トゥトラカン
ブルガリアの町
トゥトラカン(ブルガリア語: Ту̀тракан, ラテン文字転写: Tutrakan)は、ブルガリア北東部のシリストラ州にある町。同名のトゥトラカン市の行政の中心地である。
トゥトラカン Тутракан Тurtucaia Тurtukai | ||
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軍人墓地にあるトゥトラカンの戦いの慰霊碑 | ||
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座標:北緯44度3分 東経26度37分 / 北緯44.050度 東経26.617度座標: 北緯44度3分 東経26度37分 / 北緯44.050度 東経26.617度 | ||
国 | ブルガリア | |
州 | シリストラ州 | |
政府 | ||
標高 | 107 m | |
人口 (2009年12月31日)[1] | ||
• 都市 | 9,476人 | |
• 都市部 | 16,436人 | |
等時帯 | UTC+2 (東ヨーロッパ時間) | |
• 夏時間 | UTC+3 (東ヨーロッパ夏時間) | |
郵便番号 |
7600 | |
市外局番 | 0866 |
南ドブルジャ地方西端のドナウ川右岸、ルーマニアのオルテニツァの対岸に位置する。オルテニツァとはかつてフェリーが運航されていたが、現在は就航していない。ルセの東58キロメートル、シリストラの西62キロメートルにあたる。人口は9476人(2009年12月)[1][2][3]。
歴史
編集1世紀半ば、ローマ帝国によって都市が建設され、トランスマリスカ (Transmarisca) と命名された。トランスマリスカは次第に増強され、4世紀のディオクレティアヌスの時代にはドナウ川国境有数のローマの拠点となった。
古代の市街と城砦は7世紀初頭に破壊され、7世紀末に現在の地名を持つ新しい市街が形成された。中世を通じてブルガリア帝国に服属したが、14世紀にオスマン帝国に征服された。
1877年から翌年の露土戦争でオスマン帝国の支配から解放され、ブルガリア王国領となった。第二次バルカン戦争後はルーマニア王国に編入されたが、1940年のクライヨーヴァ条約でブルガリアに復帰した。
第一次世界大戦中にはトゥトラカンの戦いで、ブルガリアとドイツ帝国の中央同盟軍がルーマニア軍を撃破した。
今日は活気ある漁師町となっており、その風情が感じられる一角には観光客やサイクリストが訪れる。
人口推移 | ||
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年 | 人口 | ±% |
1946 | 7,183 | — |
1956 | 9,592 | +33.5% |
1965 | 9,926 | +3.5% |
1975 | 11,425 | +15.1% |
1985 | 12,119 | +6.1% |
1992 | 11,573 | −4.5% |
2001 | 10,322 | −10.8% |
2005 | 9,713 | −5.9% |
2009 | 9,476 | −2.4% |
Source: 国家統計局[1] |
ギャラリー
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1764年に亡くなったブルガリア兵の集団墓地
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ブルガリアの将軍パンテレイ・キセロフの胸像。第一次世界大戦中、南ドブルジャ地方を解放した