分福球場
解説
編集この球場は、茂林寺球場という通称で呼ばれた[1]が、分福茶釜で知られる茂林寺からは東武伊勢崎線線路を挟んで反対側に位置している[2]。
プロ野球創成期には、下記参照の東京巨人軍によるキャンプによって球史にその名を残した球場である。
茂林寺の特訓
編集職業野球の東京巨人軍が1936年(昭和11年)9月5日より分福球場で実施したキャンプ練習は、藤本定義監督、三原脩選手兼助監督主導の下、「千本ノック」に代表される血反吐を吐くとまで形容された猛特訓を課された[4]。中でも白石勝巳は一塁手から遊撃手にコンバートされ、熾烈な特訓に嘔吐し失神、さらに顔面に打球を受けてもなお練習を続けようとした「血染めの特訓」が語り草となっている[4][5]。現在まで綿々と続く巨人軍の基礎を作ったとさえ言われる。「死のキャンプ」と謳われた1979年(昭和54年)オフシーズンの伊東キャンプと並ぶ、ジャイアンツ史上に残る猛特訓であったという。別名「茂林寺の猛練習」[6]。
同年、公式戦初優勝を飾ったことから、同球場は「巨人軍栄光の初V 不屈のG魂誕生の地」として、東武鉄道館林駅の東口正面に石碑が建てられている。
脚注
編集- ^ 不屈のG魂誕生の地 発祥の地コレクション
- ^ a b c 館林町・分福球場
- ^ なつかしの母校:関東学園大学附属高等学校 群馬県館林市旧ホームページ
- ^ a b Sports Graphic Number 編『熱闘!プロ野球三十番勝負』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1990年8月、247-249頁。ISBN 978-4168108136。
- ^ Sports Graphic Number編『巧守巧走列伝―プロ野球不滅のヒーローたち』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1989年3月、49-53頁。ISBN 978-4168116063。
- ^ 『巨人軍5000勝の記憶』読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。
座標: 北緯36度13分39.5秒 東経139度31分33.4秒 / 北緯36.227639度 東経139.525944度