即非如一
1616-1671, 江戸時代前期に中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧
即非如一(そくひ にょいつ、万暦44年5月14日(1616年6月27日)- 寛文11年5月20日(1671年6月26日))は、江戸時代前期中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は林氏。字は即非。福建省福州府福清県の出身。
即非如一 | |
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1616年 - 1671年 | |
生地 | 福建省福州府福清県 |
宗派 | 臨済宗黄檗派 |
寺院 | 崇聖寺、崇福寺、黄檗山萬福寺、福聚寺 |
師 | 費隠通容、隠元隆琦 |
弟子 | 化林性偀、千呆性侒 |
生涯
編集父は林英、母は万氏。林氏は南宋の中書舎人の林希逸の末裔を名乗っていた。
父を早くに失い、18歳の時に龍山寺の西来の許で出家し、費隠通容が黄檗山に晋住したため十戒を受けて沙弥となった。1637年中国福州黄檗山萬福寺の隠元隆琦に師事して菩薩戒を受戒した。この頃、山火事を消火しているうちに穴に落ち、救出されたときに大悟したという。1651年、隠元の法を継いで雪峰の崇聖寺に移った。この頃化林性偀が弟子となっている。
1657年隠元に招かれて来日し、長崎崇福寺に住して伽藍を整備し、その中興開山となった。1663年山城国宇治の萬福寺に移り、法兄の木庵性瑫とともに萬福寺首座となった。最初の黄檗三壇戒では教授阿闍黎の任を務めた。1664年帰国の途中、豊前国小倉藩主小笠原忠真らに招かれ、1665年福聚寺を創建してその開山となった。その後、崇福寺に隠居してそこで没した。享年56。
能書家とし知られ、隠元隆琦、木庵性瑫とともに黄檗の三筆と称される。詩を善くし、禅味のある観音・羅漢・蘭竹を画いたが、これは日本の文人画のさきがけとされる。
寿ぎに松を図案化する最も早い作品は、如一が寛文6年(1666年)に小笠原長真の二十歳の祝賀に送った「松下鶴鹿図」(福聚寺所蔵)とされる。