中川謙二郎
日本の教育者
中川 謙二郎(なかがわ けんじろう、1850年10月26日(嘉永3年9月21日) - 1928年(昭和3年)4月16日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者、文部官僚。
なかがわ けんじろう 中川 謙二郎 | |
---|---|
生誕 |
1850年10月26日(嘉永3年9月21日) 丹波国南桑田郡馬路村(現・京都府亀岡市馬路町) |
死没 | 1928年4月16日(77歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 教育者、官吏 |
肩書き |
従三位勲二等 東京女子高等師範学校名誉教授(1917年) |
共立女子職業学校(共立女子中学校・高等学校の前身)校長、仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身の一つ)初代校長、東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)校長を歴任した。
人物
編集京都府丹波国南桑田郡馬路村(現在の京都府亀岡市馬路町)生まれ。1900年(明治33年)に京都法政学校(現・立命館大学)を設立した中川小十郎の実母・さきの弟にあたる。謙二郎は西園寺公望の山陰道鎮撫、北越鎮撫に参加後、西園寺の誘いで東京開成学校(現在の東京大学)に学び、1901年(明治34年)文部省視学官となった。新潟学校、学習院、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の教諭・校長を経て仙台高等工業学校(現東北大学工学部の母体)初代校長となった。1918年6月21日、錦鶏間祗候に任じられた[1]。
親族
編集栄典・授章・授賞
編集著作
編集- 著書
- 『訓蒙化学』 弘文社、1881年11月上巻・下巻
- 『簡易化学器械』 金港堂、1891年4月
- 『婦人の力と帝国の将来』 冨山房、1925年7月
- 『婦人の力と帝国の将来』 日本図書センター〈近代日本女子教育文献集〉、1984年7月 ISBN 4820568744
- 訳書
- 『理科読本』 金港堂、1886年1月第一・第二・第三
脚注
編集関連文献
編集- 「故従三位勲三等中川謙二郎叙勲ノ件」(国立公文書館所蔵 「叙勲裁可書・昭和三年・叙勲巻一」) - アジア歴史資料センター Ref.A10113041800
- 「第九部審査官中川謙二郎君」(『第五回内国勧業博覧会 審査官列伝 前編』 金港堂書籍、1903年4月)
- 栗原古城 「中川謙二郎君」(『教育界』第9巻第7号、金港堂書籍、1910年5月)
- 「東京女子師範学校長 中川謙二郎君」(松下長重編 『東洋成功軌範』 中央教育社、1911年12月)
- 香川栄一編 『清芬録』 桜蔭会、1923年
- 新保磐次 「中川謙二郎先生小伝」(前掲 『婦人の力と帝国の将来』)
- 庄司荘重郎編 『中川謙二郎先生』 桜蔭会、1929年4月
外部リンク
編集- お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ - 肖像写真などが閲覧できる。
公職 | ||
---|---|---|
先代 三宅正雄 |
東京高等工業学校附属職工徒弟学校主事 1898年 - 1901年 |
次代 内海静 |
その他の役職 | ||
先代 手島精一 |
共立女子職業学校長 1897年 - 1903年 |
次代 手島精一 |