伊達村胤
伊達 村胤(だて むらたね)は、江戸時代中期の武士。陸奥国仙台藩一門第四席・涌谷伊達家7代(亘理氏25代)当主。
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 享保6年8月11日(1721年10月1日) |
死没 | 宝暦9年1月7日(1759年2月4日) |
改名 | 盛泰(初名)、村胤 |
別名 | 重次郎、彦七郎、因幡 |
戒名 | 龍徳院大寧道亨大居士 |
墓所 | 宮城県遠田郡涌谷町の見龍寺 |
主君 | 伊達吉村、宗村 |
藩 | 陸奥仙台藩 |
氏族 | 涌谷伊達家 |
父母 |
伊達村定 伊達村盛 |
兄弟 | 涼、愛、村盛、村胤、園ら |
妻 | 伊達村成娘 |
子 |
順姫 村倫 |
略歴
編集享保6年(1721年)、伊達村定の子として誕生。享保10年(1725年)、元服する。家督を継いでいた異母兄・村盛の偏諱を受け盛泰(もりやす)と称す。同年3月22日、仙台藩5代藩主・伊達吉村に謁見して日用品を賜る。元文元年(1736年)、兄・村盛が病死したのに伴い家督を継ぐ。同年6月15日、仙台城に赴いて藩主・吉村より偏諱を賜って名を村胤と改め、因幡(通称)を称する。
元文2年(1737年)6月、伊達吉村の子宗村が仙台へ下向し、村胤と歳が近かったせいか意気投合し、共に猿楽を楽しむ。翌年には共に狩猟を行っている。元文3年(1738年)11月1日、伊達村成(亘理伊達家)の娘を室に迎える。寛保3年(1743年)9月、伊達吉村が隠居し、宗家の家督を嫡男・宗村が継ぎ、太刀・馬代を献じた。宝暦3年(1753年)11月29日、村胤に子がなかったため、藩主・宗村の四男である藤四郎(後の村倫)を養子に迎える。
系譜
編集関連項目
編集
|
|
|