北条有時
鎌倉時代前期~中期の武将、伊具流祖、評定衆
北条 有時(ほうじょう ありとき)は鎌倉時代前期から中期にかけての武将。北条氏の一門。父は鎌倉幕府2代執権北条義時。3代執権北条泰時の異母弟にあたる。母は側室で伊佐朝政の娘。伊具流北条氏の祖。初代執権北条時政の孫で、源頼朝正室の北条政子は伯母にあたる。
時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 正治2年5月25日(1200年7月7日)[1][2] |
死没 | 文永7年3月1日(1270年3月23日) |
改名 | 有時、蓮忍 |
別名 | 陸奥六郎 |
官位 | 大炊助、従五位下、同日民部少輔、駿河守、正五位下 |
幕府 | 鎌倉幕府評定衆 |
主君 | 藤原頼経→頼嗣→宗尊親王→惟康親王 |
氏族 | 北条氏 |
父母 | 父:北条義時、母:伊佐朝政の娘 |
兄弟 | 泰時、朝時、重時、有時、政村、実泰、他 |
子 | 時基、兼時、有泰、時景、通時、有義、有秀、時秀、兼義、国時、時盛、政有、宗兼、頼任、堀口貞義室 |
経歴
編集義時の4男であるが、通称は六郎であり、義時の葬儀の際の序列は、正室所生の弟政村・実泰より下位の最後尾に位置づけられている。
承久3年(1221年)の承久の乱では異母兄泰時に随伴して京都へ進撃する軍勢に参加した。将軍の近習、鶴岡八幡宮奉幣使などを歴任。仁治2年(1241年)、42歳の時に評定衆に選抜され、同年に辞任を申請するも受理されなかった[3]。2年後の寛元元年(1243年)に病を理由に引退し、以降、文永7年(1270年)に71歳で没するまで出仕することはなかった。
『吾妻鏡』ではその出産記事があること、また仁治2年(1241年)11月30日条には他の記事への追記で有時のことが記されていることから、有時の子孫に伝わる記録が『吾妻鏡』の編纂資料の一部として使われた可能性もある。
年譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 五味文彦 『増補 吾妻鏡の方法 事実と神話にみる中世』 吉川弘文館、2000年。 ISBN 4-642-07771-5
- 細川重男 『鎌倉政権得宗専制論』 吉川弘文館、2000年。ISBN 4-642-02786-6
- 北条氏研究会「北条氏系譜人名辞典」