PCにiPhoneの写真を転送する時にiPhoneに指定した写真を残す方法

iPhoneのカメラロールに写真がたまると容量を圧迫するので、WindowsPCに写真を転送する。iPhoneユーザーなら誰でもやっていることだが、iPhoneに指定した写真だけを残して、残りを転送する方法はシンプルだ。

・iPhoneのバックアップを取る。(これ重要)
・iPhoneの「最近削除した項目」を空にする。
・PCの転送から除外したい=iPhoneに残したい写真を選択削除して、「最近削除した項目」に移動したことを確認する。
・WindowsPCの画像インポート機能を使って転送開始(「転送した写真を削除する」を選ぶ)。
・インポート後に、「最近削除した項目」にある写真を全て復元する。(削除した写真は転送されない)

写真をPC転送後に「最近削除した項目」に残った写真

この方法当たり前かと思っていたが、知人に教えたら喜ばれたので、ここにもちょっと書いてみた。
この方法はiOS9~11とWindows10の組み合わせでは問題なかった(ただ完全な保証もできないけど)。Macや他の組み合わせではバックアップを取ってから試してみるしかないと思う。

ちなみに残す写真はなるべく直近だけにした方がいい。時系列バラバラに選別すると、後日残した写真をPCに転送する時に写真の時系列が乱れてしまう。

久しぶりに『仁義なき戦い』4部作を観た。

十数年ぶりに笠原和夫脚本・深作欣二監督の『仁義なき戦い』4部作を観た。前回観たのが学生時代だったが、その時感じた基本的な感想は今観てもそれほど違わなかった。

《「きれいなヤクザ映画」だということ》
銃撃の場面は派手でリアル。第2作『広島死闘編』の川谷拓三へのリンチ場面などは確かに陰惨だが、リンチする側の千葉真一の底の抜けたキャラクターづくりや深作欣二監督のテンポが速く停滞しない演出も相まって後を引かない。昭和のヤクザ社会において切っても切れない、一般市民への暴力、政治・企業との癒着、覚せい剤、構成員の多数を占めた被差別部落出身者・在日朝鮮人の存在などの影は描かれていない。唯一、当たり前のように女性を慰安婦的、暴力的に扱っている場面が時折挿入されて時代を感じさせる。ヤクザ社会におけるより深刻なテーマは「仁義」シリーズの後に、深作監督の『仁義の墓場』や、笠原・深作コンビの『県警対組織暴力』『やくざの墓場 くちなしの花』などで描写されている。

《全編にブラックユーモアが醸し出されていること》
道化と外道を極めた感がある金子信雄演じる山守は全存在がブラックユーモアだし、最後に足を撃たれるまでの全ての挙動が過剰で早口・高音で広島弁をしゃべり尽くす第2作の千葉真一演じる大友の存在は代え難いものだ。金欠で困り果てた部下たちがゲテモノをボスの菅原文太の広能に食わせるところなど「必死でやっているけど、遠くから見ているとこっけいな人たち」の空気が全編を覆っている。この空気を持っていることは喜劇として極めて上質である。ユーモアは複雑なヤクザ抗争を短時間の映画にまとめるために笠原が苦肉の策として生み出した産物であり、深作のリアルで乾いた演出が花を咲かせたとも言える。このユーモアは「仁義シリーズ」以降のヤクザ映画と日本映画が最も欠けていた要素の一つだ。

そして、学生時代から十数年、社会人として日本の組織を見てきたからこそ浮かんできた感想もある。やはりこの『仁義なき戦い』は戦時から今まで日本人が変わらず持つ本質を描いているということだ。脚本の笠原和夫がリスクを冒してヤクザ社会の当事者に綿密な取材を重ねて得たリアルなエピソードを集めた結果というだけでなく、笠原が第二次世界大戦を身をもって体験した人間として戦争時の理不尽さを脚本に投影していることが、この4部作を普遍的なものにしていると強く感じるようになった。

改めてこの映画4部作を観て、三つの悲劇があると思った。

《一つ目の悲劇:トップになってはいけない人物がトップにいる》

この4部作を観て感じるいら立ち、それは金子信雄を演じる大ボスの山守の過剰な卑怯さと節操のなさであり、主人公の菅原文太を演じる広能を始めとる有能な人物がなかなか山守の首を獲れないことである。しかし、山守をよく見ていると、その場の状況に応じて泣けわめいたり、オーバーアクション気味に下手に出たりとあらゆる感情表現を使ってその場の困難を切り抜けてしてまう。山守は保身しか考えていないがコミュニケーションの達人なのだ。底のない節操のなさは基本的には人間関係とメンツの争いであるヤクザ社会では無類の強さを発揮する。この基本は日本の会社組織でも一緒であろう。泣く子には勝てないというが、平気で泣きまねをするおっさんにもなかなか勝てないものだ。声がデカい人、感情を恥じらいもなく出す人が勝ってしまう。

広能が「オヤジ(山守)がいる限り広島はまとまらんよ」と繰り返し山守を批判しているように、彼には長期的にヤクザ社会を発展させるビジョンはないが、権力争いには強いためにトップに居座り続け、広島のヤクザ社会は混乱し続け、関西ヤクザ(山口組)の介入を許すことになる。しかし、広能をはじめ山守は排除しようと動いた有能な人物は複数いたが結局果たせないまま、山守が意識的・無意識的にしかけた内紛から燃え上がった抗争の激化により市民社会からの支持を失い、社会から追放されるという広島ヤクザにとっては最悪の結果をもって4部作は終わる。

「なんでこんな人がトップなんだろう」―会社や組織・政治体を見てきて、世襲・サラリーマン型トップを問わずそう思うことは少なからずあった。上が信用できないという不信感は今の人も良く持つ感情だと思うが、戦争を青春として過ごした笠原和夫の思いはもっと激烈だ。少し長いが脚本の笠原氏の本質を知る意味でも彼の言葉を引用する。

「・・・敗戦となるまで間に特攻隊とか空襲、原爆で日本人は相当死んでいる。それは全部、国体護持―つまり裕仁を天皇の座に置くということのためにのみ、そうなっていたんだよ。それは天皇制のヒエラルキーに入っている上流階級がね・・・・・上流階級は天皇制がなくなったら自分たちの権益をすべてうしなっちゃうわけだからね。位から財産からすべて。で、当時、アメリカの世論調査では80%の人が天皇を銃殺すべきだと言ってますらね。そういう情報も入ってきてるから、上流階級としては国体護持が第一だということで終戦を延ばしに延ばしていたんですけど、結局、そのために何十万という人間が死んでいったわけですよ。だから裕仁が個人で何を考えていようとも、あの人は第一級の戦犯ですよ。間違いなく戦犯です。それは誰が見たってそうであってね。それなのに、何の処罰もされず、戦後ぬくぬくと来たということ―これは絶対に許しがたいんですね」
(笠原和夫・すが秀実・荒井晴彦編著『昭和の劇』より)

笠原は昭和時代に一般的だった左翼的な人物では全くない。むしろ逆であり、脚本家として大成してからも自らのアイデンティティは「海軍二等兵曹」であり、戦後より戦前が好きであり(良いとは言わない)、脚本においても戦前のことを描きたいと願っていると公言している人物である。昭和天皇に厳しい思いを持っているのも、日本兵として多くの人命の損失を間近で見た来た人間としての根源的な感情から来ているのだろう。

昭和天皇は積極的な戦争主義者ではなかったものの、世論の支持を受けた陸軍の一連の対外戦争への動きに対し、良く言えば「君臨すれども統治せず」の原則から深く立ち入らず追認し、悪く言えば米中という大国に二正面戦争をしかけるという最悪の外交政治に日和見的に対処した。そして、原爆投下後にようやく陸軍に見切りをつけ終戦に動いた。昭和天皇のオブラードくるまれたような行動で一貫していたことは「国体の護持」つまり保身であったことは、吉田裕の『昭和天皇の終戦史』から始まった平成の昭和天皇研究でおおよそ解明されており、笠原の昭和天皇への感情・見解は的外れなものではない。

山守は笠原・深作・金子の三氏によってカリカチュアライズされたエンタイテイメントな存在である(実際にモデルになった人物は大阪から広島に戻ってきた苦労人の博徒でもっと老獪な人物だったらしい)あり、小物感を全開にしたもう一人のボス打本(加藤武)も計算され演出された存在である。「なんでこんな奴がボスなんだろう」と画面を観て感じた時点で観た者は笠原・深作・役者たちの術中に入っているのである。そしてその術の中に笠原が身をもって感じてきた「トップへの不信感」が塗り込まれているように思われる。

《二つ目の悲劇:正しいと思っていることをなかなか実行できない中間管理職たち》

このシリーズの主人公広能も、3作目の『代理戦争』で広能のライバルとなった武田(小林旭)も、山守から頼られた時に「なんでこいつの面倒をオレが見ないといかんの」感を強く漂わせている。ボスを信用していないが、結局ボスのために働いてしまう。これは山守の立ち回りの上手さもあるが、結局家父長制の組織の中で「オヤジ(山守)に言われたことはやらんとしょうがないでしょう」というヤクザ社会の規律をまじめな彼らが守ってしまうということが根底にあるように感じた。

山守にはたくさんの配下がいたが、3作目で山守が命の危険に晒された時、馳せ参じたのは関係が微妙になっていた広能だけだった。その時の「頼りなるのは省ちゃん、あんただけよ」といけしゃあしゃあと言ってのける山守夫妻の安定した節操のなさと、「来たのオレだけかよ」と言いたげ感を出している広能のコントラストはブラックユーモア精神が発揮された名場面の一つである。誰もがボスをクソと思っている。しかし、クソと思ってトップを排除したら、「不義理な人間」として組織内や社会から制裁され身を滅ぼす結果になることも分っている。実際に第一作で山守を排除して組織の浄化を行った坂井(松方弘樹)は殺されてしまう。

ボスをダメだと思っても従い、見えないところで軌道修正を試みるが大局を変えることはできない。結局、第4作目『頂上作戦』のラストで、有能で意志を持って広島の組織の防衛のために戦った広能と武田は長期の懲役に屈したの対し、抗争の最終責任者である山守は自らの手を汚さなかったため、行政とのパイプを生かして微罪で生き残っていく。

《三つ目の悲劇:消費される逃げ場がない若者たち》

4部作には強烈な印象を与える鉄砲玉となった若者が描かれている。
第2作『広島死闘編』の実質的な主人公山中(北大路欣也)はヤミ市での無銭飲食の場面で登場する。復員兵で明らかに行き場のない山中が刑務所や組事務所でありついた食事にすごい形相でがっつく姿が印象的に描写されている。第三作で広能の部下となった倉元(渡瀬恒彦)は、仕事も続かず社会適正がないということで、なんと母親と教師(広能の恩師でもある)に伴われて、入組を広能に依願されるのである。向こう見ずで純粋な倉元は広能にしごかれてから母親を訪ねて、お土産としてたばこをプレゼントして実に嬉しそうな顔を見せる。

この二人は抗争においては捨て身のまさに鉄砲玉として壮絶な戦いをする。これは居場所のいなかった人間がやっとつかんだ場所で存在感を示したいという制御できない焦り・反動が反映されているように見える。二人の人物像はほとんどが笠原の創作である。山中は広島の伝説的なヤクザがモデルだが、笠原と同じく江田島の海軍兵学校出身者となり「いずれは特攻に行くべきだった者」としての情念が投影され、北大路が演じたとこもあって特攻をするような破滅に向かって突き進む若者として描かれた。倉元は、第一部公開後に映画に登場した鉄砲玉のモデルの母親から「息子の足跡を残していただいた」と笠原が感謝の念を述べられたことから着想を得て創作した人物である。

笠原は海軍兵学校に所属しており特攻隊員も身近に見ていた。特に恵まれていない若者が体当たりで突き進むしか道がないことも知っていた。

「日本の海軍航空隊のエースといわれたパイロットの90パーセントは、そういう連中です。みんな農家の次男とかで、食う道がなくて、結局、16歳で志願して叩き上げられるいくわけですね。残りの10パーセントは海兵出ですね」
(笠原和夫・すが秀実・荒井晴彦編著『昭和の劇』より)

「仁義」シリーズの第1部と第2部は終戦直後の混乱期である。第1部の広能と第2部の山中がヤクザ社会と接触したのはヤミ市場である。そこは行き場のない人間が溢れていた。

「・・・ヤミのものを売ったりしてね。すいぶん悪どいこともやったり、それで傷ついた人もいるだろうしね。自分が食うためには、周りの人間を全部振り捨てて、人が困っていても見て見ぬふりをしていたという。浮浪児なんかいくらでも見かけて、助けてあげなきゃいけないとは思うんだけど。それをやりだしたら際限なく自分の生活が追い込まれていってしまう。それは浮浪児だけじゃなく、肉親に対してもそいうい部分があったしね。だから、そういうものが傷として残っているわけですね、何かしら自分が罪を犯しているという・・・・・・。それは何も僕が海軍に行ったとか、そういう罪じゃなくて、生き残るために誰かを捨てていく、あるいは見捨てていくというね、そのこと自体に原罪というか、罪の意識を絶えず持っていたわけですよ。だけども、その罪をぶつけいくところがない。また、許しを請う相手もわからない。」
(笠原和夫・すが秀実・荒井晴彦編著『昭和の劇』より)

このような万人の万人に対する闘争ようなカオスの中で、必死ではい上がろうという若者が利用されて消費されていく。特に第2部の山中は、ラストで死後の葬儀と墓の描写がされて、組織に消費された若者の悲劇が強調されている。

諸悪の根源と非難され続けている戦前の帝国陸軍は、地方の農家の次男のような社会資本が全くない若者が立身出世競争できる可能性を持った数少ない公的組織だったと言われている。それ故、戦前は陸軍は世間の強い支持を受けていたし、太平洋戦争末期でも人事異動をやっていたほど人事に気を遣った組織でもあった。そして、大戦中に膨大な人命を消費した組織でもある。

戦後のヤクザ組織も身よりのない若者たちの受け皿になっていた。昭和ヤクザの代表的人物で山口組三代目だった田岡一雄も自著名義の書籍でこのことを繰り返し強調している。

戦後、企業は若者を採用して「兵隊」として社会に送り込んでいった。戦後50年経った2000年代以降でも基本的にそのスタイルは変わっていない。しかし、一方で少子高齢化で日本社会の活力は明らかに低迷している。それは消費する若者、つまり鉄砲玉の母体数が少なくなったのだから当然のことかもしれない。

笠原和夫が脚本を手がけた「仁義なき戦い」四部作(深作監督によって5作目以降も撮影されたが、4作目でストーリーを完結させた笠原は続編の執筆を拒否したため、映画ファンは4作目までと5作目以降を区切っている人が多い)は、戦中派の笠原の戦争観・人間観が投影されてヤクザ映画を超える普遍的な社会組織の物語となった。また戦後の価値観を持った人間として戦前の人間を信用していない深作欣二は各所で笠原と対立しつつ、笠原が持っている情念を上手く中和して映像化した。ほぼヤクザ体質で最後の活動屋集団と言われた東映京都撮影所が持っていた剥き出しの反社会的なパワーが注入され、この四部作は昭和における日本映画全盛期の最後の輝きになったと言っても過言ではないと思う。

この作品群はこれからも日本社会を生き抜く人間と抑圧された人間に刺激を与え続けるのではないかと思う。

昭和の劇 映画脚本家・笠原和夫
2002年太田出版(2018年9月現在廃盤)
編著:笠原和夫・すが秀実・荒井晴彦
文芸・歴史に広範な知識を持つ文芸評論家のすが(漢字は糸偏に圭だが外字のためWEB上で表記できない)と日活ロマンポルノの傑作『赫い髪の女』の脚本家として知られ笠原も一目置いていた脚本家荒井による、笠原への詳細なインタビュー集。シナリオ誌に掲載された笠原のエッセイも収録。知識人としてポジショニングする必要がなかった笠原の戦争観もリアルで興味深い。

町山智浩の映画塾!「仁義なき戦い」
(予習編)
https://youtu.be/33bqIdtb_ps
(復習編)
https://youtu.be/jBiHwBag7L0
WOWOWによる公開画像(※公開終了の可能性あり)
映画評論家の町山智浩による『仁義なき戦い』シリーズの解説。製作の背景、スタッフ・俳優のエピソード、作品の現代性などの膨大な知識が必要となる情報を整理して、平易で軽妙な語り口で視聴者に伝えてくれる。

最高裁がNHKに出したねじれ判決についての雑感

NHKは出版も含めたメディアの頂点に立つ組織である。NHKの方向性やコンテンツの内容については様々な論点があるとは思うが、日本では圧倒的な予算規模・制作能力・人員を持っているメディア体であることに異論を唱えるメディア関係者は少ないと思う。

その組織の巨大さとともに私自身仕事上でNHKの関係者とかかわりを持った時期もあったので、昨日2017年12月6日に出た最高裁判決については強い関心を持っていた。この訴訟は、明確な受信の証拠となるB-CASカードをNHKに提出して受信料契約解除を求めた男性の会社役員とNHKの間で争われていたものだ。

この裁判が特殊なのは、男性がテレビの受信記録となるB-CASカードをNHKに提出したことによって、男性がNHKを受信しているか否かは争点にならず、男性は民法上の契約の自由の基礎概念に基づく契約の任意性を主張し、NHKは放送法上に戻づく公共放送受信に対する契約の必然性(強制性)を主張、つまり民法の契約の自由の概念と放送法の受信契約の必然性の概念が真正面にぶつかり合う法的な戦いになったのだ。

2013年に東京高裁の判決があり、NHKからの契約申し出の正当性を認める一方、契約には「双方の合意」が必要という判決が出た。当時、ネット上では「NHKの実質的な敗訴」ととらえられたようだ。下記はこの高裁判決についての解説記事である。
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1804Z_Y3A211C1CC1000/

http://morikoshisoshiro.seesaa.net/article/383147820.html

昨日12月6日の最高裁の大法廷で出した判決はこの高裁判決を支持するものだった。

この最高裁判決は二階建ての構造になっており、(1)放送法に基づきNHKが受信機をもっている人に契約を強制できるのかの是非(2)民法の原則を越えてNHKは受信状態の認定も独自判断できる権限があるのかの是非、が争点だった。

判決では(1)放送法の意義が民法の契約の自由の原則よりも優先され、放送法に基づき受信機所有者への契約の強制が最高裁判決でも裏書きされた一方、(2)受信契約の締結についてはNHK独自の裁量を許さず、民事裁判が最終的な決着手段になるとし、民法の原則が優先されたというものだ。

NHKは民法の範疇を越えて契約対象者(受信機保持者)の国民の意向に関係なく契約を申し立てできる権利がある一方、実際の契約交渉の段階でNHKと契約対象者が契約の事実認定おいて対立したときは、クレジットカード会社やローン会社と何ら変わりなく、原告の義務である客観的な証拠を立証して裁判で決着をつけろということである。

経済的な概念も入れてこの最高裁判決を解説した記事が以下である。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24325450W7A201C1X12000/?n_cid=SPTMG002

http://agora-web.jp/archives/2029890.html

日経はこのNHK訴訟については踏み込んだ報道していて、アーカイブ記事でも珍しく鍵をかけていなかったりする。もう一方の池田信夫氏はネット上で議論になる方ではあるが、元NHK職員でメディア学で博士号を得た方であり、放送においては的確な評論をする方だと思っている。

最高裁の判決要旨は以下のリンクの通り。

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/281/087281_hanrei.pdf

判決文の「1 放送法64条1項の意義(ア)」では放送法に基づくNHKの存在意義をほぼ全肯定している。

“放送法が,前記のとおり,原告につき,営利を目的として業務を行うこと及び他人の営業に関する広告の放送をすることを禁止し(20条4項,83条1項),事業運営の財源を受信設備設置者から支払われる受信料によって賄うこととしているのは,原告が公共的性格を有することをその財源の面から特徴付けるものである。すなわち,上記の財源についての仕組みは,特定の個人,団体又は国家機関等から財政面での支配や影響が原告に及ぶことのないようにし,現実に原告の放送を受信するか否かを問わず,受信設備を設置することにより原告の放送を受信することのできる環境にある者に広く公平に負担を求めることによって,原告が上記の者ら全体により支えられる事業体であるべきことを示すものにほかならない。”

放送法64条1項※は「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない」と定めているが、大法廷は以下のようにこの放送法の条項により受信契約には法的強制力があると判断した。

“放送法64条1項は,原告の財政的基盤を確保するための法的に実効性のある手段として設けられたものと解されるのであり,法的強制力を持たない規定として定められたとみるのは困難である。”

 

一方で、注目をすべきところは判決文の「1 放送法64条1項の意義(イ)」の部分である。

“そして,放送法64条1項が,受信設備設置者は原告と「その放送の受信についての契約をしなければならない」と規定していることからすると,放送法は,受信料の支払義務を,受信設備を設置することのみによって発生させたり,原告から受信設備設置者への一方的な申込みによって発生させたりするのではなく,受信契約の締結,すなわち原告と受信設備設置者との間の合意によって発生させることとしたものであることは明らかといえる。”

受信契約におけるNHKの裁量性を明確に否定し、民法上の「合意」が契約には必要としているのである。

さらに、

“同法(※放送法)自体に受信契約の締結の強制を実現する具体的な手続は規定されていないが,民法上,法律行為を目的とする債務については裁判をもって債務者の意思表示に代えることができる旨が規定されており(同法414条2項ただし書),放送法制定当時の民事訴訟法上,債務者に意思表示をすべきことを命ずる判決の確定をもって当該意思表示をしたものとみなす旨が規定されていたのであるから”

と、受信契約は民事訴訟法に基づいて最終判断がされ、NHKが支払いを要求する受信料も民法上の債権と同等に取り扱われることが明示された。

この判決によって、NHKは一方で公共放送に対する法的裏付けという翼を与えられたが、受信契約の運用においての特権性という翼はもがれた。このもがれた翼の跡は実質的な憲法裁判所である最高裁大法廷の判決によって一般民事法で塗り固められたということもあり、再生は簡単になされないであろう。今後、NHKが受信料契約を結ぶために電力会社から情報を集めたり、ネット配信を開始した際のユーザー情報を電話事業者やプロバイダーから収集するといったことを企図した時も、この民事法の範囲内の契約決定を重んじるこの最高裁判決が重しになる可能性もあるだろう。

この司法判断を上書きするためには国会による立法しかないのだが、政治的に中立であるべき公共放送を規定する放送法の改訂にあたって、政治的な判断で最高裁の判決の方向性を覆すことには議員たちも慎重にならざるを得ないよう感触を受ける。

受信機を設置していれば受信契約は義務であるという大法廷の見解が出たため、NHKは未契約者との民事訴訟については強気にすすめていく可能性は高い。しかし、未契約者の国民との法事的な係争が増えれば、国民の福祉のために信託されたメディアという概念から国民の意識は離れていくことになる。また、この最高裁裁判もそうだが、訴訟を連発すれば反撃する者も必ず出てくる。この裁判の被告男性は会社役員ということで経済的な余裕もあるのだろう、弁護士を雇い、民法上の契約の自由の概念を掲げてNHKと三審を戦い抜き、訴訟そのものは負けたかもしれないが、歴史的な判断を最高裁から引き出したのだ。

個人的には国民・政治・企業から独立した公共放送という存在は必要だと思うし、日本のそれが現状のNHKであることに疑問があったとしても、視聴しているのであれば受信料を支払ってNHKを支えるべきだとも思っている。しかし当然ながら全ての人が同じように思っているわけでもないし、この判決からも受信者となる国民とネットにも進出を企図しているNHKが対立する局面が増えていきそうな感触を受けた。良くも悪くもNHKは日本のメディア文化の中心であって、この最高裁判決を受けて彼らがどのような方向に進むかは多くの人々に少なからず影響を与えると思っている。

※註 放送法64条1項該当部分

協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であつて、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものをいう。第126条第1項において同じ。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。

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