北川 哲也(きたがわ てつや、1973年4月18日 - )は、東京都江戸川区[1]出身の元プロ野球選手投手)。

北川 哲也
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都江戸川区
生年月日 (1973-04-18) 1973年4月18日(51歳)
身長
体重
180 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1994年 ドラフト1位
初出場 1995年10月6日
最終出場 1998年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴

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暁星国際高校には、同校が野球部の強化を始めた時期の1期生として入学。エースとして臨んだ2年夏の千葉県大会では、決勝で成田高校に敗れた[1]。翌年夏は県大会初戦(2回戦)で敗れた[1]。高校時代は小笠原道大とバッテリーを組んでいた。石井一久とは同学年で「右の北川、左の石井」と言われた[誰によって?]

高校卒業後は日産自動車に入社。同僚の川尻哲郎らとともに活躍し、1994年第21回社会人野球日本選手権大会では準優勝に貢献し、敢闘賞を受賞した[1]。キレのある145km/hの速球スライダーナックルボールが武器。同年のドラフト会議前にヤクルトスワローズの逆指名を表明。ドラフトではヤクルトが1位指名で交渉権を獲得し契約金1億円、年俸1200万円(金額は推定)で入団合意した[2]

入団1年目から中継ぎなどで登板したが、1997年オフに脱税行為をしていたことが発覚し在宅起訴される。判決公判で懲役10月、執行猶予3年、罰金350万円の有罪判決が言い渡され[3]、コミッショナーからは1998年の開幕日から4週間の出場停止と制裁金70万円の処分を受けた[4]

1998年5月23日の対中日ドラゴンズ戦でプロ初勝利を挙げるが、相手の星野仙一監督は「おれの晩年のようなスピードの投手を打てなきゃ勝てん」、自軍の野村克也監督は「オールチェンジアップや」というなど、球の遅さが強調されるコメントだった[5]。8月25日の対広島東洋カープ戦で初の完投勝利を挙げた。

1999年は登板機会がなく同年限りで戦力外通告を受け、千葉ロッテマリーンズの入団テストを受けるも不合格に終わり現役を引退した。

その後は社会人野球チームのシダックスに所属した[1]。引退後もしばらくは社業に就き、現在は体育系学生の就職支援会社に勤務。また少年野球・東京城南ボーイズで指導。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1995 ヤクルト 2 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 14 3.0 6 1 0 0 0 2 0 0 3 3 9.00 2.00
1996 9 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 64 12.1 24 4 3 0 0 8 1 0 17 17 12.41 2.19
1997 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 11 2.0 4 1 0 0 1 1 0 0 2 2 9.00 2.00
1998 23 11 1 0 0 4 4 1 -- .500 351 80.0 85 7 28 1 3 44 4 0 35 34 3.83 1.41
通算:4年 36 11 1 0 0 4 5 1 -- .444 440 97.1 119 13 31 1 4 55 5 0 57 56 5.18 1.54

記録

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背番号

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  • 34 (1995年 - 1999年)

脚注

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  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、183ページ
  2. ^ 朝日新聞、1994年11月19日付朝刊 (26面)
  3. ^ 朝日新聞、1998年1月23日付夕刊 (15面)
  4. ^ 朝日新聞、1998年2月10日付朝刊 (31面)
  5. ^ 読売新聞1998年5月24日朝刊18面

関連項目

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外部リンク

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