を批判し、自然認識と歴史認識は異なるものであると述べた[注 25]。一見これは神学的な「二国史観」に接近しているようであるが、ヴィーコは神の意図の実現が歴史の過程であるとしても、それが人間行為としてまず行われるのであり、したがって神の意図を考えなくても人間行為の過程を把握することが可能であるとして、神学的解釈を歴史認識に持ち込むことも拒否した。

しかし啓蒙主義の時代にはヴィーコの影響は非常に限られており、ほとんど顧みられることがなかった[注 26]19世紀の歴史家ミシュレはこのヴィーコの著作を発掘し、歴史研究において分析力よりも構想力のほうが重視されるべきことを主張したが、これもほとんど顧みられなかった[注 27]

古文書学の成立

編集
 
マビヨン
文書批判の客観的な方法を確立し、古文書学の祖となった。

一方で歴史記述とは別個に、史料の批判的研究が着実な発展を遂げていた。それはいわゆる「古文書学」で、ベネディクト派の学僧マビヨンによって確立された。ただし古文書の真偽についてはマビヨン以前にすでに先行する研究があり、ここではその代表としてヴァラを紹介する[注 28]

ロレンツォ・ヴァラ

編集

ヴァラは15世紀の人文主義者で、『偽イシドールス法令集』[注 29]中の『コンスタンティヌス帝の寄進状』という文書が偽作であることを明らかにした。この文書は中世を通じて、教皇領および教皇権に関する重要な根拠とされてきたので、教会は彼を宗教裁判にかけたが、このことはこの時代、文書批判が既存の宗教や権威、慣習の批判につながっていたことを示している。事実、宗教改革の時代になると、文書批判は急速に発展したが、それは両派が文書を武器として互いの正統性を争うものであったことに帰せられる[注 30]

ジャン・マビヨン

編集

17世紀フランスベネディクト派の一派サン・モール派に属する学僧であったマビヨンは、アシェリの招きを受けてサン・ジェルマン・デ・プレ修道院に入り教団史や聖者伝などの編纂にあたるとともに、古文書の収集や刊行をおこなっていた。彼は1681年に『古文書論』[57]を著し、さまざまな文書を分類し定義づけた上で、インクや書体などを考察した。さらに言語がラテン語ギリシャ語などの古典語で書かれているか、それがどの程度まで古典的かなどの度合いで、その文書の時代性を明らかにできると述べた[注 31]。このことにより、さまざまな文書相互間の関係から客観的に文書の真偽を識別できる方法が確立され、古文書学が成立した[注 32]

近代歴史学の成立

編集
 
ランケ
「特殊から一般へ」と述べて個別的歴史事実の重視を唱え、史料批判を方法論の中心に据えて近代歴史学を確立した。

一般に近代歴史学の成立はニーブールランケの研究を画期としていると考えられている。彼らの歴史研究の特徴は主に以下の3つである。

  1. 歴史事実の個別的把握
  2. 方法論としての史料批判
  3. 個別事実の一般化(世界史の形成)

これをいままで概観した近代以前の歴史研究の歴史に当てはめてみると、1.は啓蒙主義の歴史学に、2.は古文書学に、3.はキリスト教的な普遍史に求めることができる。この点で近代歴史学は近代以前の歴史学の総合として成り立っていた[注 33]

ニーブール

編集

ニーブールはボーフォールの伝承批判の精神を継受し、具体的な方法論としては複数の文献相互の整合性を検討する史料批判を用いて『ローマ史』[64]を記述した。このなかでニーブールは「海が流れをとりいれるように、ローマの歴史は、それ以前に地中海周辺の世界で名をあげられていた他の全ての諸民族の歴史を取り入れる」[注 34]と述べ、世界史のなかにローマ史を位置づけようとする試みが見られる。

ランケ

編集

ランケはニーブールの『ローマ史』の方法論を近代史(彼から見て)の分野にも活かし、史料批判を通じて15世紀-16世紀のヨーロッパ外交の構造から国家を個別的に把握する方法に考えついた。ランケは国家を一般化して考える啓蒙主義を批判して、国家を個別的に把握すべきと論じ、このような個別的歴史事実の相互関係から世界史を把握すべきことを提唱した。

近代歴史学の展開

編集
 
ドロイゼン
プロイセン学派の重鎮で19世紀後半のドイツ史学界に君臨した。元々は古代史を専門としており、彼の『ヘレニズムの歴史』によってヘレニズムという言葉の今日的な意味が定着したとされている。シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題など民族的な問題に強い関心を示した。

ランケの歴史研究はドイツにとどまらずヨーロッパ各国に衝撃を与えたが、ランケ以後の歴史学の性格はドイツとイギリス・フランスでは異なる方向へ進んだ。ドイツでは政治色の強いプロイセン学派が台頭し、ランケの禁欲的な客観主義が批判されたが、イギリス・フランスではそれぞれ功利主義進化論実証主義に影響されて、より科学的な方法論を追求する姿勢が現れた。

詳細は近代の史学史を参照

プロイセン学派

編集

ドイツでは、1830年代の後半にフリードリヒ・ダールマン英語版が登場し、民族主義自由主義の風潮が高まった現実政治の影響を濃厚に受けた歴史叙述を著した。続くドロイゼンハインリヒ・フォン・ジーベル英語版も政治色の強い歴史研究を展開し、彼らは現実政治との関連性が著しいプロイセン学派を形成した。ダールマンとドロイゼンはともにフランクフルト国民議会に選出された議員で、ジーベルもプロイセン議会の議員であった。プロイセン学派は当時のドイツ国民の熱烈な支持を受け、またドイツ国内の領邦君主とも利害が一致し、ドイツ史学界で支配的な影響力を持った[注 35]。彼らは個性の重視という意味ではランケを継承していたが、歴史事実の客観的把握と全く逆の視点に立つ歴史研究であったため、今日の歴史学の観点からすると、その評価は概して低く考えられている。

イギリスとフランス

編集

この時代のイギリスやフランスで主流となった功利主義進化論実証主義の共通する特徴は、内的要因よりも外的要因を重視することであった。具体的には、歴史を人間精神の創造的性格とか人間行動の主体的選択の結果として捉えるのではなく、自然的・物質的環境の影響に人間精神やその行動が、したがって歴史が規定されていると考えるものであった。この実証主義に立つ歴史学者の代表はフランスのテーヌとイギリスのバックルである。特にバックルは統計学を用いて自然環境や社会状況が歴史に決定的な影響を与えることを実証しようとした[注 36]

「歴史の法則性」を巡って

編集
 
ブルクハルト
文化史の開拓者にして、すでに完成者としても十分な研究を残したが、彼の生きた時代に対して独創的なその「文化史」は、直接的な後継者には恵まれず、独立的なものにとどまった。

ドイツ国内でも、歴史学の客観性を巡って歴史過程における法則性を研究の中心に据えようとする主張が現れた。すなわちカール・ゴットハルト・ランプレヒト英語版は、文化社会などの類型的把握が可能なものこそ歴史考察において重要なものなのであるという主張をした。彼の主張は史料批判に決定的に依存する当時の歴史学の持つ欠陥を適切にとらえたものであり、かつ個性を重視するそれと対立するものであったから、たちまち全ドイツ規模での論争に発展した[注 37]

「文化史」という視点

編集

史料批判に依存する個別的な歴史事実の把握に飽きたらず、より広い視野から歴史を総合的に把握しようという動きは「文化史」の主張という形で現れた。「文化史」は、主に美術史の研究の手法を取り入れ、時代相互の文芸や美術、思想の様式的変化を総合的に比較して、それらの時代ごとの文化的特質を明らかにしようという歴史研究である[注 38]。この文化史の初期の代表的学者はスイスのブルクハルトであり、彼の初期の著作『コンスタンティヌス大帝の時代』[67]において、すでに完成した形で「文化史」のスタイルが確立されていた[注 39]。前述したランプレヒトも文化史を中心に歴史を構成しようとしていた。

ランプレヒトの立場を批判的に継承し、文化史において画期的な業績をあげたのはオランダのホイジンガである。彼の代表作『中世の秋』[68]は生活・思想・文化などの諸相から14世紀-15世紀ネーデルラントを複合的・重層的に描いた労作で、従来陰湿で否定的に捉えられてきた西洋中世の文化に「遊び」の精神を見出すものであった。この観点を発展させて遊びの形態とその表現を本格的に研究したのが『ホモ・ルーデンス』[69]で、この著作の視野は歴史学分野に限られず、文化人類学と相互関係にあり、その構想力の豊かさは優れて今日的な価値がある。

唯物論的歴史学

編集
 
マルクス
イギリス古典経済学、ドイツ観念論哲学、フランス実証主義などを批判的に総合して唯物論歴史学を打ち立てた。その歴史学は体系性に優れており、時代の要求に応えるものであった。

一方で歴史の体系的把握への試みは、当時近代歴史学と全く対立的な立場にあった哲学からも提示された。ランケの打ち立てた近代歴史学を痛烈に批判したのはヘーゲルで、『歴史哲学』において理論的関心に乏しい近代歴史学の風潮を批判し、普遍と特殊の総合に向かう理性的法則として歴史を認識すべきと説いた。彼の哲学は客観的な裏付けに乏しく、歴史学的要求に応えることはできないが、ランケがまた彼の歴史哲学をつねに批判の対象としながら、それに変わる体系性を用意することができなかったのも事実であった[注 40]

このヘーゲルの歴史哲学を批判的に継承したマルクスは、ヘーゲルが重視した精神に代わり、生産様式に注目した体系的な歴史哲学を打ち立てた。ヘーゲルの歴史哲学が極めて思弁的・精神的だったのに対し、マルクスは実証主義の外的要因を重視する姿勢を継承して、生産様式が人間の精神活動をも規制すると述べて、物質性を重視する唯物論歴史学を唱えた。彼は古典経済学の理論を批判的に継承し、労働を重視したが、労働の疎外によって支配階級による収奪が行われるとして、独自の階級理論を設定した。この階級理論をもとに発展段階的に歴史理論を構築し、時代ごとの生産様式の性格からその時代の文化様式にいたるまでの性格把握が可能であるとし、さらには未来史として階級が消滅した来るべき共産社会を予言した。

このようなマルクス主義歴史学は従来の歴史学になかった優れた体系性を持つとともに、その理論的な堅牢性が高く評価された。歴史の体系的な把握を可能にした唯物論歴史学の登場は非常に画期的な出来事であったが、同時にこの歴史学は当初からさまざまな批判にさらされ、その理論の検証が着実になされていた。

現代歴史学(多様化の時代)

編集

近代歴史学は文化史・唯物論歴史学という全く異なる方向性を追求する歴史学へと発展したが、一方でそれらとは別個に歴史研究における構想力を重視し、幅広い要求に応えるダイナミックな歴史学とその方法論の追求がなされていた。(詳細は現代の歴史学を参照

構想力の重視(クローチェ、トレルチ、ピレンヌ)

編集

「すべての歴史は現代史である」と述べたイタリアの歴史家クローチェは歴史研究が現在の問題意識に基づき、現在の実践的・倫理的要求に応えうるものでならなければならないと主張した。彼はヘーゲルが述べた意味での歴史の主観性を歴史研究の中心に据えるべきと考え、史料批判に基づく客観性に閉じこもる近代歴史学を批判した。同様の主張はトレルチによってもなされた。彼は歴史研究を「未来形成の行動」であると述べ、歴史研究における人間の価値や意味の意識を重視し、そのような立場から体系的な歴史学が打ち立てられるべきだとした。

一方で最も客観的で実証的であると考えられていた経済史の分野から画期的な研究を世に問うたのがピレンヌである。彼は経済史料・教会古文書を用いて、従来ゲルマン民族の大移動によって崩壊したと考えられていた地中海世界の経済的・文化的交流がイスラーム勢力の進出まで緊密に維持されていると述べ、「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」といういわゆるピレンヌ・テーゼを提唱した。ピレンヌの研究は実証的な研究に基づきつつも大胆な仮説を設定する構想力によって、歴史事実の体系的・構造的把握の可能性を示したもので、のちの歴史学に多大な影響を及ぼすものであった。


脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ イブン・ハルドゥーンは、歴史学的な記述と、単なる出来事の報告や物語を分けるのは、広く承認されているかどうかと記述の方法論によると述べている。そして、歴史学的記述が広く承認されるかどうかは、その記述の方法論が妥当であるかどうか、批判することが可能であるかどうかによるという。すなわち、彼によれば、歴史学的記述の信頼性はそこに記載された事実の信憑性ではなく、方法論の信頼性によるのである。彼は事実の信憑性についていえば、一流の歴史家の著述であっても疑わしい部分はあるが、それはその記述の歴史学的価値にとって決定的ではないという[1]
    バラクルーの「われわれが読んでいる歴史は、確かに事実に基づいているけれども、厳密にいうと、決して事実ではなく、むしろ広く認められているいくつかの判断である」[2]という言葉、E・H・カーの「歴史的事実という地位は解釈の問題に依存することになるでしょう」、「私たちが歴史を読みます場合、私たちの最初の関心事は、この書物が含んでいる事実ではなく、この書物を書いた歴史家であるべきです」[3]という言葉も同様の内容を言い換えたものである。
    つまり、記述された歴史(史料)は常に記述主体(記述者・報告者・著述家・歴史家など)の取捨選択を含んでいる。ところで、過去の事実が記述という形でしか客観化されない以上、史料の示す以上の過去の事実は知ることができない。したがって、どのような取捨選択がその史料を記述する上でおこなわれているかという観点は史料を扱う際にはつねに想起されなければならない[4][5]
    また、歴史家がどのような立場に立って自分が歴史を記述しているかを自覚することなしに歴史を記述しようとすれば、首尾一貫性のない歴史記述をしてしまったり、客観的に記述しているつもりでじつは主観的な記述をしてしまったりすることにつながる。したがって、歴史家は自分の主観性をむしろ積極的に意識し、その方法論の特徴と限界性を明瞭に認識した上で記述することでかえって客観的な歴史事実に近づくことができるのである[6]
    すなわち、歴史研究は最終的には歴史を叙述する営みであり、そのために歴史家は単なる実証的な史料批判にとどまるのではなくて、史料を取捨選択し、一つの方法論にもとづいて新たな歴史を叙述することを求められるのである。歴史家は最終的には何らかの方法論を設定して、それにしたがって記述するのであるから、方法論の歴史を振り返り、自らの方法論について検討を加えることを怠ってはならない[7]
  2. ^ 歴史は二義性を持っており、客観的事実としての「過去の出来事」と、それを言語的に表現した「歴史記述」に分けることができる。歴史学は基本的には前者を対象とし、それを明らかにする学問であるが、前者を対象化するためには言語によって記述され客観化される必要がある。したがって、歴史学は過去の出来事を明らかにするために、それについての歴史記述をも対象とし、さらに、それを記述して新たな歴史記述を生み出す過程である。もちろん、事実としての歴史と記述された歴史の間には、観察者としての記述者、著述家の視点が存在するから、歴史記述自体は客観化されたものであってもそこに記された歴史事実が必ずしも客観的であるとは限らない。また、近年では言語表現としての文字以外の形で記録された過去の記憶も「歴史事実」として扱われるべきではないかという主張も存在する。
  3. ^ 一般に、遊牧民は文字文化の形成が遅いことが指摘されており、したがって、遊牧民は自らの歴史を記述するのが遅れ、彼らの古代史は主に隣接する農耕民の歴史記述によって把握される傾向にある。また、インドやイランなど文字文化が存在したところでも、それを体系化して歴史として記述する意識が希薄だったために歴史記述は遅れた事例があることが指摘されている[8]
  4. ^ バビロン第1王朝のハンムラビ王の43年の治世についてはすでにそれぞれの年がどのように記述されたかは解明されており、それに従って具体例を示せば、その第1年は「ハンムラビ、王(となった年)」、第2年は「国内に正義がおこなわれた(年)」、第3年は「バビロンにおいてナンナ神のための高壇に玉座を築いた(年)」などとされている[9]
  5. ^ しかし、古代ギリシャでは「永遠」であることが重んじられたために、個々の事実は「生滅」するために尊重されず、全体としては歴史に対する関心は低かったことが指摘されている。たとえば、アリストテレスは永遠不変な意味内容を含む「詩」を非常に高く評価する一方、「歴史」についてはそれが個別的で一時的な出来事を扱うものであるという理由で低い評価しか与えていない[10][11]
  6. ^ ヘロドトスもトゥキュディデスも同時代史に終始して遠い過去の研究にさかのぼることはなく、それは古代ギリシャ特有の循環的歴史意識によるという[12][13]
  7. ^ ヘロドトスが明示して引用している書物はヘカタイオスの書物だけである。
  8. ^ トゥキュディデスと異なり、ヘロドトスの記述には年代を明示する箇所が少ない上に挿話が多いことから、その年代的な信憑性について疑問が抱かれていた。とくに、ポリス社会での年代が示されているのはペルシア戦争終結の年だけであり、ときの執政官カリアデスの在位年が用いられている。今日では、研究によってヘロドトスの年代構造がかなり明らかになっており、その構造がしっかりとしたものであることが確認されている。
  9. ^ トゥキュディデスは著述に当たって、トロイア戦争とペルシア戦争を考察して、両方の戦争では海軍国家が陸軍国家に勝利しており、海軍国家が陸軍国家より有利であると述べる。ペロポネソス戦争ではアテナイとスパルタが戦うのであるが、海軍国であるアテナイが陸軍国であるスパルタより基本的には優位にあるとする。そのうえで、実際はアテナイが敗北する結果となったことを鑑みて、その原因を探っている。年次の記載にも気を配っており、複数の紀年を用いて表現している。たとえば、「アルゴスではクリューシスの神職在任48年目、スパルタではアイネーシアースが監督官であったとき、アテーナイではピュートドーロスが執政官の任期を終わる4ヶ月前、ポテイダイアの会戦後11ヶ月目」というような形である。また、アテナイに蔓延した疫病の病状について専門用語を駆使して詳しく記しているが、後世、同様の病気の治療の際に参考になるように記録するのであると述べている。このように、論理性に優れた洞察と、出来事に対する明確な問題意識をもとに記述する姿勢が高く評価されている[14]
  10. ^ 演説はかなり創作性が高いが、状況から論理的に考え抜かれているために、むしろ、本文の記述において十分に示されない問題背景を補っている面があり、ただ、単に物語として記されているわけではないことが指摘されている。トゥキュディデス自身も演説のほとんどは創作であり、前後の事情を考えて演説の論旨を構成していることを認めており、これは彼の歴史叙述の特徴であり、もともと意図されたところであるらしい[15]
    また、事実としては、些少ながら、かなり克明に記載されている例としてはアテナイによるメロス島侵攻の記事を挙げることができる。トゥキュディデス自身もメロス島に戦略的価値はなく、政治的事件としては瑣末的な出来事であったと認めつつ、アテナイの大国主義的な政策の事例を示すためにあえてかなり詳細に記したらしい。同書においては文学的にも評価が高い箇所でもある[16][17]
  11. ^ 孔子はの史官董狐の事例を挙げて、客観的な事実をただ記すのではなく、それを勘案して毀誉褒貶することが歴史家にとって重要であると述べている。これは、歴史的事実をただありのまま記すのではなく、乱臣賊子の行動を戒める意味で積極的な歴史評価をすべきだという意味である。一方で、権力者による歴史事実の歪曲については身命を賭してまでこれに抵抗し、重大な事実は記載しなければいけないと述べた。このことは、事実の記述そのものよりも事実を記述することが現実的に及ぼす作用、実践的な役割を重視していたことを示している[18]
    また、司馬遷が『史記』において、記録のあとに必ず「太史公(司馬遷自身のこと)曰く」という書き出しで始まる論評(これを「論賛」という)をつけていることは、過去の歴史を評価し、現代の教訓にして活かそうという実践的な姿勢が見出される。これは後代になっても中国の歴史学の特徴の一つであり、さらに、史記のような伝記主体の記述方式、いわゆる紀伝体に特殊な事例というわけでもない。たとえば、中国における編年体歴史書の代表、司馬光の『資治通鑑』はこれは名称がそのまま「統治に資するための、時代を通じた模範(鑑)」という意味である。中国では現実が尊重され、さらに、過去の現実としての歴史事実は現在の実践に活かそうという姿勢が強かった[19]
  12. ^ 『左伝』は歴史事実を重んじて『春秋』を解釈する傾向が強く、『公羊伝』、『穀梁伝』は哲学的な立場から『春秋』の字句などを解釈する傾向が強い[20]
  13. ^ 中国では代には歴史記録を専門とする官府である史官が置かれており、春秋時代において周の政治支配がゆるみ、各地に半独立政権が形成されても、それらで独自に史官が置かれ、記録が蓄積されていた。
  14. ^ 宮崎市定は、「春秋学」は史料を解釈するという意味では歴史学的な営みであるが、歴史事実を明らかにするという観点が欠けているために歴史学と呼ぶことはできないと述べている。ただ、司馬遷には春秋公羊学の影響がみられ、春秋学は中国における歴史学発生に多大な影響を持っているという[21]
  15. ^ 『史記』の基本性格については、武田泰淳はそれが司馬遷が知り得た意味での「世界史」を記したもので開かれたものであるという観点に立つのに対し、宮崎市定は司馬遷の関心は中国世界に限られており、閉じた「民族史」であるという観点を示している[22][23]
    また紀伝体が個人の伝記の集成という形で構成されることから、『史記』に個人中心の視点を見て高く評価する論もある。具体的には武田泰淳貝塚茂樹重澤俊郎などが個人史的側面を高く評価している[24][25][26]
    一方で貝塚も指摘し、宮崎市定も論じていることであるが、「本紀」「世家」は政治史的側面が濃厚であることから「列伝」との区別が存在すると考えられ、たとえ「本紀」「世家」が一種王朝史また個人の伝記的外見を持っていようと、純粋な伝記である「列伝」との間に本質的な相違があることも指摘される[27][28]
  16. ^ このような体系性はとくに漢代に暦思想が高度に発達し、現実の法制(律)に関連づけられて正史に記載されるようになり(律暦志)、あらゆる学問が天文運行と結びつけられて歴史意識と不可分と考えられたことにも大きく影響されていると思われる[29]
  17. ^ 歴史の過程は人間生活の中で人間の意志によって実現されるが、じつはそれによって達成されるものは神の意図に一致するという考え方。この考えによれば、究極的には人間の歴史も神の意図を実現する歴史であるということになる[30]
    福田歓一はここにヨーロッパにおける歴史哲学の成立を見出している[31]
    キリスト教思想は発展的歴史観を生み出し、その哲学的表現がアウグスティヌスの『神の国』であった[32]
  18. ^ 「二国史観」の代表的かつ最も完成された著作はフライジングのオットー(生没:1114年-1158年)の『二国年代記』(Chronikon sive historiae de duabus civitatibus)である。この書に特徴的なことは、天地創造からドイツ国王コンラート3世にいたるまで記述されたあとに、最後の審判・永遠の天国の到来にいたる未来史が記述されていることである[33]
  19. ^ 9巻は未完の草稿が残るのみで、完成しているのは8巻まで。
  20. ^ グイッチャルディーニの『フィレンツェ史』は1378年から1509年を記述しているが、叙述が詳細になるのはロレンツォ・デ・メディチを対象とするあたりからであり、1492年の彼の死以降が最も詳細になる。『イタリア史』のほうは1492年から1534年に至るまでを対象としているが、これは全く同時代史である[37]
  21. ^ ベールは歴史に形而上学的観点を持ち込むこと、つまり歴史哲学のような観点から歴史事実を扱うことを批判した。歴史事実同士の関連性を否定し、歴史事実は全て独立に扱われるべきであるという見方を示した。したがって歴史事実と歴史事実の間の相互性や因果関係を否定した。カッシーラーは、このベールの研究態度は歴史の過程に法則性を否定したことで歴史理論の破壊であったが、事実を尊重するという方法論を示したという意味で創造的であったと述べている[38]
    またベールが理性に基づいて彼の現在から過去を批判し、評価したことは、過去を現在と同質な次元に捉えることであり、したがって過去と現在に相関的統一が与えられた[39]
  22. ^ カッシーラーはこのモンテスキューの手法をウェーバー理念型と同一のものであり、社会学・政治学ではこの手法が支配的であるが、それはモンテスキューに由来すると述べている[44]
  23. ^ 政治思想・社会学などにモンテスキューが及ぼした影響は決定的で、とくにその機構論は現代政治の基本理念の一つにまでなっている。しかし近代歴史学の観点でいえば、事実に対する客観性の重視という意味で、モンテスキューよりボーフォールの伝承批判のほうが価値ある研究であった。後述するニーブールの研究もボーフォールの研究の影響のもとにあった[46]
  24. ^ カッシーラーによると、ヒュームは事実と概念を対立させたのみならず、事実のうちでも一般的事実と個別的事実を対立させ、事実の概念への普遍化を放棄した。このことが個別的事実の重視につながり、個別的事実を積み重ねて歴史事実を叙述する態度を生んだという[48]
  25. ^ ヴィーコは歴史認識においては観察者・記述者・歴史家(認識の主体)と歴史事実(認識の客体)が一致するために歴史的な真実というものは認識可能だとした。なぜなら自然的世界は神が作ったが、歴史的世界は人間自身が作ってきたものだからである。このことは自然的世界とは異なる歴史的世界を成立させることになり、それが自覚的に捉えられていることを示している[52]
  26. ^ カッシーラーはヴィーコは最初の体系的な歴史哲学を展開したが、ヘルダーに再発見されるまで啓蒙主義には何の影響も及ぼさなかったと述べている[53]
  27. ^ ミシュレの時代は社会学や進化論の手法が歴史学に取り入れられ流行していた時期であり、このような歴史学の「科学化」が進行している時代には合致していなかったためである。このミシュレの研究が発掘され、脚光を浴びるのはフェーヴルによって実証主義歴史学が見直された時であった[54]
  28. ^ マビヨンに先行する組織的文献研究としては、17世紀のボランドゥスを中心としたボランディストの古文書研究などがあげられる[55]
  29. ^ セビリアの司教イシドールスの編とされる教皇法令集。9世紀に成立したとされている。
  30. ^ 一方でこの時代に文書批判が進んだもう一つの理由として、古文書がかなり広汎に流出したことが指摘される。ヘンリ8世によっておこなわれた修道院解散やドイツ農民戦争およびシュマルカルデン戦争ユグノー戦争フロンドの乱などの戦乱の影響で各地の修道院や教会に蓄えられていた古文書がかなり市場に放出されたと言われている[56]
  31. ^ 西ヨーロッパでは文書はラテン語で書かれるのが一般的であったが、中世になると地方の口語と接近し、「俗ラテン語」と呼ばれる古典語よりくずれたラテン語が使われ、それらは今日のヨーロッパ言語のもととなった。俗ラテン語に対して、特にキケロに代表される典型的な古代のラテン語を「古典ラテン語」もしくは「古典語」という。今日一般的に言うラテン語とはこの古典語のことである。
  32. ^ マルク・ブロックは『歴史のための弁明』(Apologie pour l'histoire)の中で古文書学の成立を歴史学における偉大な事業の一つに挙げている[58]
    マビヨンに学んだイタリアのムラトリはこの時代の歴史学の学問的価値からいえば、後世から大変評価が高い人物で、ギボンは「イタリア史における我が師」と絶賛している[59][60]
  33. ^ 近代歴史学を啓蒙主義・神学的普遍史・史料批判などの前近代的歴史研究の総合と見なす考え方は(文献21, pp. 36–37)。ただし同書によれば近代歴史学の本質は史料批判という方法論におかれる。(文献24, p. 36)も同様に史料批判を重視。
    一方で(文献18, pp. 148–149)では、史料批判ではなく歴史事実の個別的把握こそがランケの真骨頂であるとする。同書ではランケ史学はニーブールよりも当時の国際法学や政治学に影響を受けているという。
    普遍史との関連性や宗教的背景を重視するのはマイネッケで、彼はランケの「個性原理」(歴史の個別的把握)を個体の中に固有の運動法則を認め、「一つの生」として歴史的個体を扱うことであるとした。そしてこれは汎神論よりも進んだ「万有在神論」と呼べる彼の宗教観に由来するものであるという。汎神論と万有在神論の相違は、汎神論には普遍的に神が存在するという意味で歴史事実の運動法則を普遍化しようとする傾向があるが、万有在神論は「万物に神が在る」という点から個々の歴史事実に固有の運動法則があるという認識に達する。したがって汎神論に基づく歴史記述では歴史的個体は埋没し一元的に普遍法則を設定していく過程になるのに対し、ランケでは固有の運動法則と普遍法則が論理的には解決されないまま並立しており、二元論的であるという。マイネッケはランケにマキャヴェリズムとの深刻な対立を見出しており、したがって一見道徳を排除しているように見えるランケ史学の深奥に道徳判断が認められるという。したがって彼の「個性原理」は国家行動をその研究の中心に据えながら、マキャヴェリズムに基づく近代政治学原理が歩んだような歴史的個体の普遍化・絶対化、つまり国家行動の全面的容認には至らなかったのだという[61]
    継受の面が指摘される一方で、ランケでは前近代的歴史研究が持っていた実践主義的な観点や哲学的な視点は大幅に減じていることも認められる[62][63]
    啓蒙主義と近代歴史学は以下の点で大きく対立している。
    1. 啓蒙主義は一般から個別へと歴史を解釈したが、近代歴史学は個別から一般へと解釈した。
    2. 啓蒙主義は古代の生活を近代においても空間的には存在しうるもの、たとえば非ヨーロッパ人の生活をヨーロッパ人の前文明的な生活と同質であると解釈することにより、歴史的事実を空間的に扱ったが、近代歴史学はそれを一回性の事実と考えることにより時間的に扱った。
    ランケにおける個別的歴史事実の尊重と神学的普遍史との関連性については(文献22, pp. 348–368)、啓蒙主義の歴史観については(文献23, pp. 68–74)、(文献18, p. 122)参照。
  34. ^ 文献18, p. 133)による。同書ではランケも同様の言葉によって世界史の中でのローマ史の位置づけを語っていることも挙げられている。
  35. ^ ドロイゼンは小ドイツ主義を支持してプロイセン中心に民族的なドイツ統一が果たされるべきと主張した。ジーベルは神聖ローマ皇帝のイタリア政策についての論争(いわゆる「皇帝政策論争」)の口火を切ったが、これも中世ドイツ皇帝権が普遍的であるか民族的であるかという主題の裏側に、小ドイツ主義と大ドイツ主義のどちらが民族的統一としてふさわしいかという極めて政治的な背景があった[65]
  36. ^ バックルに対しては、ドロイゼンが『歴史を科学の地位に高めること』を著し、倫理や個性の歴史形成における影響力を主張して反駁した。
  37. ^ この論争ではほぼ全ドイツの歴史家がランプレヒトと反対の立場を取り、またランプレヒトもあまりに歴史の法則性にこだわりすぎて、やや正当性に欠ける嫌いがあったので、結局はランプレヒトの不利なうちに決着したと考えられている。
  38. ^ 文化史の特徴としては従来の歴史研究が政治史を中心として縦断的に歴史事実を明らかにしようとしたのに対し、文化史は同時代のほかの事実および時代的な様式の特徴の関連性を重視して、横断的に歴史事実の背景を明らかにするものであったことが挙げられる[66]
  39. ^ 今日的な視点で言うと、この著作はデータ的な面で時代遅れであるが、思想・社会・文化を一連の繋がりにおいて記述する、その歴史記述のスタイルは非常に意義深い。当時からこの著作はさまざまな欠陥を指摘されていたが、一時代を総合的に描いたその価値は一部で高く評価された。
  40. ^ ヘーゲルは事実の客観的把握というものには曖昧性が含まれており、かつどのように凡庸な歴史家でも自らの主観に従って能動的に歴史事実を選択し、それを通じて歴史を眺めているということを的確に指摘している[70]
    しかし彼の歴史哲学はその創造的性格のゆえに科学的ではなかったのであり、この点バックルら実証主義の歴史学のランケ批判のほうが正当であるというべきである[71]

出典

編集
  1. ^ 文献1, pp. 19–33.
  2. ^ 文献2, pp. 13–14.
  3. ^ 文献2, p. 27.
  4. ^ 文献7, pp. 26–38.
  5. ^ 文献17, pp. 126–127.
  6. ^ 文献7, pp. 182–196.
  7. ^ 文献14, pp. 163–171.
  8. ^ 文献3, pp. 8–12.
  9. ^ 文献3, p. 26.
  10. ^ 文献3, pp. 67–68.
  11. ^ 文献5, pp. 28–29.
  12. ^ 文献3, pp. 66–75.
  13. ^ 文献21, p. 36.
  14. ^ 文献5, pp. 9–49.
  15. ^ 文献8, p. 54.
  16. ^ 文献4, pp. 9–14.
  17. ^ 文献6, pp. 352–363.
  18. ^ 文献9, pp. 342–343.
  19. ^ 文献15, pp. 50–60.
  20. ^ 文献10, pp. 34–35.
  21. ^ 文献11, pp. 22–26.
  22. ^ 文献12, pp. 63–216.
  23. ^ 文献11, pp. 22–43.
  24. ^ 文献12, pp. 63–104.
  25. ^ 文献13, pp. 45–65.
  26. ^ 文献16, pp. 277–281.
  27. ^ 文献11, pp. 44–130.
  28. ^ 文献13, pp. 49–53.
  29. ^ 文献9, p. 487.
  30. ^ 文献18, pp. 90–91.
  31. ^ 文献19, pp. 108–109.
  32. ^ 文献21, p. 37.
  33. ^ 文献18, pp. 96–97.
  34. ^ 原題:Istorie fiorentine1520年-1525年
  35. ^ 原題:Storie fiorentine1508年-1510年
  36. ^ 原題:Storia d'Italia1537年-1540年
  37. ^ 文献18, pp. 99–100.
  38. ^ 文献20, pp. 9–65.
  39. ^ 文献18, pp. 113–114.
  40. ^ 原題:Historiae de l'ancien gouvernement de la France1727年
  41. ^ 原題:Histoire critique de l'établissement de la monarchie française1734年
  42. ^ 原題:Considérations sur les causes de la grandeur des Romains et de leur décadence、1734年
  43. ^ 原題:De l'esprit des lois1748年
  44. ^ 文献20, pp. 32–33.
  45. ^ 原題:Dissertation sur l'incertitude des cinq premiers siècles del'histoire romaine1738年
  46. ^ 文献18, pp. 120–121.
  47. ^ 原題:History of England1754年-1763年
  48. ^ 文献20, pp. 55–56.
  49. ^ 原題:History of Scotland 1542 - 16031759年
  50. ^ 原題:History of the Reign of the Emperor Charles V1769年
  51. ^ 原題:The History of the Decline and Fall of the Roman Empire1776年-1782年
  52. ^ 文献18, pp. 122–128.
  53. ^ 文献20, pp. 28.
  54. ^ 文献18, pp. 128–130.
  55. ^ 文献18, pp. 102–103.
  56. ^ 文献18, p. 104.
  57. ^ 原題:De re diplomatica
  58. ^ 文献18, p. 107.
  59. ^ 文献18, pp. 109–110.
  60. ^ 文献21, pp. 39–40.
  61. ^ 文献22, pp. 350–358.
  62. ^ 文献21, pp. 45–47.
  63. ^ 文献24, p. 38.
  64. ^ 原題:Römische Geschichte1811年-1832年
  65. ^ 文献18, pp. 154–155.
  66. ^ 文献25, pp. 535–540.
  67. ^ 原題:Die Zeit Constantins des Großen1853年
  68. ^ 原題:Herfsttij der Middeleeuwen1919年
  69. ^ 原題:Homo ludens1938年
  70. ^ 文献21, pp. 50–51.
  71. ^ 文献21, pp. 60–62.

参考文献

編集

※参照した文献は、その旨を記す際に煩雑さを避けるため、「文献」のあとに数字を示すこととする。具体的には「文献1」という場合は、下記のイブン・ハルドゥーンの『歴史序説(一)』を指すものとする。

 
トート
古代エジプトでは書記官によって詳細な歴史記録が蓄えられていたが、歴史観のような歴史を体系的に把握しようとする意識には乏しかったと考えられている。なぜならそのような歴史観を抱くことは、書記官の守護神であり歴史の主宰者であったトート神を冒涜するものと考えられたからである。したがって歴史記録の蓄積があっても歴史学的な営みに発展しなかったと考えられている。

関連文献

編集
  • 岸本美緒編 『歴史学事典5 歴史家とその作品』 弘文堂、1997年。
  • 樺山紘一編 『歴史学事典6 歴史学の方法』 弘文堂、1998年。
  • 佐藤真一 『ヨーロッパ史学史 探究の軌跡』 知泉書館、2009年。
古代ギリシア・キリスト教・近世近代・20世紀前半の論考

関連項目

編集

外部リンク

編集