経済・政治・国際 | 2010/09/03
ホメオパシーは、現代医療で「リスクの問題」として無視されてきた患者の苦しみに「意味づけ」を与える役割をはたしてきたと言えます。しかし、現代社会においてこうした「宗教と科学の越境」は許されるのでしょうか。現代の医療からこうした要素を排除するべきなのか。そもそも排除できるのか。こういった問題について考えていきたいと思います。
○「リスク」が取りこぼすもの
前回の記事で書いたように、医療にはリスクがつきものです。ある治療を受けたとき、治らない人、副作用が出る人は必ずいるのです。風邪で使われる薬の副作用のリスクはわずかですが、治療を受けても受けなくても、数十パーセントのリスクで死ぬというような病気もあります。
どのようなケースでも、治るかどうかは統計の問題です。治らない場合は、統計上のサンプル(一症例)として扱われ、そこには何の意味づけもされません。そして、「意味づけをされない」ことは、客観的な医療を実現するために欠かせないことです。
これは、病院に行って病気が治ったという体験しか持ってない人には、大した問題ではないかもしれません。しかし、「もうあなたは治りません」「ずっとこの苦しみに耐えながら生きるしかない」と言われた場合、どうでしょうか。医学的に言えば、「治らない」のは「一症例」であり統計上の問題です。言い換えれば、医療で扱われている苦しみは無人称の<誰のものでもない苦しみ>であり、<私の苦しみ>ではないのです。そうした中、患者自身も、代替可能な非人間的存在、単なる記号として扱われていることに、否応なく気づかされることになります。
人は、「治るため」「将来のため」というように、何らかの意味づけがある苦しみに耐えられても、「何の意味もない」「統計上の一サンプルに過ぎない」苦しみに耐えるのは苦手です。意味づけされない「終わりなき日常」にすら耐えられない私たちが、意味づけされない「終わりなき苦しみ」を耐えるのは困難でしょう。意味づけされた苦しみを生きる3ヶ月と、意味づけされない苦しみを生きる6ヶ月。もし、二つしか選択肢がないのなら、前者を選ぶのは当然です。
余命の短い子供に対し、親が「治ったら遊びに行こうね」と励ますことがあります。しかし、これは子供だから可能なことです。大人は「ウソを付く」ことによって、子供の苦しみに意味づけをしたのです。しかし、現代社会に生きる大人が、同じような意味づけを受けることは困難でしょう。末期ガンが治らないという場合にしても、慢性の疾患が治らないという場合にしても、多くの大人は、その現実を知ることになるからです。
○人間性の回復としての…
最近話題になっているホメオパシーは、まさに人々のこうした要求に応えるものです。ホメオパシーは、物質が1分子が残らなくなるまで希釈した砂糖玉(レメディ)が「荒唐無稽」なものとして注目されていますが、もう一つのポイントが「好転反応」です。好転反応とは、レメディによって自然治癒力が高まったとき、一時的に出てくる症状の悪化だとされます。
好転反応は科学的には、正しい判断を曇らせるものです。そして、この理由で、危険なものとして扱う人も少なくありません。しかし、好転反応のポイントは、「苦しみに対する意味づけ」とも言えます。「この苦しみは治るためのプロセスなんだ」と考えることは、現代医療で「リスクの問題」としてゴミのように掃き捨てられてきた患者の苦しみに「意味づけ」を与えてくれます。ホメオパシーは、現代医療で代替可能な非人間的存在として扱われてきた患者が、代替不能性=人間性を回復する手段と言うこともできるのです。
そして、こうした「苦しみに対する意味づけ」は、もう一つの効果を期待できるかもしれません。それは、「苦しみに対する意味づけ」によって、本当に自然治癒力が高まるという効果です。この効果は、科学的に立証できないわけではないかもしれませんが、現代の社会でこれを立証するのはかなり困難です。薬の直接的効果と異なり、少なくとも「効果がないこと」を簡単に示すことはできません。
さて、こうした「苦しみに対する意味づけ」は、通常なら宗教の役割です。「過去の罪の償い」「来世で幸せになるための手段」表現はいろいろありますが、多くの宗教が「苦しみに対する意味づけ」をしていることには変わりません。ところが、日本では、宗教に対する嫌悪感が強く、「病気の問題を解決するのに宗教を頼るのは危険」と考えている人は多いと思います。こういう人が、医療における「意味づけされない苦しみ」に突き当たった時、唯一取れる手段が「ホメオパシー」であるという面は、少なからずあるでしょう。
○科学と宗教の境界線
こう言うと、まるで手放しでホメオパシーを推奨しているように思われそうですが、そういうわけではありません。ちょっと違う観点から考えたいと思います。
「脱呪術化」という概念があります。これは、近代化された社会において、占いや呪術のように非合理的なものが取り除かれることを指す社会学の概念です。さて、「脱呪術化」というのは、一見すると、宗教がなくなることのように思えるかもしれませんが、そうではありません。実際、「脱呪術化」されたと言う欧米でもキリスト教がなくなったわけではありません。「脱呪術化」というのは、単純に言えば宗教と社会(政治、法律、経済を含む、さまざまな社会関係)の分離であり、科学について言えば、宗教と科学の分離です。
科学の場合、どんなに世界の法則を明らかにしたとしても、原理的に科学が把握できない、科学の外側の領域が存在します。その代表例が「法則の根拠」と「精神の領域」です。まず、科学は法則によって現象を説明することができても「なぜ法則が作られたのか」を説明することはできません。そこで「世界の法則」を作ったのが神だという立場を取った上で、「神が作った世界の法則」を探求しようとするのが現代の科学者です。これは、キリスト教社会で科学が発達した理由の一つだとされています。また、科学は、「苦しみの意味づけ」のような精神の問題を扱うことはできません。客観的な検証の対象とならないからです。こうした問題もまた宗教の領域と考えることで、宗教は科学と両立しようとしてきました。
こうして、人間が把握できる世界の限界を定めて、「宗教」をその外側に追い出す、これが「脱呪術化」と言うことができるでしょう。こうした「宗教と科学」の境界線を決める主導権を握ってきたのは科学の側であり、宗教の側ではなかったということは興味深いことです。科学の発展に応じて、宗教はその外側に追いやられてきたのです。こうして宗教を科学の外側に追いやることで作られたのが、近代的な合理的な精神であるとされます。日本ではしばしば誤解されるように、宗教的なものを否定することが合理性ではないのです。
これは日本の宗教でもおおむね同じです。日本の宗教は、キリスト教ほど明確な脱呪術化の過程を経ていないわけですが、それでもある程度は脱呪術化されています。病気の治療に当たっての、精神的な安定や自然治癒力の向上を訴える宗教はあっても、「医者に行かなくても良い」という宗教は一般的ではありません。
ただ、そうした中、科学では説明できないような問題を扱う「科学もどき」もあって、これは「疑似科学」と呼ばれます。これと反対に、宗教でありながら、科学や社会に反するような宗教があり、これは「カルト」(反社会的宗教)と呼ばれます。つまり、宗教と科学、宗教と社会の境界線が設けられている現代社会において、この両者の境界線をまたぐような存在が、「カルト」と「疑似科学」と言うことができます。
このように考えると、「ホメオパシー」がなぜ問題視されるのかも分かると思います。ホメオパシーは、科学を名乗っていながら宗教的な領域に手を出している。一方、宗教的な問題を扱っていながら、医療の否定という反社会的な方向に進む可能性を持っている。こうした「科学と宗教の越境」こそが、ホメオパシーが批判される理由だと考えることができます。
○医療に何を求めるのか?
さて、ここで少し話を戻します。もし、現代が、「脱呪術化」が成し遂げられた社会だとしたら、私たちは医療に対して、冷徹なリスク計算に基づいた合理的な治療だけを求めれば良い、そうではない部分は、宗教に求めるべきだということになります。科学と宗教を越境したホメオパシーは批判されてしかるべきでしょう。これがまさに「近代合理精神に基づいた医療」です。
ただ、ここまでの「脱呪術化」の議論が、あくまで理想的な近代社会について述べたものだということは、注意しないといけません。たしかに日本は前近代と比べれば「脱呪術化」されたかもしれません。しかし、日本は、多くの人が神社にお参りもすれば、占いもする、チャペルで結婚式をするという、いわゆる多神教的な社会です。そして、「ことさらに意味を与えない」宗教には寛容でも、苦しみに意味づけを与えるような宗教には寛容ではありません。人間が把握できる世界の限界を明確に定めた上で、その外側の領域=宗教の領域に、意味や根拠を求めるキリスト教と異なり、もっと曖昧で多様な意味や根拠の中で生きているとも言えます。こうして科学と宗教の境界が曖昧なのが、私たちの文化の特徴とも言えるでしょう。
こういう状況で、本当に合理主義的な「科学と宗教の分離」が可能なのか、また、そうした医療が良いのか、という問題はあると思います。これは前回の記事の内容とも関係しています。前回の記事では、患者が医療の「リスク」(医学的に評価されるリスク)と、「リスクのリスク」(医学的なリスク評価が間違えるリスク)を区別できないために、治療に失敗した人が医療不信に陥ってしまうという話を書きました。これはより一段立ち入って考えれば、「医療に救いを求めてしまう患者」の問題とも言い換えられます。救いにリスクがあってはいけないので、救いがなければ他の救いを求めてしまうのです。こういう患者は、神社や占いと対等のものとして医療を見ているとも言えますが、こういう患者の求めに医療はどこまで応えれば良いのでしょうか。苦しみに意味づけを与えるような宗教に不寛容な社会で、医療が意味づけを与えなければ、誰がそれを与えるのでしょうか。
もし、こういう「科学と宗教の越境」がある程度なら仕方ないことだとしたら…、単に「科学と宗教の越境」という理由でホメオパシーを批判することができるのか疑問です。最近話題になっているような社会的に好ましくない「越境」、医療を否定してしまうような「越境」を牽制しつつ、専門知識のある医師等によって、適切にコントロールされた状態でホメオパシーを利用することこそが有効という結論もありえます。具体的には、医師の診断によって、治る見込みのない患者等、ホメオパシーが適切と思われるケースのみ、「やさしいウソ」としてホメオパシーを使うというものです(太字部分追記)。これは最近、批判の矢先に立っているホメオパシー医学協会とは別団体の、ホメオパシー医学会の主張とも近いものです。
個人的には、これもちょっと行き過ぎで、「医療が『救い』という宗教的なものに足を踏み入れざるをえないとしても、その境界線が患者側に分かるようにしないといけない」あたりが妥当だと思います。いろいろ問題があることを承知で、現代社会ではこのあたりで妥協せざるをえないのではないかというのが自分の立場です。ただ、これは「社会の中での合理的な価値」を重視する私の政治的立場によるものであり、立ち入って考えれば、さらに複雑な議論が必要でしょう。これは、宗教を信仰していない人にとって「科学と医療の越境を禁止する」立場とほとんど変わらないので、上に挙げた問題はほとんどそのまま残ります。ガンの不告知の是非などともつながる問題であり、「自己決定権 vs パターナリズム」の問題として長く続けられてきた論争とも関係します。
ここで、これ以上詳しく論じることはしませんが、少なくとも言えることがあります。それは、これが科学の問題ではなく、社会の問題だということです。ホメオパシーは科学ではないというところまでは科学の問題だとしても、そこから先には、さまざまな議論が絡み合っているのです。
○関連記事
NATROM氏が似た論点の記事を書かれています。ホメオパシーは患者の苦しみに「意味づけ」を与えてきたというのが私の論点ですが、患者に「ぬくもり」も与えてきたということだというのがリンク先の趣旨です。いずれも、合理主義的な医療では不可能だという意味では私の論点を補足するものだと言えます。
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宗教と科学の境界線のようなものがあってそこに不足しているものがあるというような話であればまだ分かります。
ただ、そこにホメオパシーを持ってくるのは不適切ではないかと思います。「役割を果たして」いないので、問題となっているわけで。
>ホメオパシーは、現代医療で「リスクの問題」として無視されてきた患者の苦しみに「意味づけ」を与える役割をはたしてきたと言えます
率直に言えば、「役割をはたすフリをして患者をカモにした」というところでしょう。
ホメオパシーが末期の患者にやっていることは
「治らないとされている患者に、見込みも実績もなく治るという言葉でだまし、なんら有効な処置もせず、騙したまま死をむかえさせる」ということです。
上が何か「役割を果たして」いるとお考えなのでしょうか?
あるいは、患者に必要なステップという視点から考えてもいいでしょう。
1.患者の希望と現実とのギャップの説明
2.現実に対してどう対処していくか(患者ないし家族の選択と治療方針)
3.実際の治療
1.について
先のエントリでの「リスク」や、現在の技術から判断される「現実」と患者の希望は乖離します。
「死」が絡まなくとも、例えば、腕に大怪我を負って、患者としての希望は「元の状態に戻ること」ですが、怪我の状態と技術から「腕が動かない状態となる」のであれば、乖離が生じます。
ここで、「現実」を「説明」せずに、「元に戻る」とだまし続けることに何か「役割」はあるのでしょうか?
もっとも「死」が絡んだ場合のみ、ここの部分をどうすべきかという点が残るのは確かです。
2.について
患者が今後どうするのか、治療方針や患者の人生を決める上で重要な選択になります。この選択をするには1.が必要なのは言うまでもないでしょう。
「代替医療」特に、ホメオパシーでは1.を十分に行っているのでしょうか?「死」が絡む場合、1.で騙したまま2.の選択権を奪い、患者の余生を損ねていないでしょうか?
そこに何か有効な「役割」を果たしているのでしょうか?
もっとも、患者が末期がんの場合、家族には1.2.を伝えて確認しているが本人には伝えないケースがあるかもしれません。
3.について
先に書いた家族にのみというケースでも、家族との合意での治療方針に対して有効な治療を行います。
ホメオパシーは何か「有効な治療」を行っているのでしょうか?何か「役割を果たして」いるのでしょうか?
管理人より:まず、私の論点を確認します。前半部で「苦しみに意味づけを与えるという役割を果たしている」ことを確認した上で、後半部ではそれを批判しつつ「騙す」ことが許されるかどうかを考察しています。後半に関しては「個人的にはダメだと思うけれど、微妙な問題ですよね」っていうのが結論です。とにかく、私は、「役割果たしているか」と「騙すことの是非」を完全に分けていますので、分けて考えもらわないと、私の本文の議論と全くすれ違っていることになります。
それを踏まえて、順を追って説明します。まず、第一セクションでは、ホメオパシーは登場しておらず、そもそも「騙す」かどうかは問題にされていません。また、第二セクションも、「騙すかどうかを度外視して」という話です。「騙すかどうかを度外視」してるので、プラスに評価されるのは当然です。「騙すかどうか」の観点は、次のセクションで触れるという文章の展開になっています。第三セクションでは「騙す」ことを批判しています。一方、第四セクションの話に出てきたホメオパシーの話を具体的に言うと、「死期が迫っていて激しい苦しみがある場合」や「慢性の疾患で激しい苦しみから抜けられない」で医師が患者に「やさしいウソ」を付く状況です。これなら、不当に騙すことにはなりません。こういう可能性ならあるかもしれないと述べているのです。しかも、私は、こうした「やさしいウソ」にさえ、個人的に反対だと述べています。
あと、私は文章全体として、「死期が迫っていて激しい苦しみがある」と「慢性の疾患で治療法がなく、激しい苦しみから抜けられない」という二つのケースだけを問題にしています。それ以外については、「社会的に有害な越境」としてバッサリ切っています。これについても、北風さんは話が噛み合っていないように見えます。
また、私は1,2,3のようなステップをたどれない「合理的ではない」患者を問題にしているので、1,2,3のようなステップを考えた時点で、私の議論の対象とは違うのではないかと思います。末尾に追記したNATROMさんの記事を見ても分かると思いますが、患者はそんなに「合理的」ではないですよ。前の記事では、「合理的な患者」を前提にして、その限界を指摘し、今回の記事では完全に「合理的ではない患者」が問題になっています。
>意味づけされた苦しみを生きる3ヶ月と、意味づけされない苦しみを生きる6ヶ月。もし、二つしか選択肢がないのなら、前者を選ぶのは当然です。
上で書いたことは、要は「治ると騙されて有効な治療も受けられずに3ヶ月で死んでいく」というのはブログ主様にとって「選択肢」たりえるのですか?ということです。
選択肢にもなりえないものを「選択肢」と偽ること、「選択肢」として広めること、その広める一端を担うこと、これらは問題があることではないかと考えます。
このエントリが3番目の役割を果たすことを望みません。
上にも書きましたが、この部分は「有効な治療がない場合」を前提にしていますので、騙されるも何もありません。また、ホメオパシーの話ではなく、一般的な話をしているので。ホメオパシーを前提に批判されても話がすれ違っています。後半部とごっちゃにされているのだと思います。
本文でいう「意味づけされる」という内容は、実際には「現実に向かい合って生きる力を得ること」というではないでしょうか。
これは「科学」の領域かというと疑問ですが、私は必ずしも「宗教」がそれを担うとも思えません。ブログ主様は、何かの「宗教」のどの部分に「現実と向かい合って生きる力が与えられる」ことを感じましたでしょうか?
私は、「宗教」が助けになる人もいるし、「家族の支え」などが助けになる人もいる、「方法の一つ」以上の位置づけになりえるのか、疑問をもっています。
「苦しみに対する意味づけ」をしなくても「現実に向かい合って生きる力を得ること」でも良いというのはおっしゃる通りです。イコールではありませんが「どちらでも良い」というのなら賛成です。この方法としては、宗教のほか、哲学的な思索、あるいは本人がそういった思想を自然に身につけているという場合もあるでしょう。宗教はそのための方法の一つだというのはおっしゃる通りです。
全体として、おっしゃっていることは分かります。というのも、私の立場とそんなに変わらないからです。ただ、いろいろ誤解があるように思えますので、こういうことを踏まえて、あらためてコメントをいただけると幸いです。
>私は、「役割果たしているか」と「騙すことの是非」を完全に分けていますので、分けて考えもらわないと、私の本文の議論と全くすれ違っていることになります。
この時点でズレが発生しています。
私の言っていることは極めてシンプルで、「役割を果たしているようなフリをしている(実際は果たしていない)もの」を「役割を果たしている」とみなすか、ということなので、分けるも何も前半の「役割を果たしているか」という部分の問題です。
私は「フリをしている」ものを「役割を果たしている」とは認めませんが、ブログ主様は「フリをしているもの」も「役割を果たしている」とみなしているという認識でよろしいのでしょうか?
管理人より:私は、特定の状況で一定の役割を果たしているという話をしています。これを「フリをしている」と誤読するのは、前半と後半を混同しているからではないかと思います。
>まず、第一セクションでは、ホメオパシーは登場しておらず、そもそも「騙す」かどうかは問題にされていません。
これは文の構成上、そうは読者からは理解できません。
最初の文はアブストラクトとかリード文とか言われているもので、全体(あるいは途中まで)のまとめです。リセットして最初のセクションに入っています。自然科学の論文では必須だし、オピニオン雑誌等でも一般的に使われます。また、第二セクションの冒頭の記述からも、第二セクションでホメオパシーの話を導入していることが明らかです。分かりづらいというご意見はありがたく参考にさせていただきますが、そこに関してこれ以上議論するつもりはありません。
>ホメオパシーは、現代医療で「リスクの問題」として無視されてきた患者の苦しみに「意味づけ」を与える役割をはたしてきたと言えます。
冒頭に「「意味づけ」を与える役割をはたしているのはホメオパシー」という文を持ってきておいて、第一セクションで「意味づけ」の話をされているのですから、医療に対置さっる「意味づけを与えているもの」はホメオパシーとしか読めません。ホメオパシーという言葉は登場していませんが、行間に存在しています。
上で説明した通りです。
>適切にコントロールされた状態でホメオパシーを利用することこそが有効という結論もありえます。具体的には、医師の診断によって、治る見込みのない患者等、ホメオパシーが適切と思われるケースのみ、「やさしいウソ」としてホメオパシーを使うというものです。(太字部分追記)
これは現在の終末医療・カウンセリングなどと何が違うのでしょうか? 「カウンセリング」「癒し」でなく、「ホメオパシー」を用いているのはなぜでしょうか?
直接的に言えば、「ホメオパシー」とは現実に存在するわけで、その実態を無視して使っているのは何か意図があるのですか?ということですが。
カウンセリングも癒しも、QOLにはプラスになるかもしれませんが、「苦しみに対する意味づけ」はしません。これは一般的には宗教の問題です。また、ホメオパシーと言っても、医師による処方を主張している団体もあるし、こちらに関しては、今のところ社会的な問題も知られていません。
>1,2,3のようなステップを考えた時点で、私の議論の対象とは違うのではないかと思います。末尾に追記したNATROMさんの記事を見ても分かると思いますが、患者はそんなに「合理的」ではないですよ。
私は「患者に必要な」ステップと書いています。
患者は「合理的」でないということは何か意味があるのでしょうか?
ホメオパシーであれ一般的な話であれ、「治療の役割」を担う以上、以下の話になります。患者が合理的だのというのは全くの筋違いで、治療する側の役割の問題です。
NATROMさんの記事をどう読まれたのでしょうか?あれは、まさに「医者が医療において、医者の役割を果たす」という視点における記事なんですけどもね。
患者が合理的であろうがなかろうが、必要なステップを実行するということが「医者の役割」です。「役割」には責任が伴いますし、責任を取りうるだけのものが「役割を担うもの」には求められます。
「患者に必要な」と言いつつ、北風さんは合理的な視点で考えてしまっているので、「合理的な意味での必要性」が問題になっています。現代の医療では、何が患者に必要かは多様な価値観にしたがうということが一般的にも理解されています。ちなみに、NATROMさんの記事については、コメント欄に北風さんのような解釈をする人が書き込みをしていて、NATROMさんにバッサリ切られてますよ。
>ホメオパシーは、現代医療で「リスクの問題」として無視されてきた患者の苦しみに「意味づけ」を与える役割をはたしてきたと言えます。
「役割を果たしてきた」のですか、果たすフリをしてきたのですか?
上で説明した通りです。役割を果たしてきたという話をしています。
>意味づけされた苦しみを生きる3ヶ月と、意味づけされない苦しみを生きる6ヶ月。もし、二つしか選択肢がないのなら、前者を選ぶのは当然です。
>上にも書きましたが、この部分は「有効な治療がない場合」を前提にしていますので、騙されるも何もありません。また、ホメオパシーの話ではなく、一般的な話をしているので。ホメオパシーを前提に批判されても話がすれ違っています
上にも書きましたが、冒頭に「意味づけを与えるもの」としてホメオパシーを持ってきておられます。
意味づけされない苦しみを生きる6ヶ月 は現代医療にかかった患者なんでしょう? ならば、対置された、意味づけされた3ヶ月 は何の治療を受けた患者か は読者視点から冒頭の文からはホメオパシーとしか読めませんが?
また、わざわざ期間に違いをもうけておられます。「騙されて有効な治療を受けられず死期を早めた」ことも考慮にいれておられるのかな?と読みましたが?
上で説明した通りです。これは騙されたかどうかは問題にしない部分です。
「有効な治療がない」もどう解釈していいのか悩むところです。「薬効もない砂糖玉」は治療ですらないですが、がんなどであれば、「転移をおさえる」など「患者の有効な時間を延ばす」治療はあるわけですので、「騙されるも何もない」はそれこそ何もないです。治癒効果だけでなく、鎮痛剤なども「有効な時間を延ばす」ことには使えるので、「砂糖玉よりも有効な手段がない」というケースはほとんどないと言っていいのではないでしょうか?
いやいや、全部がそういう状況ではありません。治療法が見つかっていない難病は現代でもたくさんあります。効くはずの治療が個人差で効かないということもあります。そして、そういう状況「だけ」を問題にしています。
いろいろ書きましたが、主に「役割果たしているか」の部分の話です。
また、「騙す」という語には「言っていることとやっていることがあっていない、役割を果たしていないじゃないか?」ということも含まれるという点は留意ください。
とにかく、もう一度整理してお考えください。前半と後半の混同についての混同のために、議論の流れ全体が見えなくなっていると思います。
>私は、特定の状況で一定の役割を果たしているという話をしています。
「役割を果たしていない」状態から「役割を果たしている」という状態へクリアすべきとする内容や、「役割を果たしている」という重みについて、ブログ主様と私で差があるのだということと理解しました。
「特定の状況」「一定の役割」「果たしている」というところの条件設定によってはブログ主様のようにも言えるでしょうし、そこの重みづけによっては、私の「果たしていないじゃないか」となるのでしょう。
また、「騙し」についても、「騙しているのだから役割は果たしていないじゃないか」というのを抜きにすれば前半・後半を一応分けれますので、そう読みます。
>カウンセリングも癒しも、QOLにはプラスになるかもしれませんが、「苦しみに対する意味づけ」はしません。
ここも「苦しみに対する意味づけ」をどうとるかによるのでしょう。「この苦しみの要因は何か?」「どれくらい続くのか?」「苦しみに向かい合う不安への対処」といった患者の「私の苦しみ」への対応こそが「カウンセリング」であり「癒し」なのですから、活動の中で、本文中の「苦しみに対する意味づけ」に当たることをやっているのではと私は考えましたが、「意味づけ」の解釈によりますので。
前のコメントの内容で書いたことですが、たしかに、カウンセリングや家族の支えによって、「現実に向かい合って生きる力を得ること」が可能になっている場合はあると思います。そして、社会的には、それがホメオパシーや宗教より、「まし」な選択肢に思えるという点についても異論はありません。ただ、カウンセラーは神秘的なことを言うことを許されない限り「苦しみに対する意味づけ」をすることはできません。苦しみに意味があるというのは、合理的には説明できないからです。
>現代の医療では、何が患者に必要かは多様な価値観にしたがうということが一般的にも理解されています。ちなみに、NATROMさんの記事については、コメント欄に北風さんのような解釈をする人が書き込みをしていて、NATROMさんにバッサリ切られてますよ。
ダブハンとかやればばっさり切られるのは当然ですね。
で、私がダブハンしてると言うつもりで書かれておられるのでしょうか?
他の部分については、NATROMさんの記事は読まれましたよね。
記事より引用「患者さんを安心させることと、情報を正確に伝えることにはジレンマがある。そのジレンマを、この4コマ漫画は自虐的な笑いで表現した。こんな「冷たい医療」がいいなんて医師は思っていない。でも、そうしないと「説明義務違反」で訴えられるのだ。」「安心したい患者さんがいる限り、代替医療は勝ち続ける。」
安心したい(非合理な)患者さんに対しても医者は(医療として合理的な)必要なステップを踏まねばならない、それが医者が「役割を果たす」ということだ、という記事じゃないですか。
>何が患者に必要かは多様な価値観にしたがうということが一般的にも理解されています
それは私も理解しているし、NATROM氏の記事中の漫画でも目の前にいるのは「安心したい患者さん」、でも、医者の「役割を果たす」ということの内容が変わっているのでしょうか?
そうでなければ、「合理的な患者」であれ「安心したい患者」であれ必要なステップを踏まねばならないという私のコメント及びNATROM氏の記事の状態になるわけですが。
だからこそ「はっきり言って勝負になんない。こっちは両手両足を縛られているのに、向こうは何でもアリの状態だ」になるのではないでしょうか?
北風さんがハンドルネームを複数使っているという意味じゃないです。書き込みについては、他の方が誤解を指摘し、NATROMさんがダブハン(この用語は検索して理解しました)を指摘したという流れですね。
さて、NATROMさんは「合理的ステップを踏まねばならない」とは考えていると思いますが、それで良いとは言っていませんね。もし良いと考えていたら、あの漫画は笑いでも皮肉でもなく、「患者の変な要求に応えない良い医者」の例です。応えたいけどできないから、もどかしいという話です。これはNATROMさんだけではなく、多くの医者が問題にしていることです。
NATROMさんのところの記事を見ましたが、平均的な医者のコミュニケーションスキルって、あまり期待できないのでしょうか?記事中で紹介されている漫画はわざと面白おかしくしているのでしょうが、
「100%の確証はありません」
「100%ではありません」
「私よりも優れた能力を持つ医者がたくさんいます」
「なんとも言えません、死亡率は二百分の一ですが」
なんていうのは、例えばですが
「悪い病気の可能性は99%ありません」
「10人中9人はこの薬で治りますよ」
「私の腕はまだまだですが、一緒に頑張りましょう」
「以前は稀に助からない人もいましたが、医学の進歩で治療成績は上がっています」
とか言い方ひとつで印象がずいぶん違うのではないでしょうか。
都市部では期待できないでしょうけれど、古くからの地縁社会の中で医師と患者やその家族が普段から顔見知りであったりすれば、コミュニケーションの質ももう少し期待できるのかもしれません。
管理人より:言い方の問題はあると思います。地方の医者に限らず、もっとましな言い方はあるでしょう。ただ、katsuyaさんのおっしゃるような言い方だと、訴訟で負ける可能性が高く、それよりははるかに「漫画」の方に近くしないといけないのが現状だと思います。これは、医師個人の資質の問題というより、そういう判決がたくさん出されてきたからです。
だから、こういう状況を変えるため、医師を免責する制度を法律でも作れば、ホメオパシーのメリットは大幅に少なくなると思います。しかし、それには国民の反対も強いでしょうし、患者の医師に対する信頼はさらに下がるかもしれません。NATROMさんで紹介されていた漫画には誇張もありますが、こうした現代医療を取り巻く状況が前提になっているということは重要だと思います。
>カウンセラーは神秘的なことを言うことを許されない限り「苦しみに対する意味づけ」をすることはできません。苦しみに意味があるというのは、合理的には説明できないからです。
コメントありがとうございます。これですっきりしました。
【ホメオパシーは、「神秘的な言葉などで苦しみに意味を与えるだけ(「癒し」やカウンセリングなどのケアはどうでもいい)の役割をはたしてきたと言えます。】ということで、それならば分かります。
「騙す」「嘘」の点については、ブログ主さまの「「役割を果たすために(果たした上で)騙す(エントリのように「役割を果たす」こととその先の話として並置できる)」と、「役割を果たしているか否かの判断にかかわる嘘・騙し(役割を果たすことの下層にあって「役割を果たす」ことと並置できない)」はレイヤーが違います。
また、別ブログの方のコメントがとがめられているのも、問題となっているのは「役割を果たしていない」ということなのに、その下のレベルの「嘘」をあげることでポイントをずらしているから。
>さて、NATROMさんは「合理的ステップを踏まねばならない」とは考えていると思いますが、それで良いとは言っていませんね。
私のコメント部分も含めて、合理的な患者うんぬんの話でなく「必要なステップを踏まねばならない」ということだとご理解頂ければいいかと。そうすれば、NATROM氏も私も多くの医者も「必要」と「十分」を混同はしませんので、「必要であっても、十分ではない(患者もいる)」というだけのこと。
管理人より:合理性(合理的な=合理的に必要なステップを踏む)と他の価値が矛盾してしまうときに、どうすれば良いのかというのが問題になっています。合理性が必要条件で、それに何かを追加すれば良いのなら、こういう問題は起きません。(一部の)患者が求める「ぬくもり」や「苦しみに対する意味づけ」を与えようとすると、合理性が犠牲になる、こういう状況が問題になっているわけです。
あと、コメント欄の「ぬくもり」の話は、「本物」のイメージを設定しないと「(本物についてはイメージできないのでコメントできず。)これまでの「ぬくもり」を与えるとしたものは贋物だったよね」という形のコメントにしかならないかと感じます。
「ぬくもりを与えるものについて」
・実際には患者に何をするのか
・「役割」は何か
・「役割を果たした」ことになる「終了条件」「品質」はどのようなものか
・「医療」と相反する状況になった場合、どうするのか
などについて、ブログ主様が、相手にある程度のイメージがつかめるようなものを提示すれば、議論になるのではないかと感じます。
「ぬくもり」という言葉はコメント欄では書いていませんので、どの話をされているのか分かりませんでした。あと、ぬくもり vs 本物という対立の「本物」という言葉で何を指してるのかも分かりませんでした。ぬくもりと対比されるのは合理性です。患者は合理性とぬくもりの両方を求めている。この両者はある程度は両立しますが、矛盾することもあります。しかし、二つの役割を期待する患者がいる。ぬくもりも合理性も患者かすれば両方「本物」(本当に求めているもの)なわけです。
>「ぬくもり」という言葉はコメント欄では書いていませんので、どの話をされているのか分かりませんでした。あと、ぬくもり vs 本物という対立の「本物」という言葉で何を指してるのかも分かりませんでした
これは、NATROM氏のブログの方の以下のコメントをさしています。
>「ぬくもりのある3ヶ月」と「ぬくもりのない6ヶ月」のうちどちらを選ぶかは自明ではありません。
これについて、上のコメントで書いたように「ぬくもりのある3ヶ月」ってちゃんとしたものがないじゃい(ホメオパジーとか酷い結果になった)というようなコメントしか返ってこないのではないか。
これまでの代替医療のいんちきではなく「ぬくもりのある3ヶ月」をしっかり提供する(=本物)とはどういうものかのイメージを伝えないと、読者もブログ主さまが「ぬくもりを患者に伝えるために、ぬくもりを提供する側がどういうことをするべき・どんな役割をはたすべき」と考えているか分からない、ということです。
別に「ぬくもり」と「本物」を対比させているわけでなく、「これまでぬくもりを提供するとしてしなかった贋物とは違う」ということで「本物」と表現しただけです。
漫画版「風の谷のナウシカ」のラストについて
に対する
進撃のナウシカさんのコメント
「風の谷のナウシカ」について補足
に対する
異邦人さんのコメント
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ご指摘のように単純には行かない問題ですが、宗教法人が設立した病院だと魂の救済と医療の2本立てでやっているところもあるようです。
関西にはいくつかその手の病院があります。
米国長老教会系の淀川キリスト教病院
http://www.ych.or.jp/index.html
セブンスデー・アドベンチスト教会系の
神戸アドベンチスト病院
http://www.kahns.org/index.html
宗教法人直営ではありませんが、
天理よろづ相談所病院
http://www.tenriyorozu-hp.or.jp/index.html
ご参考まで
管理人より:コメントありがとうございます。東京だと有名なところで聖路加とかありますね。
本文で「医療が『救い』という宗教的なものに足を踏み入れざるをえないとしても、その境界線が患者側に分かるようにしないといけない」という意見を書きましたが、宗教団体運営の病院の場合、そういう意味での問題はないですね。むしろ、宗教にコミットしてない人がどう「救われるのか」が問題ではないかと思います。