描く対象の固有色は同じに見えても、実際は見え方が違うというケースはいろいろある。消防車は赤いけれど、実際は青い部分も黄色い部分も紫の部分もあるわ けだ。なんのこっちゃ分け分からん、という人は、白いマグカップをテーブルの上に置いて、しばらく眺めてみると良いかもしれない。白いマグカップのはずな のに、白と黒(陰の色)以外にもいろんな色が見えてくる、かもしれない。光にも色があるし、陰にも色がある。
- pdl2h
この固有色と影の色について説明しよう。まずは、モネの「庭の女たち」(部分)を見て欲しい。注目して欲しいのは、中央あたりで座って日傘を差している女性の顔である。
…なんか青紫色になってるよね?
実際当時も「女の顔色が悪すぎる」という批判があった。でも、全体として見るとこの「顔色」でもそれほど違和感を感じないと思う。そして他の部分も見てみると、この絵画における「影」の表現が思わぬ多彩さを有していることがわかるだろう。影は黒くないのだ。
つまりこれは、画家が固有色(白い肌とばら色の頬)でなく、光(庭に差す日差しと木陰)を描写しようとしていることを意味している。「何を描くか」というより「どう描くか」に主眼がおかれている(「再現」から「表現」へ)。
また、顔の影が青紫色なのもそれなりに理由がある。印象派の画家は、陰影にモチーフの固有色と補色関係にある色(色相環で反対の色、黄色と紫、赤と緑など)を好んで使用したが、この作品にもその予兆が感じられる。
なぜ影の表現として補色を使うのか。それは、ひとつには混色による彩度の低下を防止することにあっただろう。油彩絵具というものは、色を混ぜれば混ぜるだけ濁ってしまう性質がある。うららかな外光を濁った色で描くというのはどうも合わない。かといって、絵具そのものの色だけで描こうとすると単調になってしまうという問題がある。
そこで、彼らはキャンバス上あるいは鑑賞者の眼によって色を混ぜてもらうことにした。これが色彩分割と呼ばれる技法である(カラー印刷やTVの原理と同じ)。点描で有名なスーラにも、基本的にそうした意図があったと思われる。
印象派の画家たちは、べつに奇をてらって固有色から離れようとしたわけではなく、モチーフの光の移ろいを再現しようとしたら結果的に固有色から離れてしまい、輪郭もぼやけるようになってしまったのだ。別の言い方をすれば、固有色のなかに(時間的推移にともなう)多彩な色を見出してしまったと言っても良いだろう(これが次の世代のフォービズムになると、暗部の補色は「主観色」と呼ばれて、画面構成上のアクセントとして利用されるようになる)。
面白いことに、というよりは当然のことなのかもしれないが、美術というのは技術の進展と無関係ではいられない。印象派誕生の基盤が、写真(「再現しただけじゃ意味が無い」)と鉄道(「ちょっと郊外まで写生へ」「展覧会の地方巡業をしよう」)とチューブ絵具(「おそとでも描ける!」)だというのは有名な話だと思う。
しかし、もっと大きいのがフレスコやテンペラから油彩への移行であった(この話は長くなってきたのでまた別の機会に)。
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