劉希
生涯
編集杭州銭塘県の人。劉懋と李氏の娘。紹興10年(1140年)、後宮に入って高宗の紅霞帔[注釈 1]を務めた。のちに司記[注釈 2]、才人に上った。紹興17年(1147年)、婕妤に封ぜられた。紹興22年(1152年)、婉容[注釈 3]、さらに貴妃へと進んだ。
父の劉懋は節度使に任じられた。また、2人の侍女(瓊華・緑華)は孝宗の妃嬪となった。
女性書画家として知られ、大小二つの方形「奉華堂印」という印を有していた。絵画にはみな奉華堂印の図章が加えられた。人物画を得意とし、とりわけ後宮生活の画題で独自性を発揮した。一方、美女として名高かった[1]。淳熙14年(1187年)、薨去した。
逸話
編集金の廃帝海陵王は、「金の君主となる」「宋を討ってその皇帝を自分の膝下にひざまずかせる」「天下一の美女を娶る」という3つの夢を公言した[1]。南宋から降伏した人々は、柳永の詩詞を引き合いに出し、海陵王に南宋の景色を言葉巧みに吹聴した。また、高宗の劉貴妃を、後蜀の花蕊夫人、南唐の大周后・小周后に勝る、南宋で一番の美人として挙げた。この話は女色家で有名な海陵王を喜ばせ、南宋滅亡後の劉貴妃の獲得に備えて服飾と寝具を準備させた[1]。結局、海陵王は南宋遠征のさなかに叛乱で殺された[1]。
伝記資料
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d 佐伯(1975)pp.297-300