テネシーワルツ
「テネシーワルツ」(Tennessee Waltz,The Tennessee Waltz)は、1948年に出版されたアメリカのポピュラー/カントリー歌曲。1946年、ピー・ウィー・キング(英語版)が作曲した曲に、レッド・スチュワート(英語版)が詞をつけ[1]、ゴールデン・ウエスト・カウボーイズ版が1948年1月に、カウボーイ・コパズ(英語版)版が1948年3月に出版され、いずれもヒットチャート上位を獲得した。1950年にパティ・ペイジがカバーしたものがマルチミリオンセラーとなった。1952年と1974年頃、日本で大ヒットした[2]。
歌詞は「恋人とテネシーワルツを踊っていて、旧友が来たので恋人を紹介したら、その友達に恋人を盗まれてしまった」というもので、歌手の性別によって旧友をしめす代名詞がhimまたはherに代わる。
初期
編集1946年、ピー・ウィー・キングおよび彼のバンドのゴールデン・ウエスト・カウボーイズがテネシー州ナッシュビルで『グランド・オール・オープリー』に出演するためリムジンで移動中、彼と歌手のレッド・スチュワートは共同で作曲を行なっていた。カーラジオからビル・モンローの新曲『ケンタッキー・ワルツ(Kentucky Waltz )』が流れてきた。キングと他のミュージシャンたちは鼻歌でキングのテーマ曲『No Name Waltz 』(名もなきワルツ、の意)を歌い、スチュワートはマッチ箱に歌詞を書いていった[4]。翌日、キングとスチュワートは音楽出版事業者のフレッド・ローズに『テネシー・ワルツ』を聴かせると、ローズは歌詞を「O the Tennessee waltz, O the Tennessee Waltz 」(おおテネシー・ワルツ、おおテネシー・ワルツ))から「I remember the night and the Tennessee Waltz 」(あの夜、そしてテネシー・ワルツを忘れない)に変更した。キングとゴールデン・ウエスト・カウボーイズが『テネシー・ワルツ』をレコーディングできるようになるまで時間がかかったが、1947年12月2日、イリノイ州シカゴにあるRCAヴィクター・スタジオでようやくレコーディングすることができた。ゴールデン・ウエスト・カウボーイズ版が発売された直後、ゴールデン・ウエスト・カウボーイズの元ヴォーカリストのカウボーイ・コパズ版がキング・レコードから発売された。1948年春から夏にかけて、どちらも『ビルボード』誌のカントリー・チャートでヒットし、キングのゴールデン・ウエスト・カウボーイズ版は第3位、コパズ版は第6位を獲得した。
1950年終盤、パティ・ペイジがクリスマス曲『Boogie Woogie Santa Claus 』のB面として『テネシー・ワルツ』をレコーディングし、マーキュリー・レコードから出版された。『ビルボード』誌の評論家であったジェリー・ウェクスラーがアースキン・ホーキンスによる新たなリズム・アンド・ブルース版をペイジのマネージャーのジャック・ラエルに紹介し、ペイジの父親が好んでいたカントリー・アンド・ウエスタン版としてペイジ自身が選曲したとされる。1950年11月、ペイジはニューヨークでのセッションでラエル指揮によるオーケストラと共に演奏した。ペイジのシングルはヴォーカルが三声で多重録音された。1950年11月10日、ペイジ版の『テネシー・ワルツ』は『ビルボード』誌のポップ・チャートにランクインし、12月30日以降9週連続第1位を 獲得して、計30週チャートにランクインし続けた。ペイジ版は当初『Boogie Woogie Santa Claus 』のB面であったが、『テネシー・ワルツ』がA面となったためB面は『Long Long Ago 』となった。ポップで活動していたペイジにとって、『テネシー・ワルツ』でカントリー・チャートにおいて第2位を獲得したのが彼女にとって最高記録となった[5] [6]。
ペイジ版の成功により、その後出版されたキャピトル・レコードのレス・ポールwithメアリー・フォード版が第6位、コロムビア・レコードのジョー・スタフォード版が第7位を獲得するなどトップ10にランクインした。ポール版の『テネシー・ワルツ』は両A面であり、別面の『Little Rock Getaway 』は第18位を獲得した。1950年11月、フォンテイン・シスターズにとって、ニューヨークにあるRCAヴィクター・スタジオでの『テネシー・ワルツ』が初の単独レコーディングとなり、トップ20にランクインした。またピー・ウィー・キング版が再発売され、カントリー・チャートで第6位を獲得した。
さらにデッカ・レコードのガイ・ロンバードと彼のロイヤル・カナディアンズ版の他、イギリスではペトゥラ・クラーク版、日本では江利チエミ版が出版された。
1950年12月30日から1951年2月3日まで、ペイジ版、スタフォード版、ロンバード版、ポール/フォード版の総計が『キャッシュボックス』のチャートで第1位を獲得し続けた。
先代 The Thing by フィル・ハリス |
US ビルボードBillboard Hot 100 第1位シングル (パティ・ペイジ版) 1950年12月30日 – 1951年2月24日 |
次代 If by ペリー・コモ |
先代 Harbor Lights by サミー・ケイ |
US キャッシュボックス売上チャート 第1位シングル (パティ・ペイジ版) 1950年12月30日 – 1951年2月3日 |
次代 My Heart Cries for You by ガイ・ミッチェル |
近年
編集1959年秋、ロカビリー・スタイルのボビー・コムストック&カウンツ版およびジェリー・フラー版が発表された。『ビルボード』誌のチャートでコムストック版は第52位、フラー版は第63位を獲得し、『キャッシュボックス』誌では両者を総合して第42位にランクした。
1962年、ダミタ・ジョー版がチャートに入った。
1964年、ロックンロール・バラード・スタイルのアルマ・コーガン版が発表され、スウェーデンにおいて5週連続第1位を獲得し、デンマークでトップ20にランクインし、シオ・ハンセン作詞のドイツ語版がドイツで第10位を獲得した。1978年、コーガン版の成功がスウェーデンのバンドWizex のKikki Danielsson に印象を与え、アルバム『Miss Decibel 』に収録された[7]。2000年、Lotta Engberg のアルバム『Vilken härlig dag 』に収録された[8]。またドイツ語版では1976年のHeidi Brühl 、1970年のGitte 、1976年のRenate Kern 、1998年のIreen Sheer などの演奏がある。
1964年1月28日、サム・クックはアルバム『Ain't That Good News 』の収録曲としてハリウッドのRCAスタジオで二拍子版を収録した。1964年3月1日、クック最後のアルバムとして発売され、クック最後のシングルとしてシングルカットされた際には同じくアルバム収録曲の『Good Times 』のB面に収録され、元々B面であった『テネシー・ワルツ』は第35位にランクインした。1964年9月16日、テレビ番組『Shindig! 』の初回ゲストとして『テネシー・ワルツ』と『Blowin' in the Wind 』を演奏した[9]。
1965年、アル・ハートはアルバム『Live at Carnegie Hall 』に『テネシー・ワルツ』を収録した[10]。
1966年、オーティス・レディングはブッカー・T&ザ・MG'sと共にクラシック・リズム・アンド・ブルースのアルバム『ソウル辞典』の収録曲として『テネシー・ワルツ』をレコーディングした。
1966年、マンフレッド・マンはコンパクト盤『Machines 』に『テネシー・ワルツ』を収録し、第1位を獲得した。 The Soul Stirrers に、サム・クックの代わりにアトランタ出身のジョニー・ジョーンズが短期間加入した。1968年、プロデューサーのボビー・ロビンソンが所有するフュアリー・レコードからディープ・ソウル版が出版され、R&Bチャートで第49位を獲得した。
1972年、ブライアン・ウィルソンのプロデュースにより、アメリカン・スプリングのデビュー・アルバム『Spring 』に『テネシー・ワルツ』が収録された。
1980年、レイシー・J・ダルトン版が『ビルボード』誌のカントリー・チャートで第18位を獲得した。
1983年、チャーチル・レコードからのジェームス・ブラウンのアルバム『Bring It On 』に収録された[11]。
1990年、R&B、ブギウギのピアノ奏者で歌手のリトル・ウイリー・リトルフィールドはアルバム『Singalong with Little Willie Littlefield 』に収録した。
2002年8月24日、ノラ・ジョーンズはルイジアナ州ニューオリンズのハウス・オブ・ブルースでライヴを行なった際、アンコールで『テネシー・ワルツ』を演奏した。翌年発売されたライヴDVD『Live in New Orleans 』にこの模様が収録された。 2004年、レナード・コーエンのアルバム『Dear Heather 』に1985年にレコーディングされた『テネシー・ワルツ』が収録された。コーエン版には自身が作詞した詞が追加されている。
スコットランドのベル・アンド・セバスチャンはコンパクト盤『This Is Just a Modern Rock Song 』に収録された『Slow Graffiti 』で『テネシー・ワルツ』のメロディを使用している。
他に『テネシー・ワルツ』をレコーディングした主なアーティストを以下に示す(カッコ内は収録アルバム): ラヴァン・ベイカー(Woke Up This Mornin' 1993年)、パット・ブーン(I'll See You in My Dreams 1962年)、エヴァ・キャシディ(Imagine 2002年)、ホリー・コール(Don't Smoke in Bed 1993年)、コニー・フランシス(Country & Western Golden Hits 1959年)、エミルー・ハリス(Cimarron 1981年)、トム・ジョーンズ backed by チーフタンズ(Long Black Veil 1995年)、Pete Molinari (Today, Tomorrow and Forever 2009年)、アン・マレー(Let's Keep It That Way 1978年)、エルヴィス・プレスリー、ビリー・ジョー・スピアーズ(Country Girl 1981年)、レニー・ウェルチ、キティ・ウェルズ (Kitty's Choice 1960年)、ドッティ・ウエスト(Feminine Fancy 1968年)、マーガレット・ホワイティング(Margaret 1958年)[12]
2011年、南アフリカの歌手レイ・ディランはアルバム『Goeie Ou Country vol 3 』に『テネシー・ワルツ』を収録した[13]。
ケリー・クラークソンは第55回グラミー賞においてパティ・ペイジのトリビュートとして歌った[14]。
先代 My Boy Lollipop by ミリー |
スウェーデンのランキング 第1位レコード (アルマ・コーガン版) 1964年6月23日 – 7月14日、28日 |
次代 Long Tall Sally" by ビートルズ 1964年7月21日および8月4日に第1位獲得 |
大学マーチング・バンドの演奏
編集ノースカロライナ州にあるアパラチア州立大学のマーチング・バンドであるマウンテナーズはポスト・シーズンのホーム・ゲーム終了後『テネシー・ワルツ』を演奏する。テネシー大学のマーチング・バンドであるプライド・オブ・サウスランドはテネシー州ノックスビルにあるネイランド・スタジアムとトンプソン・ボーリング・アリーナでのホーム・ゲームの後に毎回『テネシー・ワルツ』を演奏する。テキサス州のベイラー大学のマーチング・バンドであるゴールデン・ウエーブは過去にフットボールのヘッドコーチであったグラント・ティーフのリクエスト以来、ホーム・ゲームの最後に毎回『テネシー・ワルツ』を演奏することが伝統となった[15]。
日本での歌唱
編集「テネシー・ワルツ」 | ||||
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江利チエミ の シングル | ||||
B面 | 家へおいでよ | |||
リリース | ||||
規格 | シングル | |||
ジャンル | ワルツ | |||
レーベル | キングレコード | |||
作詞・作曲 | 和田壽三(訳詞) | |||
江利チエミ シングル 年表 | ||||
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日本では1952年、和田壽三の訳詞によって江利チエミが歌唱したものが最も有名である。当時14歳だった江利チエミはデビュー曲として本楽曲を唄って40万枚を売り上げる大ヒットとなり、江利チエミの代表曲になった。
日本では当初、パティ・ペイジ盤とジョー・スタッフォード盤の2つがヴォーカルでは本命盤であったが、最終的には江利チエミ盤が本命盤をレコード売上・人気共に上回る大ヒットになった[16]。
江利チエミの歌唱による「テネシーワルツ」の大ヒットは、チエミが「日本語と英語のチャンポン」というスタイルを用いたこともあり、それまで都市部中心でのブームであった「ジャズ」(戦後すぐの日本では、広義の意味でポップス(洋楽)を総称してこう呼んだ[16])を全国区にするにあたり、牽引役を果たした。後のペギー葉山、そしてカントリーの小坂一也など、そしてロカビリーブームといった、日本における「カバー歌手」のメジャー化のさきがけを果たした 。
日本では江利チエミなど1950年代のジャズ系歌手が歌ったが、2003年の『第54回NHK紅白歌合戦』では綾戸智恵(当時は「綾戸智絵」)のカバーが取り上げられた。
主な演奏者
編集演奏者名の後の『 』は特記がない限り収録されたアルバムのタイトルを示す。
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他に、柳がアルバトロスをバックにダイレクトカットで録音した8ビートのバージョンもある
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映画
編集1998年の映画『パーフェクト・カップル』のジャック・スタントン(ジョン・トラボルタ)が就任式で妻スーザン(エマ・トンプソン)と踊る最後のシーンでインストゥルメンタル版の『テネシー・ワルツ』が使用されている。
1983年の映画『ライトスタッフ』でも短時間であるが『テネシー・ワルツ』が使用されている。
1999年に公開された映画『鉄道員 (ぽっぽや)』では、本楽曲がテーマ曲として使用された。これは、この映画の主人公夫婦にふさわしいテーマ音楽を決める際に、チエミの元夫である高倉健が「僕なら、テネシー・ワルツですね」と発言したことによる。ただし、降旗康男監督が本楽曲を映画のテーマソングにすることを高倉に告げた際には、高倉は「個人的」と渋ったという[17]。
雑記
編集ジャズ・ボーカルの分野で取り上げられることもある。
カントリー分野ではパティ・ペイジやハンク・ウィリアムスのバージョンが有名である。
二部形式のスローワルツで、原盤では同じ歌詞が2度、日本語盤では英語と日本語で1節ずつ唄われている。
JBA7代目会長の長谷川幸保(1908年 - 1968年)が雑誌の「音楽とカクテル」の企画に創作カクテルとして同名のカクテルを発表した。
脚注
編集- ^ “アーカイブされたコピー”. 2012年4月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月19日閲覧。 Country Music Hall of Fame 5.13.2012
- ^ Williams, Bill "Country Cross-Over to Pop Grows" Billboard 28 December 1974, Section 2, pp. 4, 46, page 46
- ^ It was adopted by Senate Joint Resolution 9 of the 84th General Assembly.
- ^ Hall, Wade (1996). Hell-Bent for Music: the life of Pee Wee King. University Press of Kentucky. pp. 146, 147. ISBN 0-8131-1959-6
- ^ Whitburn, Joel (1973). Top Pop Records 1940–1955. Record Research
- ^ Schoemer, Karen (2006). Great Pretenders: My Strange Love Affair With '50s Pop Music. Free Press
- ^ “Svensk mediedatabas”. 10 June 2011閲覧。
- ^ “Svensk mediedatabas”. 10 June 2011閲覧。
- ^ Guralnick, Peter (2005). Dream Boogie: the Triumph of Sam Cooke. New York NY: Little Brown & Co.. pp. 546–7, 596–7. ISBN 0-316-37794-5
- ^ Al Hirt, Live at Carnegie Hall Retrieved April 11, 2013.
- ^ Groove Collector James Brown, Bring It On
- ^ “アーカイブされたコピー”. 2012年5月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年9月5日閲覧。
- ^ “アーカイブされたコピー”. 2014年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月10日閲覧。 Retrieved 10 January 2014
- ^ http://blogs.tennessean.com/tunein/2013/02/08/kelly-clarkson-the-black-keys-more-warm-up-for-55th-grammy-awards/
- ^ “Forum: BUGWB: Special Request”. BaylorFans.com (2006年5月6日). 2014年11月23日閲覧。
- ^ a b 小藤武門『S盤アワーわが青春のポップス』アドパックセンター、1982年、159-160頁。ISBN 4-900378-02-X。
- ^ 「うたの旅人」(朝日新聞、2009年5月16日)