保科正頼
保科 正頼(ほしな まさより)は、江戸時代前期の陸奥国会津藩の世嗣。官位は従四位下、長門守、侍従。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永17年1月24日(1640年3月16日) |
死没 | 明暦3年2月1日(1657年3月15日) |
改名 | 虎菊(幼名)、正頼 |
墓所 | 福島県会津若松市の院内御廟 |
官位 | 従四位下・長門守、侍従 |
藩 | 陸奥会津藩世嗣 |
氏族 | 保科氏(会津松平家) |
父母 | 保科正之、聖光院 |
兄弟 |
幸松、正頼、媛姫、中姫、将監、菊姫、 正経、摩須、石姫、風姫、亀姫、正純、 金姫、松平正容、算姫 |
略歴
編集会津藩主・保科正之の次男(嫡男)として誕生した。幼名は虎菊。母は藤木弘之の娘お万の方。保科正経、石姫の同母兄、松平正容の異母兄。
兄が早世したため世継に定められ、慶安4年(1649年)、10歳で初めて伯父であり3代将軍の徳川家光に拝謁する。明暦元年(1655年)には会津に赴いている。
明暦3年(1657年)に明暦の大火が起こり、三田の会津藩邸の消火の指揮をとる。しかし元々病弱だったため、その時に患った風邪が悪化して火事より10日後に死去した[1]。享年18。正之は深く悲しみ、正頼の遺体を会津に搬送し、院内山に葬った。この院内山に正頼の墓が定められたことから以後、会津松平家の当主とその家族は院内山に葬られるようになり[2]、後に「西の御庭」と呼ばれるようになった。代わって、同母弟の正経が世嗣に定められた[2]。
脚注
編集参考文献
編集- 野口信一『会津藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2005年6月。