仙石政俊
日本の江戸時代前期の大名。信濃上田藩初代藩主仙石忠政長男で、上田藩2代藩主。従五位下越前守。常陸下館城在番・大坂城加番を勤めた
仙石 政俊(せんごく まさとし)は、信濃上田藩の第2代藩主。出石藩仙石家3代。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和3年7月9日(1617年8月10日) |
死没 | 延宝2年7月24日(1674年8月25日) |
改名 | 兵介(幼名)→政俊→直政→道休(法号) |
戒名 | 松翁院殿謙誉道休大居士 |
墓所 | 長野県上田市諏訪部の芳泉寺 |
官位 | 従五位下、越前守 |
幕府 | 江戸幕府下館城在番・大坂城加番 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
藩 | 信濃上田藩主 |
氏族 | 仙石氏 |
父母 | 父:仙石忠政、母:小堀政徳の娘 |
兄弟 | 姉(桑山一玄室)、政俊、政則、政勝、妹(水野勝忠室) |
妻 | 正室:水谷勝隆の娘 |
子 |
忠俊 養子:養女(水野勝直室)、政明 |
生涯
編集元和3年(1617年)7月9日、小諸藩の第2代藩主・仙石忠政の長男として小諸で生まれた。寛永5年(1628年)、父の死去により家督を継いで第2代上田藩主となり、寛永11年(1634年)に従五位下・越前守に叙位・任官する。
常陸下館城在番や大坂城加番を務め、慶安3年(1650年)には検地を行なって石直しに務めるなどして藩政の基礎を固めた。寛文7年(1667年)に嫡男の忠俊が早世したため、忠俊の長男で嫡孫の政明を養子に迎え、寛文9年(1669年)2月25日に家督を政明に譲って隠居した。その際、弟の政勝に小県郡2000石(矢沢知行所)を分知し、上田藩の石高は5万8000石となった。隠居後上田城外の諏訪部に住み、直政と改名した。のち剃髪し道休と号する。
延宝2年(1674年)2月25日に死去した。享年58。隠居地諏訪部の芳泉寺に葬られた。