伊伎月雄
伊伎 月雄(いき の つきお)は、平安時代前期の貴族・儒学者。氏姓は占部連(無姓)のち中原朝臣。宮主・伊伎是雄の子か。官位は従五位下・越前介。
時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 承和5年(838年)? |
死没 | 寛平8年6月14日(896年7月27日)? |
官位 | 従五位下・越前介 |
主君 | 陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇 |
氏族 | 卜部連(無姓)→中原朝臣 |
父母 | 父:伊伎是雄?、母:和気好道娘? |
妻 | 大中臣淵魚娘 |
子 | 雪雄、淵雄 |
出自
編集宮主・伊伎是雄の子とする系図があるが[1]、是雄は貞観5年(863年)に卜部(無姓)から伊伎宿禰姓に改姓している一方、月雄は占部連を称しており、疑問がある。
経歴
編集讃岐掾を経て、元慶元年(877年)に存問渤海客使に任じられる。元慶4年(880年)釈奠にて直講として『礼記』を講じた。その後、助教を務める一方、占部連から中原朝臣に改姓している。
元慶7年(883年)外従五位下に、元慶8年(884年)には内位の従五位下に叙せられ、仁和2年(886年)には越前介次いで讃岐権掾を兼帯した。また、仁和4年(888年)に発生した阿衡事件では「阿衡に職掌なし」と書いた勘文を提出している。
官歴
編集注記のないものは『日本三代実録』による。
系譜
編集「松尾社家系図」による[1]。