京極高賢
日本の江戸時代後期の大名。讃岐多度津藩3代藩主京極高文長男で、多度津藩4代藩主(多度津京極氏4代当主)。従五位下壱岐守。駿河加番を勤め、陣屋を構えた
京極 高賢(きょうごく たかかた)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。讃岐国多度津藩の第4代藩主。多度津藩京極家4代。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 安永5年6月20日(1776年8月4日) |
死没 | 天保9年3月6日(1838年3月31日) |
改名 | 秀松、内膳(幼名)、高賢 |
戒名 | 玄渕院殿前壱州刺史鶴道寿大居士 |
墓所 | 東京都港区の光林寺 |
官位 | 従五位下、壱岐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 讃岐多度津藩主 |
氏族 | 京極氏 |
父母 | 父:京極高文、母:坂本氏の養女 |
兄弟 | 高賢、好之助、千勢姫、五島運竜正室、大島義徳室、大久保忠晦正室 |
妻 |
正室:松平忠恕の娘 側室:菅氏 |
子 | 高琢、高宝、滝子、松平康豊室 |
略歴
編集安永5年(1776年)6月20日、第3代藩主・京極高文の長男として生まれた。寛政6年(1794年)5月25日に世子に指名された。寛政8年(1796年)7月5日の父の隠居で家督を継ぎ、12月19日に従五位下・壱岐守に叙位・任官した。
享和2年(1802年)5月、駿府加番に任じられた。文政10年(1827年)3月、江戸幕府に対して陣屋の建築を嘆願して許され[1]、10月に多度津に入った。同年11月、多度津に陣屋(多度津陣屋)を構えた。
天保4年(1833年)3月8日、長男の高琢に家督を譲って隠居した。天保9年(1838年)3月6日、江戸麻布の永坂下屋敷で死去した。享年63。
系譜
編集脚注
編集- ^ それまでは本家に相当する丸亀藩の丸亀城内に屋敷を持ち、多度津藩の政務もそこで行われていた。