六芸(りくげい、六藝)は、中国古代において二つの異なる意味で使われた。一つは儒教の六つの経典で、六経ともいい、五経とほぼ同じ意味である。もう一つはの時代に教えたとされる六つの技芸である。まれに「ろくげい」と読む。本項では後者について解説する。

経典から技芸へ

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六芸の語は戦国時代に現われ、前漢武帝の時代まで、もっぱら六つの経典の意味で用いられた[1]。詩(『詩経』)、書(『書経』)、礼(『礼記』または『儀礼』)、楽(『楽経』)、易(『易経』)、春秋(伝が三つある)で六芸である。技芸の意味で六芸の意味が現われた初例は前漢武帝代に「発見」された『周礼』である[2]。後に『周礼』の権威が高まると、経典は五経、技芸は六芸と使い分けられるようになった。

『周礼』の六芸

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『周礼』は、周代の制度を後の時代に想像・理想化して著したものと考えられている。その中で、身分あるものに必要とされた6種類の基本教養を六芸とまとめた。その「地官・大司徒」に、礼・楽・射・御・書・数を六芸とする。それぞれ、礼儀、音楽、弓術、馬車を操る術、書道、算術である[3]。同じことを、「地官・保氏」では、五礼、六楽、五射、五馭、六書、九数と列挙する[4]

大司徒保氏は『周礼』の中にある官職で、大司徒は、万民に六芸を含めた技芸や道徳を広めることを責務とする。その配下にある保氏は、貴族の子弟を集めて六芸を教える。こうした職務は歴史的事実ではなく、『周礼』の創作である[4]。だが、漢代以降長く周の時代の実際の制度だと信じられた。

孔子の芸

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史記』孔子世家には、次のような逸話が語られている。孔子が一芸に名を成していないのは、世に用いられず、様々な芸を習い、多芸の身となってしまったからであり、このことを達巷の村人に、「(孔子は)一芸で名を成していない」といわれた。それを聞いた孔子は、「御(馬術)でも名を成そうか」といってみせた。鄭玄注によると、これは六芸の中で、御(馬術)が格下と認識されていたため、孔子が謙遜して言ったのだという。

脚注

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  1. ^ 福井重雅『漢代儒教の史的研究』、142 - 144頁。
  2. ^ 福井重雅『漢代儒教の史的研究』、145 - 146頁。
  3. ^ 福井重雅『漢代儒教の史的研究』、144頁。
  4. ^ a b 福井重雅『漢代儒教の史的研究』、145頁。

参考文献

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  • 福井重雅『漢代儒教の史的研究』、汲古書院、2005年。