北条時基
北条 時基(ほうじょう ときもと)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、北条氏の一門。名越流の祖・北条朝時の子。
時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
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生誕 | 嘉禄2年(1236年) |
死没 | 未詳 |
改名 | 時基、道西[1](法名) |
別名 | 名越時基、遠江七郎[1] |
官位 | 刑部少輔、遠江守、従五位下 |
幕府 | 鎌倉幕府引付衆、評定衆、3番引付頭人、2番引付頭人 |
主君 | 宗尊親王→惟康親王 |
氏族 | 北条氏(名越流) |
父母 | 父:北条朝時、母:北条政村の娘[1]? |
兄弟 | 光時、時章、時長、時幸、時兼、教時、時基、他 |
妻 |
正室:北条貞時の娘 側室:二階堂行久の娘 |
子 | 宗基、時賢、朝貞、時有、時高 |
生涯
編集時基の史料上の初見は建長5年(1253年)で、康元2年(1257年)2月2日以前に六位の地位にあった[1]。
名越流と得宗家との対立により、兄たちが宮騒動、二月騒動で度々討伐を受けるが、兄弟の中でも年少であった時基は、その埋め合わせ的に引き立てられ、文永10年(1273年)6月、38歳で引付衆となり、弘安元年(1278年)、43歳で評定衆となる。弘安3年(1280年)11月、遠江守、弘安6年(1283年)4月、三番引付頭人。弘安7年(1284年)4月、執権・北条時宗の死去に伴って出家し、法名は道西と称する[1]。
その後、三番引付頭人を再任、二番引付頭人就任などを繰り返し、正安元年(1299年)4月1日、64歳の時に三番引付頭人を辞任した記録が最後である。