一柳末昆
江戸時代後期の大名
一柳 末昆(ひとつやなぎ すえひで[2])は、江戸時代中期の大名。播磨国小野藩4代藩主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄12年(1699年) |
死没 | 元文2年8月12日(1737年9月6日) |
別名 | 隼人[1]→民部[1][2](通称) |
戒名 | 円乗院殿心翁道胖大居士[1][注釈 1] |
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺 |
官位 | 従五位下対馬守、土佐守[2] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家宣、家継、吉宗 |
藩 | 播磨小野藩主 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 | 一柳直昌、清閑寺熈定娘 |
妻 | 一柳直長[注釈 2]娘 |
子 | 末栄、娘(朽木紀綱正室、のち山口弘長継室) |
生涯
編集元禄12年(1699年)[2]、小野藩嗣子一柳直昌の長男として誕生[2]。元禄14年(1701年)に父は死去[2]。
父は小野藩主一柳末礼の弟で、その養嗣子となっていた[2]。このため、正徳元年(1711年)6月6日に末昆が末礼の嫡孫となった[2]。正徳2年(1712年)4月5日、末礼の死去により14歳で跡を継いだ[2]。同年4月15日、6代将軍徳川家宣に初謁[2]。正徳3年(1713年)3月7日、従五位下対馬守に叙任する[2]。享保3年(1718年)4月15日、初入国の許可を得る[2]。享保10年(1725年)、土佐守に遷る[2]。
元文2年(1737年)8月12日死去、享年39[2]。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺[2]。跡を長男・末栄が継いだ[2]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
- 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年 。