二木秀雄
細菌学者、医師、実業家、宗教家
経歴
編集石川県立金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)卒業(34期)[1]。
1936年3月から1937年12月まで、金沢医科大学 (旧制)(現金沢大学医学部)細菌学教室講師を務めた[2]。1938年11月18日、金沢医科大学 (旧制)より医学博士号を取得[3]。
のち大日本帝国陸軍技師となり、731部隊(関東軍防疫給水部本部)に所属[2]、第一部第十一課[4]結核班(二木班)班長。
1945年頃、金沢市で与論社を創設し、雑誌『パブリックオピニオン』を発行。1946年上京し、雑誌『日本与論』を発行した[5]。同年、ジープ社社長として、右翼系政界誌『政界ジープ』を創刊[6][7]。素粒子堂病院院長[6]。
1950年11月、日本ブラッドバンクの設立発起人となり、重役に就任[6]。のちミドリ十字取締役。
1953年4月、第3回参議院議員通常選挙に石川選挙区から無所属で立候補、3位で落選。1956年、大企業・銀行・政治家などを対象とした暴露記事による恐喝事件「政界ジープ事件」を起こし、19社から6435万円を脅し取ったとしたとして逮捕、起訴され、1969年、最高裁判所で懲役3年の刑を言い渡された[8]。1970年代初め、宗教法人日本イスラム教団を設立、患者をすべてイスラム教に入信させたとしてアラブ産油諸国から援助金を得たが、入信が偽りであったことが発覚し問題になった[9]。
著作
編集- 単著『政界ニュー・フェイス : 日本を動かす341人』(政界ジープ特集号)ジープ社、1947年
- 単著『素粒子堂雑記』ジープ社、1950年
- 二木秀雄監修『円柱亭日記 町医者”円柱”と闘う』さきたま出版会、1981年6月20日
脚注
編集- ^ 『関東一泉同窓会 五十年の歴史 1958年7月~2008年10月』 (PDF) 関東一泉同窓会事務局、2008年10月
- ^ a b 古畑徹「七三一部隊長・石井四郎の日本文化講義 : 金沢大学医学部所蔵金沢医科大学資料から」『北陸史学』第51巻、北陸史学会、2002年、80-81頁、ISSN 0386-8885、NAID 120000809025。
- ^ 二木秀雄『家兎神経系黴毒に於ける脳髄の組織学的検索』 金沢医科大学 (旧制)〈医学博士 報告番号不明〉、1938年。doi:10.11501/1586580。hdl:2297/22707。NDLJP:1586580。
- ^ 中国侵略日本軍第七三一部隊罪証陳列館『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)、五洲伝播出版社、2005年6月、「731部隊」編成表
- ^ 第52回国会 衆議院内閣委員会 1966年10月27日 津田實法務省刑事局長答弁
- ^ a b c 飯島宗一「原爆と日本の医学」 (PDF) 『15年戦争と日本の医学医療研究会会誌』2001年5月、15年戦争と日本の医学・医療研究会、p.8,18
- ^ 政界ジープ 国立国会図書館
- ^ 吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は…』筑摩書房、2001年12月15日、pp.240-242
- ^ 『ハラール・ビジネスを知っていますか?』2014年1月12日、特定非営利活動法人日本イスラム連盟
外部リンク
編集- 加藤哲郎「731部隊二木秀雄の免責と復権--占領期『輿論』『政界ジープ』『医学のとびら』誌から」 (PDF) 早稲田大学20世紀メディア研究所公開研究会における報告、2015年3月28日
- 歴史が眠る多磨霊園 二木秀雄
- 金沢大学学術情報リポジトリ 著者 二木, 秀雄 [リンク切れ]