中野車両基地
中野車両基地(なかのしゃりょうきち)は、東京都中野区弥生町五丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)の車両基地および車両工場の総称である。車両基地の中野検車区(なかのけんしゃく、北緯35度41分8秒 東経139度39分48秒座標: 北緯35度41分8秒 東経139度39分48秒)、車両工場の中野工場(なかのこうじょう、北緯35度41分14秒 東経139度39分52秒)から構成される。丸ノ内線、銀座線の車両が所属している。最寄駅は中野富士見町駅。
本車両基地用地は、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)設立直後の1944年(昭和19年)に、当時の地下鉄4号線[1]の城西方面への延伸を予想して、中野富士見町地区に用地を確保していたものである[2][3]。
小石川検車区は2011年(平成23年)4月に中野検車区に組織統合され、同区は中野検車区小石川分室となった[4][5]。
丸ノ内線分岐線とは中野富士見町駅から単線の入出庫線で繋がっている。この入出庫線の途中には50 ‰の急勾配がある[6]。本車両基地の西側の地下には丸ノ内線分岐線のトンネルが通っている[6]。
浅田次郎の小説「地下鉄(メトロ)に乗って」の作中に頻繁に登場する。
建設経緯
編集以前の当用地は神田川沿いの湿田地・畑地・荒地であり、何度も水害に見舞われていて、1938年(昭和13年)9月の台風で大きな被害を被ったことを機として、中野土地区画整理組合によって土地区画整理事業が施行されていた土地であった[2]。こうした中にあって、4号線用の車両基地用地を検討していた営団地下鉄によって、当用地がその車両基地用地として買収されるに至った[2]。こうした事情を反映して、「新宿付近」とされていた地下鉄4号線の始点は、戦後の1946年(昭和21年)に策定された「戦災復興院告示第252号」において「中野区富士見町」と訂正されている。ただしその後、中央線の混雑緩和を目的として、4号線本線の始点は国鉄荻窪駅に変更されることになり、当地へつながる路線は支線として、方南町を始点とすることとなった[7]。
銀座線車両の保守
編集営団地下鉄では銀座線において上野・渋谷に設置されていた車両基地は用地が狭く、その後の車両運用面において大きく不便を強いられていた[3]。本車両基地は銀座線・丸ノ内線の将来の車両動向を総合的に判断し、計画されたものである[8][3]。既存の小石川車両基地(当時)だけでは収容能力に限界があることや[3]、銀座線においては上野と渋谷の工場を廃止して中野工場に統合することで、それらの車両基地を拡張させて留置能力を向上させた[8][3]。
中野検車区
編集1961年(昭和36年)2月に留置能力180両として中野検車区が発足した。丸ノ内線全車両の月検査と車両清掃を担当しているほか、銀座線車両の車輪転削も行っている。本検車区は収容数に余裕があり、銀座線の上野・渋谷各検車区の大規模改良工事時には収容数が不足したため、同線用の車両の夜間留置にも使用されたことがある。
検車区設備は構内の西南寄りに位置し、6両編成3本が収容可能な検車庫・小修理場・検車区事務所で構成している[9][3]。
敷地面積:55,388m2(中野工場を含む全体[2]) 車両留置能力:168両
配置車両
編集- 2000系 312両 6両52編成
- 全編成とも配置されている。2019年7月5日より02系本線用と同様、本線の他に支線の方南町まで運転開始。
- 02系 6両 6両1編成
- 2000系導入前は本線用6両53編成、支線用3両6編成の計336両全車が配置されていた。現在は第01編成のみが予備車として残存している。
中野工場
編集1961年(昭和36年)9月に中野工場が発足した。発足以来、小石川工場と、それぞれで工場業務を分担してきた。1971年(昭和46年)5月には小石川工場は本工場に組織統合され、中野工場小石川分場とした[8]。旧中野工場設備は整備工場、車体・塗装工場、台車・車輪工場の3棟で構成していた[9]。
近代化工事
編集1983年(昭和58年)9月に銀座線に01系が投入され[10]、近い将来丸ノ内線においても車両の置き換えを予定したことから[10]、この時点で銀座線・丸ノ内線の車両基地の再整備を実施することを決定した[10]。このため、本工場は1985年度(昭和60年度)から1988年度(昭和63年度)にかけて工場建屋の全面的な建て替えをはじめとした近代化工事を実施した[10]。主な工事内容は以下のとおりで、工費は37億円ともなった[10]。
- 廃車処理場兼モーターカー庫新築
- 事務所兼電機機器職場新築(地上5階建て)
- 旧事務所、機器職場棟撤去
- 旧整備室撤去
- 車体職場棟増築
- 台車職場棟増築
- 整備室新築
完成後の1989年(平成元年)4月には小石川分場を廃止し、銀座線と丸ノ内線車両の重要部検査・全般検査は全て本工場で受け持つことになった[10]。そして、小石川分場は銀座線・丸ノ内線車両の更新修繕を施工する工場となり、1991年(平成3年)12月には中野工場小石川CRと名称変更された。なお、2011年(平成23年)時点では車両工事所小石川CRに名称変更されている[4]。
検査担当車両
編集- 銀座線
- 丸ノ内線
歴史
編集- 発足 - 1971年(昭和46年)5月まで
- 1971年5月 - 1989年(平成元年)4月
- 1989年4月以降
改造工事
編集- 丸ノ内線500形と銀座線2000形の更新工事が1973年より開始された。更新メニューはドアのSUS製小窓へ。化粧板が鉄製からFRP製へ。ルーバーもFRPへ交換。行先方向幕も電動式へ変更。2000形は1983年の01系投入開始により中止。500形に関しては、初期更新車と中期更新が編成の先頭に立つような体制が整えられていた。1988年に新車02系が投入されるとこの工事が中止され、1985年以降に更新された500形が基本的に先頭に立つようになったことからそれまでの初期更新車(1973 - 1980年)が300・400形で連結されていた2・4号車または3・5号車をこの初期・中期更新車にあたる500形へ交換された。
沿革
編集- 1958年(昭和34年)12月8日 - 中野車両基地の土木工事に着手[11]。
- 1960年(昭和35年)11月5日 - 中野検車区準備事務所発足。
- 1961年(昭和36年)
- 1971年(昭和46年)5月10日 - 小石川工場を中野工場へ統合し、中野工場小石川分場とする[12]。
- 1982年(昭和57年)9月12日 - 台風18号の豪雨により神田川が氾濫[13]。中野検車区構内がレール面上240 mm まで冠水する[13][14]。
- 1985年(昭和60年)度 - 1988年(昭和63年)度 - 中野工場建屋の全面的な建て替え工事を実施[10]。
- 1988年(昭和63年)6月1日 - 小石川検車区担当の月検査を中野検車区に移管[12]。これは、同日より月検査の検査周期が2ヶ月以内または走行距離 3万km以内から3ヶ月以内に延伸したためである[12]。
- 1989年(平成元年)4月27日[15] - 中野工場新工場における検査を開始。合わせて、中野工場小石川分場での検査業務を廃止する。
- 1991年(平成3年)12月 - 小石川分場を中野工場小石川CRと名称変更する。
- 1999年(平成11年)11月 - 小石川検車区担当の車両清掃を移管。
- 2011年(平成23年)4月1日 - 小石川検車区を中野検車区に組織統合し、同区は中野検車区小石川分室となる[5]。
新車搬入・廃車搬出
編集本車両基地では新車の搬入また廃車の搬出も行われる。銀座線・丸ノ内線は他線との接続がないため、新車搬入は、基本的に製造メーカーから甲種輸送で川崎貨物駅まで輸送され、そこからトレーラートラックで道路輸送で本車両基地まで運ばれる。本車両基地の南東に専用の搬入路があり、1/20の下り勾配で4.5 m下の基地構内に繋がっている[3]。本車両基地の開設前は小石川車両基地で搬入されていた。
本車両基地では1960年(昭和35年)9月から車両搬入が実施されている[3]。特に1983年以降に搬入された銀座線用の01系、1988年以降に搬入された丸ノ内線用の02系は、全車両が本検車区より搬入されている。01系や02系の大量増備が行われていた1990年代前半には多数の新車搬入が実施されていたが、その後は1997年(平成9年)夏に搬入された01系第38編成を最後に新車搬入は途絶えていた。そして、2011年9月には銀座線用の1000系第1編成が搬入され、実に14年ぶりとなる久しぶりの新車搬入となった。
01系や02系の新製が行われていた時期には、代替廃車となる旧形車両の解体作業が行われていた。また、丸ノ内線旧形車両のアルゼンチン地下鉄への車両搬出も本検車区から行われ、ここからトレーラートラックで川崎埠頭まで運ばれていた。2016年にブエノスアイレスで引退した丸ノ内線車両4両が帰国を果たした時に横浜埠頭からトレーラートラックで中野まで輸送された。メトロビアス仕様のまま搬入された時には注目されたのに加え落書きが酷い車両が殆どであった。現在は復元され、当検車区内でお披露目イベントが開催された。
1000系の投入で廃車された01系は、熊本電鉄へ譲渡の際にはトレーラーと船舶輸送で現地へ輸送。01系・02系とも廃車解体の場合には本車両基地では解体せず、トレーラートラックで搬出して、外部の施設で解体している。
脚注
編集- ^ 現在の丸ノ内線のことであるが、戦後の計画では、何度か経路が変更されている。
- ^ a b c d 帝都高速度交通営団 1967 pp.5 - 7。
- ^ a b c d e f g h 帝都高速度交通営団 1967 pp.375 - 385。
- ^ a b 東京地下鉄「東京メトロハンドブック2011」参照。
- ^ a b ネコ・パブリッシング『公式パンフレットで見る東京地下鉄車両のあゆみ - 1000形から1000系まで」p.264。
- ^ a b 帝都高速度交通営団 1967 pp.213 - 216。
- ^ 帝都高速度交通営団 1967.
- ^ a b c d e f g h 帝都高速度交通営団『60年のあゆみ - 営団地下鉄車両2000両のあゆみ - 』pp.154 - 156。
- ^ a b 帝都高速度交通営団 1967 pp.257 - 265。
- ^ a b c d e f g h i 営団地下鉄五十年史、pp.428 - 429。
- ^ 帝都高速度交通営団 1967 pp.10 - 11。
- ^ a b c 帝都高速度交通営団『60年のあゆみ - 営団地下鉄車両2000両のあゆみ - 』p.225。
- ^ a b 帝都高速度交通営団『60年のあゆみ - 営団地下鉄車両2000両のあゆみ - 』pp.194 - 195。
- ^ 「東京メトロの水害対策」 (PDF) - 東京地下鉄 鉄道本部 安全・技術部(インターネットアーカイブ・2021年時点の版)
- ^ ネコ・パブリッシング『公式パンフレットで見る東京地下鉄車両のあゆみ - 1000形から1000系まで」p.259。
参考文献
編集- 『東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)』帝都高速度交通営団、1960年3月31日 。
- 『東京地下鉄道丸ノ内線建設史(下巻)』帝都高速度交通営団、1960年3月31日 。
- 『東京地下鉄道荻窪線建設史』帝都高速度交通営団、1967年3月31日。doi:10.11501/2513630 。
- 『営団地下鉄五十年史』帝都高速度交通営団、1991年7月。
- 帝都高速度交通営団「60年のあゆみ - 営団地下鉄車両2000両突破記念 - 」
- 東京地下鉄「帝都高速度交通営団史」
- 交友社「鉄道ファン」
- 1996年10月号「特集:カラフル営団地下鉄2401両」
- 鉄道図書刊行会「鉄道ピクトリアル」
- 1995年7月臨時増刊号「特集:帝都高速度交通営団」
関連項目
編集