ビスマルク諸島
パプアニューギニア領
ビスマルク諸島(ビスマルクしょとう、ドイツ語: Bismarck-Archipel)は、太平洋、ニューギニア島沖にあるパプアニューギニア領の諸島。名前はドイツの宰相オットー・フォン・ビスマルクにちなむ。多くは火山島である。
地理
編集ビスマルク諸島はビスマルク海を取り囲んでいる。主な島を州ごとに示すと以下のとおり。
- マヌス州(地図 9)
- ニューアイルランド州(地図 12)
- セント・マタイアス諸島
- ニューハノーヴァー島 (New Hanover Island)
- ニューアイルランド島 (New Ireland) (ドイツ領時代はノイメクレンブルク島 Neumecklenburg)
- 東ニューブリテン州(地図 4)
- ニューブリテン島 (New Britain) (ドイツ領時代はノイポンメルン島 Neupommern)
- デューク・オブ・ヨーク諸島 (Duke of York Islands)
- 西ニューブリテン州(地図 18)
- ニューブリテン島
- Vitu諸島 (Vitu Islands)
- モロベ州(地図 11)
歴史
編集ビスマルク諸島に人類が定住を始めたのは、約3万〜4万年前である[1]。ポリネシア、ミクロネシア東部、メラネシア島嶼部のオーストロネシア人の直接の祖先とされるラピタ人が到達し定住を始めた。
ヨーロッパ人で最初にこの諸島を発見したのはオランダ人航海者のウィレム・スホーテン 〈Willem Cornelisz Schouten〉で、1616年のことである。しかし、1884年にドイツ領になるまでヨーロッパ人は住んでいなかった。
1888年3月13日、リッター島で火山の噴火が発生した。この噴火により巨大な津波が引き起こされ、火山の大部分が崩壊して海に沈んだ。その結果、島には小さな火口湖が形成された[2]。
第一次世界大戦が勃発すると、1914年にオーストラリア軍が占領した。その後オーストラリアの委任統治領となり、途中第二次世界大戦での日本軍による占領をはさみ、1975年のパプアニューギニアの独立までオーストラリアの統治下にあった。
なお、第二次世界大戦中の1943年に日本国内で発行された国民学校初等科6年生向けの教科書「初等科国語 七」において、美しい島々に住む心優しき住民、ラバウルの大きな港などが紹介されている。
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1920年にドイツで発行された Deutschen Koloniallexikon (ドイツ植民地事典) に収録されている地図 (1885 - 1918)
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ビスマルク諸島のルフ (Luf) で使われていた船。ベルリン、民族博物館、1890年収蔵。
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ニューアイルランド島北部の仮面。ベルリン、民族博物館、1876年収蔵。
出典
編集- ^ “Buang Merabak: additional early radiocarbon evidence of the colonisation of the Bismarck Archipelago, Papua New Guinea | Antiquity Journal”. www.antiquity.ac.uk. 2024年12月14日閲覧。
- ^ Ward, Steven N.; Day, Simon (2003-09-01). “Ritter Island Volcano—lateral collapse and the tsunami of 1888”. Geophysical Journal International 154 (3): 891–902. doi:10.1046/j.1365-246X.2003.02016.x. ISSN 0956-540X .