上山城
上山城(かみのやまじょう)は、山形県上山市にあった日本の城。別名月岡城。江戸時代には上山藩の藩庁が置かれた。上山市指定史跡[1]。
上山城 (山形県) | |
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模擬天守 | |
別名 | 月岡城 |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 |
不明 (望楼型3層5階、鉄筋コンクリート造模擬)1982年 |
築城主 | 武衛義忠 |
築城年 | 1535年 |
主な改修者 | 松平(能見)重忠 |
主な城主 | 上山氏、小簗川氏、藤井松平氏ほか |
廃城年 | 1873年 |
遺構 | 石垣、土塁、堀 |
指定文化財 | 市指定史跡 |
再建造物 | 模擬天守 |
位置 | 北緯38度9分26.99秒 東経140度16分34.28秒 / 北緯38.1574972度 東経140.2761889度 |
地図 |
歴史
編集天文4年(1535年)上山義房の子武衛義忠が高楯城を伊達家より奪還した後、天神森(現在の月岡公園)に改めて平山城である上山城を築城、周辺を城下町とした。以後城主は武衛義節、上山満兼と続き、最上氏の城であった。
天正2年(1574年)に天正最上の乱が発生。当初、城主の上山満兼は最上義光に加担したものの、最上義守側についた伊達軍が上山付近の樽下に進軍すると、義光を裏切り、伊達軍の通過を許した。その後、満兼は最上八楯の一員として、最上義光と和議を結ぶものの、確執は残ることとなる。
天正8年(1580年)最上義光は里見民部を寝返らせて上山城を攻めさせ、城主の上山満兼は討死した。代わって里見民部が上山城主となり、再び最上氏の城となった。
慶長5年(1600年)慶長出羽合戦の舞台の一つとなった。9月17日、上杉・直江側の篠井康信、横田旨俊ら4000人が羽州街道の最前線であった最上義光の統治する上山城の攻めに取りかかった。守将の里見民部の城兵はわずか500ほどにしか過ぎなかったが、民部は城門を開けて打って出た。上杉軍は一気に城兵を殲滅しようと反撃に出て、城門付近で戦闘が繰り広げられたが、突如上杉軍の背後から最上軍が襲いかかった。これは、民部があらかじめ少ない兵を分散し、最上義光が増派した草刈志摩の別動隊を城の外で待ち伏せさせていたものである。背後を襲われた上杉軍は混乱に陥り、最上勢はこの隙に上杉勢を攻めた。上杉方大将の本村親盛が最上勢の坂弥兵衛なる者に討ち取られ、椎名弥七郎をはじめとする将兵の多くが討たれたとされる。里見民部は上杉軍400人余りの首を最上義光に送ったとされる。この上山城攻めにより、掛入石仲中山口からの上杉軍は、同時期に行われていた長谷堂城の戦いでの直江本隊と最後まで合流することが出来なかった[要出典]。
慶長出羽合戦後、城主里見民部は最上義光との関係が悪化していった。民部は最上義光の嫡男・最上義康と義光の父子離反を謀るとともに、廃嫡および謀殺に加担[2]したものの、慶長8年(1603年)8月16日に危機を察知して一族と共に逃亡した。なお、民部らの逃亡後、上山城には最上義光の五男・上野山義直(最上光広)が入った。
慶長20年(1615年)、幕府より一国一城令が発せられたものの、上山城は破却されずに済んだ。
元和8年(1622年)、最上氏が最上騒動により改易された後、能見松平家の松平重忠が4万石で入り、上山藩を立藩した。その頃の城は、本丸を囲んで一段低く周囲に二の丸があり、外濠が取り巻いていたとされる。
元禄5年(1692年)土岐頼殷が越前野岡藩に転封した直後、幕府の命により城が破却される。破却直前は本丸に三重の天守や各所に櫓門がある近世城郭であり、月岡・天神森にそびえるその壮麗な城郭は「羽州の名城」として広く知れ渡っていた(正保絵図、元禄絵図)。飛騨国高山から金森頼時が入封し、二の丸に御殿が構築された。藤井松平家が入封した際に本丸の一部や城門等を修築したが、天守は無く、二の丸に居館が設けられた程度の城構えであり、そのまま幕末や明治を迎えた。
歴代藩主は上山藩に詳しく記載されているが、能見松平家2代(4万石)、蒲生家1代(4万石)、土岐家2代(2.5万石、後3.5万石)、金森家1代(3.87万石)と目まぐるしく藩主が入れ替わった後、藤井松平家が藩主となった。その後明治維新まで藤井氏が当地を治め、10代(3万石)信安の代まで居城として用いた。しかし、明治時代に入ると廃城令の影響で1873年より取り壊されたり、払い下げられたりして廃城となった。
城跡には明治11年(1878年)9月に月岡神社の建築、その後月岡公園の整備がなされ、1957年(昭和32年)4月20日に市の史跡に指定された[3]。
1982年(昭和57年)11月2日、二の丸跡に現在の3層の模擬天守が建立された。模擬天守の内部は、郷土歴史資料館として利用されており、季節によって、雛人形展や鎧などの収蔵品展、刀剣展といった催しが行われている。
再建当時、天守付きで再現することについては多くの論議を呼んだ。
遺構等
編集遺構
編集本丸西側に西内堀が残り、この他、土塁、石垣の一部と庭園が現存している。
移築建造物
編集建造物としては、薬医門形式の門が山形県南陽市の旅館「いきかえりの宿 瀧波」に、城内にあった兵糧米保管庫の籾蔵が市内御井戸丁の鈴木家に、それぞれ移築され現存している。
その他
編集- 復興天守 - 二の丸跡には望楼型の模擬天守が建てられており、資料館として利用されている(前項「歴史」記事参照)。
- 出羽国之内上山絵図 - 正保元年(1644年)に幕府提出の「正保城絵図」。複写が資料館にて不定期展示[4]。
- 展望台 - 左奥に蔵王連峰が遠望できる。
- 藩校明新館跡地 - 現在は案内図看板で往時の部屋割りなどが紹介。
- 「上中下三字説」石碑 - 沢庵和尚の教えを記す。
- ふれあい足湯 - 天守跡・登城路などに設置。
観光
編集- 交通
- 所在地:山形県上山市元城内3-7
- 電車
- 路線バス
- 山交バス(山形-高松葉山線)バス停「上山城口」より徒歩3分
- 自動車
- ※上山城周辺に約50台の無料駐車場あり
- 開館時間
- 午前9時 - 午後4時45分
- 休館日
- 12月29日~31日 その他、メンテナンス休館有
- 入館料
- 大人 420円、高校・大学生 370円、小中学生 50円(団体割引あり)
- 指定管理者
- 公益財団法人上山城郷土資料館
敷地内施設
施設の概要
編集敷地面積 | 42,691.5m2 |
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建築面積 | 386.93 m2 |
延床面積 | 2,480.08m2
(1階:1,695.55㎡) (中2階:256.18㎡) (2階:239.66㎡) (3階:239.66㎡) (4階:49.03㎡) |
階数 | 3層4階 |
建築構造 | 鉄筋コンクリート造 |
建築企業 | 建築設計・監理:㈱石本建築事務所
展示設計・監理:㈱環境設計組織 建築本体工事:㈱竹中工務店 東北支店 機械設備工事:弘栄設備工業㈱ 電気設備工事:東北電気工事㈱ 山形支社 エレベーター工事:横浜エレベータ 展示設備工事:㈱乃村工藝社 |
竣工 | 1982年11月2日 |
ゆかりのある人物
編集- 上山氏(かみのやまし) - 当地を本拠とした一族
- 上山義房 - 室町時代の戦国武将。子の上山義忠(武衛義忠)が上山城(月岡城)を築城。
- 上山満兼(武衛義政) - 安土桃山時代の上山城主。
- 里見民部 - 安土桃山時代から江戸時代にかけての上山城主。
- 上野山義直 - 江戸時代初期の上山城主
- 松平重忠 - 1622年 出羽上山藩を立藩、初代藩主となる。能見松平家。遠江国出身。
- 蒲生忠知 - 1626年 出羽上山藩藩主。会津藩出身。
- 土岐頼行 - 1628年 出羽上山藩の土岐家初代藩主。摂津国出身
- 金森頼旹 - 1692年 出羽上山藩藩主。飛騨高山藩出身。
- 松平信通 - 1697年 出羽上山藩の藤井松平家初代藩主。播磨国出身。以後、明治時代の廃藩置県まで、藤井松平家が上山藩を治める。
- 金子清邦 - 江戸時代末期、幕末の上山藩家老。積極的な藩政改革を行った。
- 鈴木啓蔵 - 元上山市長。上山城再建を進めた。
脚注
編集- ^ 「市指定文化財(リスト)」山形県上山市公式HP
- ^ 「藤田丹波働の覚書」『最上記追加』
- ^ 「市指定(77から84)」山形県上山市公式HP
- ^ 正保城絵図「出羽国之内上山絵図」は国立公文書館に保存。
参考文献
編集- 山形県教育委員会『山形県中世城館跡調査報告書(村山地区)』、1996年