一条実雅
一条 実雅(いちじょう さねまさ、建久7年(1196年) - 安貞2年4月1日(1228年5月6日))は、鎌倉時代初期の公卿。一条能保の子。従三位・参議。伊予宰相中将と号す。
経歴
編集姉婿である西園寺公経の猶子となる。建保5年(1217年)に伊予守に任じられ、翌建保6年(1218年)には左少将を兼ねたので伊予少将と呼ばれた。同年、鎌倉幕府将軍源実朝の左大将拝賀に供奉するために鎌倉に下向。そのまま鎌倉に住み、建保7年(1219年)1月には実朝の右大臣就任の鶴岡八幡宮参詣に随従してその暗殺を目にする事になる。その後、姉の孫にあたる三寅(後の九条頼経)が次の鎌倉殿に決まったため、三寅の鎌倉下向に京より供奉。承久元年(1219年)10月20日に執権北条義時の娘を妻に迎え[1]、承久2年(1220年)8月6日には妻が男子を[2]、承久4年(1222年)2月12日には女子を出産している[3]。また承久3年(1221年)には讃岐守に転じ、承久4年(1222年)には在関東のまま参議に任じられ公卿に列した。三寅の側近であると共に義時の婿ということで幕府内部にも関与し、御家人を集めて独自に軍事訓練をするなど、幕府内に一定の勢力を築いた[4]。
ところが、元仁元年(1224年)、妻の母である伊賀の方とその兄伊賀光宗が義時の死後、その後継者として伊賀の方の息子の北条政村を擁立しようとした伊賀氏事件が起こり、実雅を三寅に代わる新将軍に立てようとしていたことが発覚。実雅は妻と離別させられた上で京都へ送還された後に越前へ配流となった。
だが伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、北条政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏事件は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後妻の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある[5]。