ヴィマ・タクト
ヴィマ・タクト(Vima Takto[1]、生没年不詳)は、クシャーナ朝の第2代君主。クジュラ・カドフィセスの子。ヴィマ・タクトゥ(Vima Taktu)とも表記される。また、『後漢書』にある閻膏珍(えんこうちん)[2]が彼にあたるとされる。
ヴィマ・タクト | |
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クシャーナ朝第2代君主 | |
在位 | 80年頃 - 90年頃 |
子女 | ヴィマ・カドフィセス |
王朝 | クシャーナ朝 |
父親 | クジュラ・カドフィセス |
生涯
編集クジュラ・カドフィセスの子として生まれる。
1世紀の半ば、父のクジュラ・カドフィセスが死去すると、ヴィマ・タクトはその後を継いで王となった。ヴィマ・タクトはインドに侵攻して北西インドを占領、その統治のために一人の総督(クシャトラパ)を置いて北西インドを監領させた。
84年(建初9年)、後漢の西域将兵長史である班超が、漢に叛いた疏勒王の忠を攻撃した際、康居軍が疏勒王を救うべくやってきたため、班超は疏勒王のいる烏即城を降せずにいた。その頃クシャーナ朝[3]では新たに康居国と婚姻を結び、同盟が成立していた。班超はそこに目をつけ、クシャーナ王に多くの祝い品を贈って康居軍の撤退を促した。これによって康居軍は疏勒国から撤退し、班超は烏即城を落とすことができた。
87年(章和元年)、クシャーナ朝は後漢に遣使を送って扶抜・師子を献上した。この時、クシャーナ朝の使者は漢の公主を求めたが、班超に拒否され、追い返された。
90年(永元2年)5月、求婚を断られたためかクシャーナ王は副王の謝[4]を派遣して班超を攻撃させたが[5]、班超に撃退された。これ以降、クシャーナ朝は後漢に毎年貢献するようになる。
ヴィマ・タクトの死後、子のヴィマ・カドフィセスが後を継いだ。
研究史
編集彼のコインには古代ギリシャ語で“ΒΑΣΙΛΕΥ ΒΑΣΙΛΕΥΩΝ ΣΩΤΗΡ ΜΕΓΑΣ(バシレイ・バシレヨン・ソテル・メガス)”すなわち 「諸王の王、偉大な救世主」としか書かれていなかったため、ヴィマ・タクトは長い間「無名の王」として知られてきた。しかし、1993年にアフガニスタンで偶然発見された『ラバータク碑文』によって彼の名前が知られるとともに、それまで謎とされてきたクシャーナ朝の王統が判明することとなった。
脚注
編集- ^ ヴィマ・タクト(Vima takto)の名前は碑文の摩滅によって正確にはわからず、名前の最後を「to」と読む説は確定的ではない。
- ^ 子のヴィマ・カドフィセス説や、兄弟のサダシュカナ(Sadashkana)説がある。
- ^ 原文では「月氏」。中国史書ではクシャーナ朝のことを大月氏の延長として「大月氏」・「月氏」と呼び続けた。
- ^ 子のヴィマ・カドフィセスか、兄弟のサダシュカナか、もしくは別の人物か。
- ^ この時のクシャーナ軍は総勢7万で、亀茲国にまで侵攻してきた。
参考資料
編集- 『後漢書』(粛宗孝章帝紀、孝和孝殤帝紀、班超列伝、西域伝)
外部リンク
編集- 古代アフガニスタンのバクトリア語文書 - ウェブアーカイブ(archive.org、2012年9月11日)(古代オリエント博物館で行われたニコラス・シムズ=ウィリアムズによるバクトリア語に関する講演の記録。ラバータク碑文にも触れられている。東京大学文学部言語学研究室サイト内)