八条宮智忠親王
江戸時代前期の日本の皇族。八条宮(桂宮)2代。八条宮智仁親王の長男。二品、親王
八条宮智忠親王(はちじょうのみや としただしんのう)は、江戸時代前期の日本の皇族。世襲親王家の八条宮(桂宮)第2代当主。八条宮智仁親王の第一王子。生母は丹後宮津藩主京極高知の女の常子。幼称は若宮、または多古麿(たこまろ)。
八条宮智忠親王 | |
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八条宮 | |
続柄 | 八条宮智仁親王第1王子 |
身位 |
二品 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
元和5年11月1日(1619年12月6日) 山城国 |
死去 |
寛文2年7月7日(1662年8月20日) 八条殿 |
埋葬 |
不明 相国寺慈照院内・桂宮東ノ墓地 |
配偶者 | 正室:前田富子(加賀藩主・前田利常の娘) |
子女 | 養子:穏仁親王(第3代八条宮(桂宮)) |
父親 |
実父:八条宮智仁親王(初代八条宮(桂宮)) 猶父:後水尾天皇(第108代天皇) |
母親 | 京極常子(丹後宮津藩主・京極高知の娘) |
役職 | 中務卿 |
生涯
編集寛永元年(1624年)後水尾天皇の猶子となり、寛永3年(1626年)12月親王宣下を受け、忠仁(ただひと)と命名される。後に智忠親王と改称する。寛永6年(1629年)2月元服して、中務卿に任じられる。同年4月父の智仁親王の薨去により宮家を継承する。寛永19年(1642年)9月前田利常の四女の富姫を妃とするが、後嗣を儲けることはできなかったため、承応3年(1654年)後水尾天皇の第十一皇子の穏仁親王を養子とする。明暦3年(1657年)二品に叙せられる。寬文2年(1662年)7月7日薨去。44歳。法名は天香院。
智忠親王は、父の智仁親王の影響を強く受け、学問を好んだ。和歌・書道に秀でていた。最大の功績は桂離宮を後世に伝える上で基礎を築いたことである。父の智仁親王が造営した桂の別荘(桂離宮)は父の没後、しばらく荒廃していたが、智忠親王はこれを改修し、御殿を増築し、庭園を整備することに努めた。