中馬兼四
中馬 兼四(ちゅうま けんし/ちゅうまん けんし、1917年(大正6年)2月28日[2] - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争におけるシドニー湾攻撃で特殊潜航艇「甲標的」艇長として戦死。二階級特進により最終階級は海軍中佐[3]。位階は正六位[3]。
中馬 兼四 | |
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左3人目から中馬、後に大森猛[注 1] | |
生誕 |
1917年2月28日 日本 鹿児島県薩摩郡上東郷村大字鳥丸[1] |
死没 |
1942年5月31日(25歳没) オーストラリア シドニー湾 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1939 - 1942 |
最終階級 | 海軍中佐 |
生涯
編集鹿児島県薩摩郡上東郷村大字鳥丸(現在の薩摩川内市東郷町鳥丸)出身[1]。父の姓は知敷[4]。中馬は鹿児島県立川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)を卒業後[3]、海軍兵学校へ進み、海兵66期として卒業した。海兵66期は、219名の同期生のうち143名が戦死し、戦死率は65.2%である[5]。中馬と同様に特殊潜航艇(以下「特潜」 )艇長としてシドニー湾攻撃で戦死した松尾敬宇、同日にマダガスカル攻撃で戦死した秋枝三郎は同期生であった。
1939年(昭和14年)6月、海軍少尉任官。潜水艦砲術長などを経て、秋枝、松尾らとともに「特潜」搭乗員として選抜され、 水上機母艦「千代田」乗組みとして訓練を受ける。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃では岩佐直治ら10名の「特潜」搭乗員が参加したが、生還者なし(1名が捕虜)という結果になり、軍令部は「特潜」による港湾進入攻撃には消極的であった[6]。しかし戦訓を取り入れ、母潜と「特潜」(甲標的)との交通筒の新設、防潜網対策として網切断機の装着などの改善などが実施され、「特潜」による第二次攻撃が決定した。中馬は参加予定の「特潜」艇長7人(実際の参加は5隻)のうちに選ばれ、松尾や伴勝久らとシドニー湾攻撃を実施することとなる。事前に通信、障害物突破、防御網突破、海峡通過などの訓練が行われた[7]。
シドニー湾攻撃
編集1942年(昭和17年)5月18日、母潜「伊27」に乗艇を搭載し、中馬は艇附の大森猛一等兵曹とともにトラックを出撃した。中馬の属す東方先遣隊の指揮官は真珠湾攻撃でも「特潜」部隊を指揮した佐々木半九大佐で、佐々木は潜水艦搭載機の偵察報告から攻撃目標をシドニー湾に定める。同月31日17時28分、中馬艇は湾口7浬の地点で母潜から出撃した。
当時のシドニー港は、磁気探知機、防潜網、探照燈、駆潜艇による防衛体制がとられていたが、中馬艇は入港するフェリーを追尾し港内への潜入に成功した[8]。しかし19時45分ごろ、軍港地帯である西港付近でスクリューが防潜網にからまり行動の自由を失う。甲標的の網切断機は艇首に装備されており、防潜網から離脱することができなかった中馬艇は30分後に監視員に発見される。監視員の報告から哨戒艇が爆雷攻撃を開始した直後、中馬艇は自爆装置によって自爆し、中馬、大森は戦死した。防潜網に捕らえられてから約3時間が経過した22時35分頃であった。
遺骨の帰国
編集中馬、大森艇は6月5日、松尾、都竹正雄艇はその前日に引揚げられ、遺体は収容された[9]。豪州海軍は四名の戦死者を海軍葬の礼をもって遇し、棺は大日章旗で覆われ埋葬された[10]。遺骨は戦時交換船によって日本に戻り、1943年(昭和18年)3月には呉で合同葬儀が行われた。
人物
編集中馬は円満温厚な性格で、運動に通じていた。出撃直前には同郷かつ海兵の1期後輩であった九軍神の一人、横山正治の位牌に額ずいている[4]。貯金の半分以上を艇附の大森一曹の家族へ、残額を弟の学資にあてるよう言い遺した。
脚注
編集- 注釈
- 出典
参考文献
編集- 東郷町郷土史編集委員会『東郷町郷土史』東郷町、1969年。
- 豊田穣『同期の桜』光人社、1981年。ISBN 4-7698-0167-X。
- 佐々木半九、今和泉喜次郎『決戦 特殊潜航艇』朝日ソノラマ 、1984年 ISBN 4-257-17047-6
- 鳥巣建之助『日本海軍潜水艦物語』光人社NF文庫、2011年。ISBN 978-4-7698-2674-3。
- 中村秀樹『本当の特殊潜航艇の戦い』光人社NF文庫、2007年 ISBN 978-4-7698-2533-3
- 土屋賢一『殉忠第一次第二次特別攻撃隊』春陽堂書店、1943年。
- 豪日研究プロジェクト 田村恵子 オーストラリアにおける特殊潜航艇展示の変遷
- アジア歴史資料センター 『写真週報 243号 』(遺骨帰国時の様子が収められている)
関連書籍
編集- 豊田穣『海軍特別攻撃隊』「シドニーの岸壁」集英社文庫 ISBN 4-08-750339-9