tag:blogger.com,1999:blog-74472844827136397252024-08-29T08:56:35.235+09:00記事の墓場(過去記事集)ライター・太田宏人が過去に雑誌・新聞等に書いた記事類。記事だけ。ジャンル・時系列混在。不定期更新。随時更新(2003年12月~)。 葬儀関係の記事は、基本的に、掲載しません。huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]Blogger94125tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-66894480518502365992012-10-02T17:06:00.001+09:002012-10-02T17:09:33.803+09:00(墓94)祈りは生者のためにも~被災地取材で感じたもの~<h2> 祈りは生者のためにも~被災地取材で感じたもの~</h2> <b>太田宏人</b><br /> <br /> <br /> <h4> &nbsp;祈りなき埋葬…東松島市</h4> <br /> <br />  このたびの東日本大震災で被災した皆様に心よりお見舞いとお悔やみを申し上げます。東北や北関東の太平洋岸の被災地が復興し、被災した方々にいつの日か笑顔が戻ることを心より願うとともに、被災していない私たちにできることを微力ながら、続けてまいる覚悟です。<br /> <br /> <br /> **********<br /> <br />  (平成23年)4月3日、宮城県東松島市と石巻市の知人へ物資を届けました。<br /> <br />  ちょうど、仙台市内の知り合いの僧侶が、石巻市の避難所になっている寺院へ物資を配送するというので、便乗させていただきました。ですので、各地の取材もさせていただきました。仙台から石巻へはバス路線がありましたがバスでは細かい移動は難しかったので、この僧侶に感謝しました。<br /> <br />  私たちは、ワゴン車に救援物資を詰め込みました。知人の僧侶は、「こんな少量で、単発の援助では」と恐縮していましたが、個人の力は限られています。だからこそ、皆が力を合わせなくてはいけないのです。それほど恐縮する必要はないと思いました。<br /> <br />  また、知り合いからの心のこもった救援物資には、それだけで意味があると思います。<br /> <br />  私たちは、まずは仙台市若林区荒浜地区を視察しました。皆さんがテレビで見たのと同じような、壊滅的な光景が目の前に広がっていました。ただし、あの腐敗したような臭いや、ヘドロ、乾燥したヘドロが舞い上がり、それを吸い込んで感染症を起こすというようなことは、その場に行かなければ分からないと思います。<br /> <br />  その後、東松島市が震災犠牲者を土葬している同市の矢本リサイクルセンターへ向かいました。ここでは、焼却処分場の跡地に、約千体の埋葬が可能なスペースが造成されたと聞いていました。<br /> <br />  到着後、知人僧侶は焼香所で読経をし、私は写真を撮りました。<br /> <br />  同市の土葬は3月22日に開始されました。火葬場の被害、燃料不足と死者の多さ、安置遺体の腐敗の進行によって東北の太平洋岸一帯の火葬能力は限界を超えていたのです。断腸の思いに堪えながらの土葬でした。<br /> <br />  墓地に足を運び、私は絶句しました。<br /> <br /> 「なんだ、これは?」<br /> <br />  この現代の日本で、土葬の墓穴を、しかも一面に広がる墓穴を目の前に突きつけられる事態が来ることを、震災前に誰が想像しえたでしょうか。戦地に急遽つくられた兵士の墓地のような錯覚さえ覚えました。穴を掘り、棺を運ぶのが鉄兜に軍服姿の自衛隊員だからでしょうか。ていねいな埋葬を続ける隊員たちに、ただただ、頭が下がりました。<br /> <br />  穴は、比較的浅いものでした。後日の本火葬のため、掘り出しやすいようにしたためでしょう。<br /> <br />  3日からは身元不明遺体の埋葬が始まりました。腐敗が著しく、これ以上は安置できなくなったためとのことです。埋葬前の棺は自衛隊のトラックに積まれていましたが、明らかな死臭が漂っていました。<br /> <br />  身元が分かった犠牲者の「墓」には木の墓標が立てられています。でも、身元不明者には土が盛られるだけでした。棺の側面にマジックで大書された3ケタの識別ナンバーが、目に焼き付きました。<br /> <br /> <br /> <br /> <h4> 犠牲者追悼は被災者支援</h4> <br /> <br /> <br />  震災の翌週、福島県いわき市でも取材しました。沿岸部の惨状や遺体安置所をまわり、ご遺体に手を合わせました。<br /> <br />  眼を見ひらいたお顔は、忘れられません。<br /> <br />  いわき市の中心部に津波被害はなかったが、地震によって、ある寺院の境内墓地では大半の墓石が倒れ、石塔類は大破していました。<br /> <br />  その写真を撮っていると、地元の方が数人、倒れた墓石をかき分けて、墓地を歩いていきます。「墓が無事かどうか見に来た」そうです。<br /> <br />  その数日後、新潟からいわきへボランティアに行った僧侶が「自宅避難している人たちへ物資を届けたら、彼岸法要を何回も依頼され、とても喜ばれた」と語っていました。これほどの激甚災害に遭遇しても、先祖への祈りを絶やそうとしない人々がいるのです。いえ、むしろ激甚災害に見舞われたからこそ、祈りは強くなったのかもしれません。<br /> <br />  このことを、石巻で私は確信しました。<br /> <br />  石巻のある被災寺院を訪れたときのことです。その本堂は1階の梁(はり)まで津波が襲った結果、まるで廃寺のようになっていました。山門は「吹き飛ばされ」、墓地には乗用車が何台も山積みになっていました。なにをどうしたら、このような状態になるのか想像できません。車両や墓地にたまったガレキの下からは何人もの犠牲者が見つかったそうです。この日も、まだ遺体があるかもしれないということで、自衛隊が墓地を捜索していました。<br /> <br />  ある家族がやってきました。住職を見つけ、お互いに無事を喜び、家族の人々が住職に話しかけました。彼らの家も津波被害にあったのですが、なんとか生き残りました。でも、寺に預けた遺骨が心配だったので見に来た、というのです。<br /> <br />  幸い、遺骨や位牌は流出しませんでした。それを聞いて、彼らは安心して帰っていきました。<br /> <br />  死者へ想いを寄せることや祈りが、生者に安心を与えるのです。私は、それをこの目で確かめました。<br /> <br />  津波で壊滅した墓地の整理、祈りの場としての寺院の回復など、当然のことながら後回しにされています。もちろん、ライフラインの復旧、医療や食料、仮設住宅確保をはじめとする被災者支援は長期にわたって最重要事項であり、それ以外の押し付け援助を強弁するつもりは微塵もありません。<br /> <br />  しかし、回向や供養、祈りや葬送といった分野に対する支援も、被災者の方々が安心して生きていくために、不可欠な要素といえるのではないでしょうか。<br /> <br /> <br /> ※埼玉のある葬儀社の会報に平成23年に書いたものです。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-21793719443644259482011-12-16T16:20:00.000+09:002011-12-16T16:27:13.229+09:00(墓93) 消し飛んだ「葬儀不要論」「連日、何件もの葬儀をしています」<br /> 石巻で被災した知人僧侶は語った。<br /> 震災からまもなく6ヶ月。だが、犠牲者の葬送はなおも続いている。<br /> 夏を迎え、各地で仮埋葬した棺の掘り起こしが開始されたことが大きい。掘り起こしの現場は強烈な腐臭が漂い、棺は朽ちている。作業員たちは手作業で棺を掘り起こし、棺から遺体を取り出し、ていねいに洗浄してから新しい棺に納め、火葬場へ運ぶ。<br /> 火葬後、葬儀を行うのだ。<br /> これまでは踏ん切りがつかずにいた遺族たちが、肉親の死を受け入れ、葬儀を依頼しているケースもある。<br /> 通常の葬儀とは違って通夜はなく、葬儀だけというパターンが多い。葬儀後、通常なら納骨となるわけだが、墓地が被災していれば納骨は不可能だ。そこで、遺骨は寺に預けられる。<br /> 昨日(9月1日)、石巻のある被災寺院の墓地で瓦礫撤去の作業を手伝った。その時見たのだが、骨箱を胸に抱いた喪服姿の人々が何組か、寺を訪れていた。<br /> その寺院の本堂は1階の高さまで津波に襲われたが、躯体は残った。一方、墓地は絶望的な被害を受けた。<br /> 4月の情景は壮絶だった。近くの製紙工場から流出したパルプが水を含んでぐちゃぐちゃになり、汚泥と混ざり合って、地面やなぎ倒された墓石に堆積。その上に、材木や家財道具、自転車や生活用品が散乱し、仰向けの自動車や魚が転がっていた。<br /> 数多くの人々がボランティアでの作業を続けた結果、現在では見違えるようにきれいになった。だが、墓石は倒れたまま。いまだ納骨はできない。火葬を済ませた檀家たちは、寺に遺骨を預けている。<br /> 骨箱を寺に預けて寺から出てきた人たちは、安堵の表情だった。<br /> 被災地で、何度もこの表情を見てきた。「どんな形でもいいからせめて葬儀を出してあげたい」と語った人もいた。その人の家族は行方不明だった。<br /> 3月や4月は、棺や野位牌などの葬具も不足していた。棺を自作した葬儀社もあった。遺族のなかには着の身着のままの服で葬儀に参列した人もいた。<br /> それでも、葬儀をやめようとか葬儀は不要など、誰も言い出さなかった。<br />「そういう声を聞いたことがありません」。石巻葬儀社の太田かおり専務は語る。太田さんは、津波で父を亡くした。<br /> 父の葬儀はまだしていない。「地域の方々の葬儀が先です」。それが父の遺志と思っている。<br /><br /><strong>消し飛んだ「葬儀不要論」</strong><br /><br /> 震災前に「葬儀不要論」なる暴論がまかり通っていた。<br /> だが、いまや被災地からそのような声は消し飛んだようだ。平時の戯言でしかないことを、震災が教えてくれた。<br /> 葬儀だけではない。墓や位牌、仏壇といったものを媒介にした先祖供養も同様だ。先祖供養などしても、生存は保障されない。しかし震災後、墓を見に行った人は多い。先述の太田さんも自転車と徒歩で墓の安否を確認しに行った。<br /> 3月17日、決死の地上放水が福島第1原発で開始された。この日、自主避難によってゴーストタウンのようになっていたいわき市内を取材していたのだが、ある寺院に立ち寄ると、地震によって多くの墓石が倒壊していた。そこに、何人かの人がやって来た。「墓が心配なので」という。<br /> 当時、放射能の恐怖は未知数だった。食料も水もガスもない状態で、それでも墓を心配する被災者がいた。「墓不要論」も、もはや存在しないようだ。<br /> 4月、石巻の別の寺院で、ある家族が寺を訪ねてきた場に居合わせた。「寺に預けた位牌が心配で見に来た」。そしてその無事が確認されると、彼らは安堵の表情を浮かべて避難先へ帰っていった。<br /> 死者への祈りが、生者の明日へのエネルギーになっている。そう、確信した。<br /> 同じような光景は、別の場所で何度も目にした。<br /> 「葬儀回帰」「供養回帰」の動きは、他の地域へも波及している。都内のある業者は、「震災後、葬儀に対する遺族の思いが以前と違う。葬儀をあげることへの真摯さを感じる」と語っていた。<br /> 葬送の現場に立ち会う者は、葬儀不要論などは「死ぬゆく自分」のことだけを考えた極論であると知っている。いや、葬儀不要論に踊らされた人々のいったい何人が、真剣に「死」を考えたのかも怪しい。<br /> 被災地での葬送に接し、死者と生者がどのように関わっているのか、その現場を見れば、納得する。葬儀や先祖供養は、決して死者のためだけに行われるわけではない。<br /><br />(2011年秋・某誌に指定された文字数で書いたら、直前に大幅に削られて、今読み返してもおかしな記事になっていた。そこで、削られる前のものを掲載する)huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-8322648151128582132011-04-09T11:34:00.002+09:002011-04-09T11:44:41.938+09:00(墓92) 広島ペルー協会/ペルー慈恩寺で記念法要<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgf5qziSJW_5KpxFOVLPR22QlcsY-5KdmFvZbIso4tPUwwYthYWXJDb-khAPX8VFcuU9MFTPe8yq3ujt-Z1g4MtmaZzmHbXuPpBOVxIoMlS_niqp1SNM7R-hPTHCIvZROVjqYUCqtOMf8Fs/s1600/ps+020.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 220px;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgf5qziSJW_5KpxFOVLPR22QlcsY-5KdmFvZbIso4tPUwwYthYWXJDb-khAPX8VFcuU9MFTPe8yq3ujt-Z1g4MtmaZzmHbXuPpBOVxIoMlS_niqp1SNM7R-hPTHCIvZROVjqYUCqtOMf8Fs/s320/ps+020.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5593409159533735378" /></a><br /><strong>日系校児童ら、先祖供養に感銘</strong><br /><br /> 民間の国際交流団体である広島ペルー協会(小林正典会長)では設立20周年を記念し、2月後半にペルーを訪問した。訪問団の参加者は11人だった。<br /> 19日(現地時間)には、南米最古の仏教寺院・泰平山慈恩寺(曹洞宗/リマ県カニエテ郡、無住)において、協会が施主となってペルー日系先没移民追悼法要が厳修された。導師は岩垣正道師(曹洞宗/岡山県真庭市毎来寺住職)、脇導師は清涼晃輝師(曹洞宗/同県津山市少林寺住職)が勤めた。<br /> 岩垣師は広島ペルー協会と縁があり、平成11年にも協会の訪問団とともにペルーを訪れ、慈恩寺で法要を営んでいる。<br /> 今回は、リマ市の瑞鳳寺(ペルー曹洞禅グループ)の僧侶らは不参加だったが、広島ペルー協会がチャーターしたバスにリマ市のペルー広島県人会(フェルナンド・カワグチ会長)、ペルー岡山クラブ(エレナ・ニシイ会長)の会員多数が乗り込み、随喜した。また、リマ市の日系校であるヒデヨ・ノグチ校(フアナ・ミヤシロ校長)の初等部、中等部(日本の中学、高校に相当)の児童生徒のほか教員、リマ市に在住する日本人有志はじめ、地元カニエテの日系人も参加。慰霊の心と温かい雰囲気に満ちた法要となった。<br /> 法要はヒデヨ・ノグチ校の児童生徒による内陣への献灯式から始まった。続いて導師・脇導師の入堂、追悼文、散華の後に般若心経の誦経があった。日本語が読めない参加者のためにローマ字の振り仮名がついた経文が配られた。参加者は、たどたどしい口調ながらも僧侶の読経に声を合わせた。<br /> 焼香ののち、岩垣師は「先駆者が築いた慈恩寺を皆さんは護ってきた。先駆者たちが残した『先祖を敬う』という種を皆さんが咲かせているのは素晴らしいこと。これからも、慈恩寺を護ってください」と法話を述べた。<br /> 各県人会の参加者からは「散華の意味は?」「なぜ焼香をするの?」などの質問が相次いだ。ヒデヨ・ノグチ校の生徒は、「日本人は、死後も子孫と交流するということを実感しました」と興味深そうだった。ミヤシロ校長によると、その後数日、慈恩寺法要の話題で子供たちは盛り上がっていたという。<br /> 法要に先立ち、同郡内のカサ・ブランカ日本人墓地およびサン・ヴィセンテ公営墓地内の日本人慰霊塔で岩垣師を導師とする法要が営まれた。南米の灼熱の日差しの下、先駆者を弔う経文が朗朗と読上げられ、参列者の焼香の列が続いた。<br /> 慈恩寺が位置するカニエテは、首都のリマ市から南へ約150キロの距離にある。<br /><br /><strong>開山堂が完成</strong><br /><br /> 平成22年8月22日、本堂に隣接する事務所を改装し、開山および歴住を祀る開山堂が完成した。費用は曹洞宗宗務庁が負担した。<br /> 堂内には開山の上野泰庵師(在籍1907~17帰国)、第二世・斎藤仙峰師(1917~19遷化)、第三世・押尾道雄師(1919~27帰国)、第四世・佐藤賢隆師(1926~35遷化)、第五世・新開至賾師(1951~53遷化)、第六世・清広亮光師(1961~92遷化)の遺影および位牌のほか、第四世の佐藤師の後任として赴任するも、カニエテを去ってリマ市に宗門公認の中央寺を開いた中尾證道師(在任1935~41帰国)の位牌も祀られている。遺影は、2007年の慈恩寺創立100周年に際し、慈恩寺有志の会が寄贈したものである。【報告=太田宏人】<br /><br /><br />写真説明<br />法要後の記念撮影(慈恩寺本堂)huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-22116639240745468602011-04-09T09:43:00.006+09:002011-04-09T09:51:28.240+09:00(墓91) 風評被害でゴーストタウン化 いわき市、弔いを必死で守った葬儀社社員<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgfUP7HUoFRJ_Mh7syI2QSEPB5FKlVfOK7wUt_IUA-L1emrcPT10So5rgOnY7wXYdfWsX3e-UgwVObXjklsklVGfJYu4aUqafTUzLuP0EHGoRS7EHbAWzp-D1i6h-4SNVevZckneccRJxKM/s1600/%25E3%2581%2584%25E3%2582%258F%25E3%2581%258D%25E5%25B8%2582%25E5%2586%2585+%25286%2529.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 239px;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgfUP7HUoFRJ_Mh7syI2QSEPB5FKlVfOK7wUt_IUA-L1emrcPT10So5rgOnY7wXYdfWsX3e-UgwVObXjklsklVGfJYu4aUqafTUzLuP0EHGoRS7EHbAWzp-D1i6h-4SNVevZckneccRJxKM/s320/%25E3%2581%2584%25E3%2582%258F%25E3%2581%258D%25E5%25B8%2582%25E5%2586%2585+%25286%2529.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5593379415804295122" /></a><br /><a 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href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjfYtt87bjQc7hc_ew3Vz4VzofGLkHp1r8w0tN5SCIs8bXHhXVT49DZsFKKIpHsYb-qS4h6KW0Nu-NQVP0mCW-M3CmRQuQrP1hxGVPBiVshZzSz-c4cmQ9eBUXB2-FOEzp6tl4ExBt-D7uE/s1600/%25E8%2596%2584%25E7%25A3%25AF_%25E8%25B1%258A%25E9%2596%2593+%25282%2529.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 239px;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjfYtt87bjQc7hc_ew3Vz4VzofGLkHp1r8w0tN5SCIs8bXHhXVT49DZsFKKIpHsYb-qS4h6KW0Nu-NQVP0mCW-M3CmRQuQrP1hxGVPBiVshZzSz-c4cmQ9eBUXB2-FOEzp6tl4ExBt-D7uE/s320/%25E8%2596%2584%25E7%25A3%25AF_%25E8%25B1%258A%25E9%2596%2593+%25282%2529.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5593379025482601058" /></a><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj7BrvBFU1-PACS0lIrtWTLv6kkyRjZmmoZVM2cn-yJm66yMIkFAc1y7QXSPyyyoaxiAvoZeTUtRxzJHHtWSsf3gPh0SKrf8uY-yMleMcT3hTI-GnFA9g6cNPEimuTK8SyjNsr_-5krXHaW/s1600/%25E3%2581%2584%25E3%2582%258F%25E3%2581%258D%25E5%25B8%2582%25E5%2586%2585+%25289%2529.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 239px;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj7BrvBFU1-PACS0lIrtWTLv6kkyRjZmmoZVM2cn-yJm66yMIkFAc1y7QXSPyyyoaxiAvoZeTUtRxzJHHtWSsf3gPh0SKrf8uY-yMleMcT3hTI-GnFA9g6cNPEimuTK8SyjNsr_-5krXHaW/s320/%25E3%2581%2584%25E3%2582%258F%25E3%2581%258D%25E5%25B8%2582%25E5%2586%2585+%25289%2529.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5593379018414970738" /></a><br /><br /> 17日、福島県いわき市を取材した。<br /> 薄磯・豊間地区がとくに甚大な津波被害を受けた。いわき市の市街地から両地区へ向かう道の応急処理は終わっていたが、ところどころに亀裂や陥没があった。大型トラックが道路の路面ごと陥没しているなど、地震の爪あとはいたるところで目にした。<br /> 記者は東京からガソリン持参で、原付バイクで向かった。ガソリンの購入が難しいことは分かっていたので、消費量の少ない方法を選んだ。<br /> 薄磯北街などの集落は壊滅していた。津波の破壊力は、海沿いの人々の生活と人生を根こそぎ潰してしまった。そのほかの集落も、建物や車が流され、道路の両側にも瓦礫が積み上げられていた。<br /> 同市の市民で現在までに分かっている死者は約150人。このほかにもまだ行方不明者が多数いる。しかし、遺体の収容作業は進まない。作業に当たる自衛隊や警察の人員不足が原因だ。ライフラインの復旧の目処が立たず、余震も続いて建物の倒壊の危険もある(市内の各所の地価にはかつての炭鉱の行動が無数に走っており、地盤がもろい)。宿泊施設はなく、放射能による風評によって食料とガソリン、日用品や医薬品などの供給が止まってしまった。これではボランティアは受け入れられない。いわきはまだ、復興期ではなかった。<br /> 市の中心部は完全にもぬけの殻である。沿岸部以外の中心部等では市民が地震後も住んでいた。ところが市内の一部が屋内退避対象地域に指定されたために風評が発生。物流業者がいわき市を嫌って、物資が来なくなった。店は軒並み閉店した。「東京電力が撤退した。自衛隊が冷却作業をやっている。これはもうだめなのではないか」という噂が市内を駆け巡った。<br /> 極端に食料とガソリンが不足し、病院や行政の機能も止まり、32万人の市民のうち、大半が脱出した。<br /> ワゴンタクシーに布団や衣類などを詰めて市外へ逃げる家族がいた。「お金などいくらかかってもいいから、いわきから出たい。ガソリンがないので車は出せない」という。<br /> 人のいないガソリンスタンドの前には数キロの車列があった。「明日、ローリーが来ることを信じて待つ」という。来ないかもしれない。営業しているスタンドには、もっと長い順番待ちの車列があった。最後の人まで買える保障はなさそうであった。<br /> 沿岸部で発見された遺体を、市内3か所の遺体安置所へ運ぶのは警察の仕事だが、警察車両でさえガソリンが尽きていた。ある警察官は、「もう限界です。遺体を運べません」ともらした。<br /><br /><strong>遺体をどうすることもできない</strong><br /><br /> 市内の大手葬儀社に勤務するA氏は、震災発生後からボランティアで遺体の発掘や運搬に全身全霊をかけてきた。だが風評被害で燃料がなくなった。社長の判断で、勤務は志願制になった。最後まで残った4人のうち、A氏はリーダーだった。<br /> この葬儀社では一時期、身元が分かった遺体を30数人預かっていた。火葬の順番待ちである。このほか、自宅に安置した故人が何人かいる。<br /> しかしもう燃料がない。自衛隊も遺体の捜索を一時中止すると聞いた。警察も根を上げている。火葬場の稼動も止まるという。<br />「放射能で避難命令が出たら、うちで預かっているご遺体をそのままにして逃げることはできません」。実際、いわき市の一部が屋内退避に指定されたときも、突然だった。市にも事前通告はなかった。<br /> A氏たちは、預かっている遺体をとにかく火葬にし、遺骨を遺族に渡すことだけを目標にしてきた。しかし、火葬の数が多すぎてなかなか順番は回ってこなかった。A氏は毎日毎食、家族が炊き出してくれたおにぎりだけを食べてきた。<br /> A氏たちは18日、最後の7人の火葬を終えた。<br /> この遺体のうち、二人は祖母と嫁だった。祖父と孫は、まだ行方不明だ。残りの二人を見つけ、火葬にしてあげたかった。それができないことで、A氏は自分を責めていた。<br /> 水が充分にないので、遺体を洗うこともできなかった。ほとんどの遺体が損傷し、顔には泥や砂、血糊がついていた。それでもできるだけ綺麗にして納棺した。僧侶は逃げたか被災しているので、読経がない。非常事態なので葬儀は後日に厳修することになるとしても、「せめて読経だけは…」と、僧籍のあるA氏はすべての火葬で、経を唱えた。<br /> A氏は疲弊しきっていた。絶望感と後悔がこちらにも伝わった。<br /> 18日で、この葬儀社もすべての業務を終え、一時徹底する。「食料もなく、放射能が怖いからです。今残っている我々の家族は市内に住んでいます。子供たちを被爆させたくない。…人間ですから、自分もまだ死にたくないです。しかし、こんな中途半端にやめるのなら、はじめからやらなければよかった」と、A氏は悲痛な声を上げた。<br /> 写真は断固拒否。「こんな私には、新聞に載る資格はないのです」。しかし、彼を非難できる人間などいるのだろうか。<br /> 自身も放射能の恐怖と戦いながら、制約された条件下で、必死に人々の弔いを守り続けた人間が、ここにいる。<br /> 後日、彼からメールが届いた。「私はいわきに残ります。この街が復興することを信じています」。<br />【いわき市より報告:太田宏人】<br />週刊「仏教タイムス」3月24日、31日合併号掲載<br /><br />写真:薄磯地区の惨状/葬儀社には故人の名のない花輪が並んでいた/18日の火葬を待つ遺体(いずれもいわき市内で)huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-78316057906094130482010-11-06T00:31:00.004+09:002010-11-06T00:47:37.408+09:00(墓90) ワラ人形の話<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhWo-WlQCGTzehHBB1DRXumT9wYiOOU8-iETYTW3VeJe2KoV0JPfctvKCKQfp-CSmTLSNN6aeDaXHIhcYMIUOOqxcdqATpNHkT3GuemJ17rwqQ-HqVHMVzmqrzfzj8Ivh9ZBtVGmLvJ9UmU/s1600/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E6%B0%8F~1.JPG"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 187px; height: 250px;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhWo-WlQCGTzehHBB1DRXumT9wYiOOU8-iETYTW3VeJe2KoV0JPfctvKCKQfp-CSmTLSNN6aeDaXHIhcYMIUOOqxcdqATpNHkT3GuemJ17rwqQ-HqVHMVzmqrzfzj8Ivh9ZBtVGmLvJ9UmU/s320/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E6%B0%8F~1.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5536091186171495154" /></a><br /><br /><br /><br />ワラ人形の話<br /> <br /><br /> 「ワラ人形」と聞いて思い起こされるのは、午前二時の丑三つ時。場所は神社の境内。白装束を着けた人が五寸釘を手に…、 という「呪いのワラ人形」ではないでしょうか?<br /> でも、呪いだけがワラ人形の役割ではありません。<br /> たとえば、この写真のワラ人形。これは、同じ家から同じ年のうちに二人の葬儀を出すことになった時、二人目の柩の中に一緒に納めるものです(この人形は葬儀社の社員のお手製。こういうものも作っているのですね、葬儀社では)。<br /> 地域によってはコケシを入れたり、ぬいぐるみで代用する場合もあります。<br /> なぜこういう習慣があるのかというと、その背景には、同じ家から一年のうちに二人の葬儀を出すと、三人目も「呼ばれる」という民間信仰があるからです。ワラ人形は、三人目の身代わりなのです。<br /> この風習は昔からあり、明治時代の日本人の生活を記録した小泉八雲ことラフカディオ・ハーンも「人形の墓」(『仏の畑の落穂』所収)という作品で同様の習俗を報告しています。<br /> この作品は、三人目の死者を出さないために、人形を納める墓を作る…、という話になっています。<br /> 火葬が一般的でなかった時代の、貴重な記録といえると思います。<br /><br /> 民間信仰というのは、現在の私たちには忘れられてしまっていても、身近なところに残っているようです。たとえば、何気なく行っている葬儀も同様。私たちの民族が昔から受け継いできた素朴な信仰に基づいている部分が、葬儀という営みのなかに息づいています。<br />By Hirohito OTA<br /><br />※某葬儀社の企業ブログに投稿したもの。huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-58195541464223170292010-10-07T23:44:00.001+09:002010-10-07T23:48:45.884+09:00(墓89) 大日本帝国 幻のコイン「陶貨」大日本帝国 幻のコイン「陶貨」<br />文・太田宏人<br /><br /> 靖国の英霊には申し訳ないが、太平洋戦争は無謀だった。日本には資源もないのに、戦線を拡大し続けた軍上層部は阿呆だったとしか思えない。資源の不足は戦力の不足に直結した。長期の消耗戦で必要なのは精神力よりも物資だった。<br /> 戦争を続けるため、一般家庭からも金属が供用された。貨幣用のアルミもなくなり、代用資材の錫も消えた。昭和19年10月、造幣局では苦肉の策として「せともの」で貨幣を作ることにした。これが陶貨だ。<br /> 造幣局には陶器の技術はない。そこで製陶業の盛んな各地(瀬戸、有田、京都)に命じて、数千枚とも数千万枚とも言われる陶貨が生産された。額面は10銭、5銭、1銭の3種類。組成は粘土7割に石とアルミ等の金属を混入した。<br /> こうして着々と準備が進められていた陶貨だが、流通に必要な枚数が完成する前に敗戦。陶貨は粉砕処分となった。ゆえに、「大日本帝国最後の幻のコイン」と称される。ただし、終戦時の混乱のなか何枚かが流出したため、現在も遺されているというわけだ。<br /> 現物の1銭陶貨は、京都の義歯メーカーである株式会社松風(しょうふう)の本社展示室で見ることができる(事前予約が必要)。松風は陶貨の製造工場のひとつであった。なぜ義歯の会社が陶貨を作っていたのかというと、昔、義歯は陶製だったためだ。<br /> 編集部がオークションで5000円で落札したという1銭陶貨を見せてもらった。色は赤銅色で、直径はリップクリームのフタ程度。意外に小さい。厚さは一円玉を2枚重ねたくらいである。<br /> 表面には雲のたなびく富士山と「壹」の文字。ネットなどでは、「材質の関係で複雑な図柄は避けられた」と書かれているが、「壹」の文字は小さく、しかも非常に精巧。技術の高さに驚く。裏面は桜の花に「大日本」の文字。床に落とすと陶器の乾いた音のなかに、なんとなく金属的な音も混じっていた。<br /> 陶貨を指先に載せてみる。陶貨は軽いが、そこに凝縮された歴史は、重かった。<br /><br />(ミリオン出版の雑誌に2010年2月くらいに書いた)huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-75414326918710996822010-04-19T17:26:00.007+09:002010-04-20T01:04:04.387+09:00(墓88)尊敬される「皇室らしさ」は消えていくのか?------------------------------------------------------<br /><strong>尊敬される「皇室らしさ」は消えていくのか?<br />───南米日系人社会から考える愛子内親王「いじめ」報道</strong><br />------------------------------------------------------<br /><br /><br /><strong>消滅した学習院のコーポレート・アイデンティティ</strong><br /><br /> 愛子内親王殿下の「登校拒否報道」や眞子内親王殿下のICU(国際キリスト教大学)入学などについて考えてみたい。<br /> この問題では、葦津泰國氏がメルマガ「斎藤吉久の『誤解だらけの天皇・皇室』」vol.122(3月15日号)に「日本の皇室が『私なき』存在であるという日本人の伝統的な信頼感が大きく傷つけられることになった」と書いている。<br />http://www.melma.com/backnumber_170937_4792107/<br /> 同感だ。<br /> 登校拒否報道の問題点は端的に言って、(1)皇室の信頼感へのダメージ、(2)学習院側の対応への不信感、(3)皇室による子弟教育そのものへの懐疑――である。これらの負のイメージが、国民の間に惹起(じゃっき)してしまった。<br /> 戦後、学習院は皇族子弟の教育機関ではなくなったことは、同メールマガジンvol.133にも詳しい。<br />http://www.melma.com/backnumber_170937_4820450/<br /> しかしながら、法的根拠が消滅したとはいえ、皇族、そして国民の側にも「学習院」という固有名詞に内包される「格別な何か」はあったはずである。昨今のビジネス用語でいえば、CI(コーポレート・アイデンティティ)というものだ。しかし、事態は変わった。学習院のCIは消滅したようだ。<br /> かたや、少子化を受けて今やどの教育機関も存続の危機に瀕しているといっても過言ではない。旧帝大や早慶などの有名校には、確かに子供は集まるけれども、その子供たちの質といえば、これらの大学の学生が引き起こした各種の事件報道(強姦、麻薬使用、麻薬栽培など枚挙にいとまがない)や、彼らの実態をあげつらうまでもなく、情けない限りである。<br /> それはともかく、まさに憚りなく言えば、学習院もこのような在野の教育機関に成り下がったわけだ。皇族方の意識が学習院から離れ、皇位継承第2位にある悠仁(ひさひと)親王殿下の姉君であり、国民からの崇敬も高いと聞く眞子(まこ)内親王殿下までが、日本の国家像とは根本的に相容れないキリスト教を教育の柱とするICUに進まれる。まさに、学習院の失墜である。学習院は、法人としてのイメージ戦略に失敗したか、戦後も続いた「学習院は特別だから」という学外・学内の意識に安住して、何もしなかったかのどちらかではないか。<br /> 一方、学校の「ブランド力」によって学生は集まるものの、学生の質の低下に悩む各校では、他校との差別化を図るためにも、今後は「皇族獲得」に躍起になり、ひとたびご入学を果たされれば、厚遇で迎えるだろう。<br /><br /><br /><strong>皇室不要論を助長させかねない</strong><br /><br /> 皇室の祭祀は神道であり、天皇陛下はじめ皇族方が親しく祭りを執り行うことこそ、皇室祭祀の真髄なのである。ところが、将来、天皇陛下になる可能性の高い悠仁様の姉君がキリスト教を建学の精神とするICUに御入学するという。この事態には、「国家の危機」という危険性さえはらんでいるといっても、過言ではあるまい(私はキリスト教を否定しているつもりはない。私は神職を養成する大学の出身者だが、妻も娘二人もカトリックである。結婚式も正式な手続きを踏んで、当時住んでいたペルーのカトリック教会で挙げた。ここで指摘しているのは、眞子様のICU御入学である)。<br /> とはいえ、ヨーロッパへの留学の多い皇族方にとって、キリスト教文化・英語への意識的な垣根は、それほど高くないのかもしれない。仄聞するところによると、一部の皇族方は欧州御留学中に羽目を外しすぎたそうだ。<br /> 学習院の失墜は学習院の失策だろうが、皇室にとっては必ずしも最上とは言えそうにない他の教育機関を選ばれたり、某カルト教団の影響やらがあるとか、留学中の恥ずかしい御振る舞いがある等という報道に接すると、どうも、いまの皇室もしくはその周辺には「私」というか、妙な個人主義が跋扈しているのではないかと危惧してしまうのは、私だけだろうか。<br /> しかしこれでは、醜聞まみれの各国王族と何ら変わりがない。日本の皇族方も、そのような方向性へ進むことは決定的なのであろうか。<br /> 反権力に酩酊(めいてい)し、対案もなく、国家の方向性を議論することもせず、いたずらに権威に反抗することが良いことであるかのように(まるで子供のように)浅慮する、多くの「言論人・知識人」が盛んに喧伝するように、「皇室などいらない」というプロパガンダを助長させるだけである。<br /> 学習院の失墜に見え隠れする問題は、ひとり学習院の危機ではない。古来、皇室を戴いてきた「日本」のありようを左右しかねないほど深刻な問題であると思う。<br /><br /><br /><strong>海外で皇室に敬意を抱くのは日系人だけではない</strong><br /><br /> 天皇・皇室の存在を否定したがる日本の「言論人・知識人」に見て欲しいのは、外国、とくに南米で皇族方が受ける憧憬、尊敬の眼差しである。彼ら「言論人・知識人」は、日本の歴史と伝統を体現する皇族方が熱烈に歓迎を受けるその現場においても、「皇室はいらない」などと叫ぶ自信はあるのだろうか?<br /> ここで南米を例に挙げるのは、私の体験に基づく。ほかの欧米文化圏でも、一部の者が皇族方の歴訪に際して抗議運動を起こしたこともあるようだが、それは、まさに、皇族が日本の象徴、いや、日本の代表であると認めたうえでの蛮行であろう。皇室制度を批判したものではない。<br /> 南米にはブラジルやペルーをはじめ、各国で日系移民が奮闘した歴史がある。そして、移住国での日系人の評価は高い。<br /> 日本に住む日本人は、日系人を自分たちの同胞とは見なさない傾向があるようだが、しかし国外においては、日系人への評価は日本人の評価へと直結する。北米でも同じことがいえるのだが、日系人を日本人と明確に区別する意識は、一般的ではないのだ。<br /> 戦後、日本製品が海外で受け入れられたのは、無論、製品それ自体の品質の良さもあるだろうが、各国の日系人への高い信頼を抜きには語れない。また、とくに南北アメリカ大陸では日本製品の販路拡大に日系人がどれだけ貢献したかを、日本の日本人はもっと知るべきだろう。<br /> 近年、南米の各移住先では、日系移民の記念祭が相次いでいる。ペルーおよびペルーからの転住があったボリビアでは平成11(1999)年、ブラジルでは平成20(2008)年にそれぞれ日本人移住100周年を祝った。<br /> ペルーでの100周年の際には、筆者は「ペルー新報」の記者として同国で生活していた。そのとき、ペルーを御訪問された紀宮清子内親王殿下(当時)を迎える日系人はいうに及ばず、ペルー国民の畏敬の念と熱狂を目の当たりにした。<br /> 100周年式典では、フジモリ大統領(当時)やファースト・レディーである娘のケイコさんらといっしょに、会場となったラ・ウニオン運動場(日系人が作った同国1、2を争う運動場)のグランドを一周された。<br /> 筆者は、記者席ではなく、あえて一般席で取材をしていた。その方が、一般の人々の息吹が感じられるからである。<br /> フジモリ氏らにとっては失礼だが、紀宮様の放つ神々しさや清浄としか表現しようのないオーラのようなものは、まさに「別次元」であった。いつもは、権威に屈しないことを信条とするペルーのマスコミも、このときばかりは非常に好意的な報道をしていた記憶がある。<br /> 伝え聞いたところによると、紀宮様は両国へのご出発前に、両国のこと、移民のことをかなり真剣に学んでいたという。<br /><br /><br /><strong>「日本のプリンシペ(王子)は心がきれいだ!」</strong><br /><br /> ブラジルの100周年の際には、皇太子殿下が御訪問された。<br /> 私は、記念式典が行われたパラナ州のホーランジャ市に、その直後、(別件の)取材で訪れている。どこへ行っても、記念式典と皇太子殿下を熱く語るブラジル国民に接することしきりであった。<br /> ある写真館に寄ったときのことである。店主は日系人ではなかったが、開口一番、「日本のプリンシペ(王子)は凄い!」と語る。<br /> 何が凄いのかという点を、話好きなブラジル人らしく、彼が熱く語ったところによると、記念式典でスピーチした州統領は、予定時間を過ぎても長々としゃべっていた。しかも、どうも自己宣伝が臭う話しぶりであったのに対して、プリンシペは簡潔に、移住者を受け入れたブラジルに感謝し、両国の友好を願い、移住者をねぎらうだけであった、という。<br /> これに、ブラジル人は感動したというのだ。「清々しい(心がきれいだ)」。<br /> 投票で選ばれる政治家は、大なり小なり自己を宣伝しなくてはいけない。だが、皇族方にはそれはない。まさに、皇太子殿下の「無私」の精神が、ブラジル国民に感動を与え、日系人を感涙させたのだろう。<br /> 付け加えるなら、皇族方が体現する「歴史の重み」というものは、世界にも例がないものである。それだけで、畏怖の対象になるのだ。<br /><br /><br /><strong>慰霊塔に刻まれた「日本臣民ここに眠る」</strong><br /><br /> 再度、憚(はばか)りながら申し上げるが、紀宮様と皇太子殿下の御訪問に際して、日本政府から関係国に対しての経済援助などがあったわけではない。美辞麗句もなく、バラマキODAもなく、日本を象徴する皇族方が、その存在のみで、かくも盛大な尊敬の念を抱かれたのである。このことを我々は深く考えねばならない。<br /> 日本が大国として世界に貢献できるとしたら、それは経済面だけではない。礼節や相互宥和(ゆうわ)、多宗教を認め合うといった「人間が人間であるために必要な部分」を示す、文化大国としての役割だ。これを体現しているのが、皇室外交なのかもしれない。<br /> 「天皇に私なし」といわれるが、近年の日本では「滅私」はとかく評判が悪い。しかし、この美徳は海外にも通じるものだ。無論、南北米州大陸においては、日系人が血で築いた信頼がベースにあるからこそなのだが、いまだに南米各国では(ほかの国でもそうかもしれないが)、天皇陛下が国を統治していると思われている。<br /> たとえば、ペルー北部のランバイェケ県トゥマン日本人慰霊塔を探訪したときに驚いたのだが、「日本臣民ここに眠る」とスペイン語で書かれていたのだ。<br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhDqLszz60vm6f_vwcbuDF78Xuh1tyG1KLejzFXKfgsNi3KgLQaaaWUfej0MT0pD6kxZQSwhZVgZCY79XZ7qe2Em8YvbDsHqPQhhKRzTezbFdo0wUp6iY4CsiWuWztGkEw-rRXx8E1CnR5s/s1600/File0006.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;width: 220px; height: 320px;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhDqLszz60vm6f_vwcbuDF78Xuh1tyG1KLejzFXKfgsNi3KgLQaaaWUfej0MT0pD6kxZQSwhZVgZCY79XZ7qe2Em8YvbDsHqPQhhKRzTezbFdo0wUp6iY4CsiWuWztGkEw-rRXx8E1CnR5s/s320/File0006.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5461766021127142834" /></a> 草も生えない荒涼とした砂丘のうえに、ひとり立つその十字架状の慰霊塔の台座に刻まれた「SUBDITOS(臣民たち)」というスペイン語を見たとき、自己を強烈に再認識した。いつか機会があれば、これからの世代の皇族方にも見ていただきたい慰霊塔である。<br /> 愛子内親王殿下の「登校拒否」問題など、最近の皇室に関する「ニュース」は、諸外国でもかなりの頻度で報道されていると聞く。しかし、その「ニュース」の文脈に現れるのは、個人主義的な「思い」ばかりである。個人主義的な私心の示すベクトルは、南米で皇族方が受けた尊敬の念とは真逆を指している。<br /><br /><br /><br /><strong>太田宏人(おおた・ひろひと)</strong> 昭和45(1970)年生まれ。國學院大學Ⅱ部文学部神道学科卒。ペルーの日系紙「ペルー新報」元日本語編集長などを経て、現在はフリー。隔月刊誌「SOGI」などに寄稿中。著書・編著書に『110年のアルバム:日本人ペルー移住110周年記念誌』(現代史料出版)、『知られざる日本人:世界を舞台に活躍した日本人列伝、南北アメリカ大陸編』(オークラ出版)など。<br /><br />※上記記事は<br />メルマガ 斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」<br />http://www.melma.com/backnumber_170937/<br />Vol.134の掲載原稿に一部加筆したものです。huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-30068343738613619592010-03-08T13:57:00.000+09:002010-03-08T13:58:39.381+09:00(墓87)海外布教史の再構築に一言【曹洞宗】海外布教史の再構築に一言<br />太田宏人<br /><br /> 一〇月二七・二八の両日、曹洞宗檀信徒会館で同宗総合研究センターの第一一回学術大会があった。その二日目、同センター講師の小笠原隆元氏(長野県廣澤寺住職)が「曹洞宗国際伝道史の再構築」という題目で発表を行った。<br /> 発表の要旨は、同宗宗務庁が昭和五五年に発行するも、その一〇年後の平成四年に同庁による回収図書(いわゆる発禁本)の指定を受けた『曹洞宗海外開教傳道史』についての概略、発禁本指定の経緯、その再構築に関する提案であった。<br /> 自身も同書の編纂委員の一人であった小笠原氏は、発禁本となった理由について「一五ページから一二三ページ等に今日の人権意識に照らして、その意識の欠如、差別的な文言や表現があった」と説明した。小笠原氏は反人権・差別への一定の理解を示したうえで、「海外布教師(現・国際布教師)の長年の苦労が時代の流れによって消え行くのは残念至極」と述懐した。<br /> 同書の発行後、各国に曹洞禅を標榜する禅グループが多数誕生していることにも触れ、これらの新情報を加味しつつ、同書に再考・再検討したうえで「宗門海外布教史の再構築を」と気勢を上げた。<br /> 参加した宗務庁関係者は「学術的な内容ではない。宗門全体の総意でも何でもない、単なる個人的な意見表明だ」と一蹴していた。その是非はともかく、小笠原氏の主張そのものは正鵠を射ている。同宗の海外布教史を網羅的に記した書物は、同書が回収されている現状では皆無である。<br /> たしかに同書は貴重である。とくに戦前の海外布教に殉じた先人たちの血涙のにじむ記録が刻印されているばかりか、当時の各布教地からの報告書(現在では所在不明なものが多い)等も採録されていて、史料としての価値が高い。<br /> しかし、『曹洞宗海外開教傳道史』の再構築は慎重に行わなければならない。先述の人権を侵害する文言や差別記述をはじめ、南米最古の仏教寺院を開創した同宗の上野泰庵を他宗の僧と断言してしまっているなど、致命的な間違いが散見されるのも事実だからだ。また、自宗への愛着ゆえの結果か、他宗の開教事情との関連性への配慮に欠如した記述も見られる。海外布教史を再構築するならば、これらの問題点を再検証するとともに、戦前の大政翼賛体制へ組み込まれた宗門の動向を真摯にトレースする必要もあろう。<br /> とはいえ、当時の布教師たちが夢に見、身命を賭して行った海外布教の歴史を記した唯一の書を、いくつかの難点があったというだけで発禁本に指定し、そのままお蔵入りという処分は先人に対して礼を失するものであろう。さらに言えば、歴史に学ぶという姿勢の放棄ともいえる。記述上の問題点は再校訂を加えればよいのだ。それとも、曹洞宗は戦前の海外布教そのものをなかったものにしたいのであろうか。<br /> 仮に一部の国や地域に対して宗門が加害者の立場にあったとしても、すべての国際布教がそうであったわけではないこともまた事実である。<br /> 欧州や南米に曹洞禅がさらなる浸透を見せる今、同書の問題をいかに超克するかということは、同宗の今後の国際布教の方向性にもかかわってくる重要事項と思われる。<br />(「仏教タイムス」2009年11月12日号掲載)huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-82019804031184483442009-11-18T06:19:00.001+09:002009-11-18T06:21:02.746+09:00(墓86)政権交代と我々のコミュニティーについて<strong>●与党・民主党は外国人の味方なのか●</strong><br />2009年8月の衆議院議員選挙の結果、民主党の鳩山由紀夫代表を首相とする現政権が発足した。政府が変わり、日本も大きく変わろうとしている(民主党は日本を変えることを選挙公約にしていた)。「中道左派」もしくは社会主義的とも称される民主党の政策を歓迎する人たちも多いが、否定する日本人も多い。民主党を嫌う人たちによると、民主党は「愛国心が薄い」「伝統的な価値観を軽視する」という。とくに、民主党の外国人参政権への容認姿勢は議論を呼んでいる。ただし、民主党の想定する「在日外国人」は、在日韓国・朝鮮人が主体である。とはいえ、与党・民主党の外国人政策は否応なく我々をも巻き込み、滞日外国人への日本人の視線は、今後も鋭敏化するだろう。<br /><strong>●我々は「かわいそう」なのか●</strong><br />20年前、いや10年前を思い出してほしい。日本に住む外国人労働者とその家族に対する日本社会からの視線を。外国人を取り巻く様々な社会的な問題を。たとえば子供の教育問題を。これらの問題の解決のために関ってくれた日本人やNPOが少なかったことを。しかし今では、行政が主導し、これらの問題の解決にあたるということは決して珍しくはない。先日、ある県のある市が主催した「デカセギ児童の就学率を上げるためのセミナー」に出席したが、参加者(教員、役人、教育委員、大学の研究者)らの熱意と好意に満ちた議論に驚き、感謝の気持ちを持った。しかし同時に、強い違和感を抱いてしまった。なぜならパネラーの多くが、「デカセギの子供たちはかわいそうだ」「日本のデカセぎは、他の国での移民と比べると悲惨な状況にある」と発言していたからだ。たしかに、異文化の中での生活は大変だし、タフさも要求される。ときにはいわれのない差別を受けることもあるのだが、我々は「かわいそう」な存在なのか。<br /><strong>●生活保護はすべての納税者の当然の権利●</strong><br />昨今の不況で職を失い、失業保険手当をもらったり、生活保護手当を受けている外国人もいるだろう。だが、私はあえて、外国人自身が必要以上に「かわいそうな外国人」を強調することに疑問を呈したい。日本人の多くが外国人を受け入れ、友愛に満ちた隣人となってくれるわけではないのだ。むろん、失業保険にしろ生活保護にしろ、そのための財源(税金)を日本人と等しく負担していれば、これらの社会保障の恩恵に浴する権利は外国人にもある。憲法も、外国人の基本的な人権を認める。しかし今、多くの日本人が「外国人には生活保護を受ける権利はない」と叫んでいるのだ。言うまでもなく、我々に関して言えば、彼らの主張は間違っているのだが。ただし、この国でもっとも多い外国人である在日韓国・朝鮮人に関しては別の論点から考える必要がある。彼らは歴史的にも特殊な事情を抱えているため、数々の特権が認められてきた。たとえば、たとえ金持ちであっても不当に住民税が減額されていたことが知られている。故意に働かずに生活保護を受ける者もいる。一方、我々には彼らのような特権などないし、まじめに働いている。しかし、外国人を嫌う日本人にとっては「外国人は皆一緒」らしい。このような状況で、我々自らが殊更に「私たちはかわいそうです。ご支援ください」と強調すれば、さらに多くの日本人に間違った観念を植え付けることになるのではないだろうか。<br /><strong>●我々は日本に貢献する存在である●</strong><br />ダイバーシティ(多様性)の重要性が注目されている。生物(自然)の多様性だけではなく、エスニシティの多様性や、職場内の就労者の多様性(年令、性別、人生経験)を大事にしよう、という考え方だ。ダイバーシティと深く関係するのが、サステナビリティ(持続可能性)。環境や人間生活、雇用などを論じる際にサステナビリティは欠かせない用語である。そして、サステナビリティの要【かなめ】はダイバーシティである。当然、日本という国、社会の持続可能性を考える際にも、多様性は重要なポイントといえる。そして、我々のコミュニティーの持つ「タフさ」「柔軟さ」「国際感覚」「移住経験」は日本に多様性をもたらすことを強調したい。労働力の寄与は言うまでもないが、我々が日本に住むことは、日本にとってのメリットなのだ。「かわいそうな外国人」という主張をやめろとまでは言わないが、我々の存在価値が政治の世界に伝われば、我々に対する政府の政策も変わってくるだろう。これまで与党だった自民党の戦略は、橋や道路、ダムを造る代わりに「自民党に票をください」というものだった。だからこそ、選挙権のない外国人には何もしてくれなかったわけだ。だが現与党である民主党は、自民党の政治スタイルから脱却し、「国家のために」という観点から政策を決めるという。ならば、我々の声も政府へ届くはずだ。<br /><strong>●先人の教訓に学ぼう●</strong><br />ここで思い出すべきことは、我々には先人が残した教訓があるということだ。そのうちの一つが、日本人移民と政治との接近である。100年以上前にペルーに渡った日本人たちにも選挙権などはなかったが、ペルー政府の要人との関係を深め、日本人のペルー社会での地位向上に努力している。ラテン・コミュニティーが日本で誕生してから20年。もはや一時的な出稼ぎ労働者ではなく、我々はこの国で生活を続ける定住者である。そろそろ我々の声を政治の中央へ届ける時期ではないか。<br />Convenio Kyodai 2009年10月会報掲載huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-8136185587356773472009-09-01T11:23:00.002+09:002009-09-01T11:42:57.388+09:00(墓85)樋口一葉という深い森あとがきにかえて<br /><br /><br /> 樋口一葉をちゃんと読んだことはなかった。<br /> 雅俗折衷、文語と口語、古語と(一葉が存命中の)現代語が混在し、王朝文学ばりの流麗さと自然主義の硬質な叙情が織りなす文体は一種独特でとっつきにくい。大きな辞書に載っていない言葉も少なくないうえ、明治時代の風俗風習、ローカルな地名も山盛り。会話には「」が使われないから、いま誰が喋っているのか心の中の独白なのか、一葉さん個人のコメントなのかも不明だ(彼女は時々、登場人物の台詞にツッコミを入れる)。一葉の表現を借りるなら《ことばうやむやしりめつれつ》詞有哉無哉支離滅裂|である。<br /> だからこそ、現代語訳が刊行されているのだろう。しかし、原文の芳醇な香りは薄らぎ、異質なものに変貌する危険はないだろうか。やはり、原文で味わいたいものだ。<br /> しかし、原文をすらすら読むことは学者でもない我々には難しい。そこで本書では脚注をつけたほか、句読点や注釈記号の配置を工夫し、会話部分を読みやすくした。歴史的仮名遣い(旧仮名)については音便変化を採用。「ょ」「っ」等を小書きにしている。つまり、「読みやすい原文」に再編集したわけだ。いまだ試行錯誤な部分もあるが、樋口一葉という豊かな森――有名ではあるが、いつの間にか人跡まれになっていた――を散策するには、こういう道の辿り方があってもいい。<br />……◎……◎……<br /> 樋口一葉は今から百年以上も前の明治二九年、数え年二十五歳という若さで死んだ。肺結核だった。今で言ったら、女子大生が卒業するとかしないとか、そんな年齢だ。時代背景が違うにしろ、早すぎる。<br /> 本書には、森鴎外らの絶賛を浴びた代表作「たけくらべ」はじめ、いわゆる一葉晩年の「奇跡の十四か月」の作品群を中心に、十一編の小説を収めた。ただし、多くの物語がハッピーエンドを迎えない。ここに、一葉の抱える闇もしくは、大人の女の情念を感じた。<br /> 子どものころに読んだことがある人もこれが初めてという人も、彼女の情念の森に、いまだからこそ迷い込んでみてはどうか。この森の深部には、大人にしかたどり着けない秘密の場所が、あるのかもしれない。<br /><br />(編集担当・太田宏人)<br />『原文で一度は読みたい樋口一葉』 (OAK MOOK 212)オークラ出版 (2008/5/23)huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-78171827388503363602009-09-01T11:15:00.001+09:002009-09-01T11:16:35.507+09:00(墓84)互恵という精神の素晴らしさ~日系ペルー人の場合~<strong>互恵という精神の素晴らしさ~日系ペルー人の場合~</strong><br /><br />太田宏人(ライター)<br /><br /><br /> わたしは以前、ペルーで暮らしていました。<br /> 当時は、現地の日系社会の日刊紙(日本語とスペイン語のバイリンガル新聞)で記者をしていたのですが、日系社会には、日本に住む日本人がすでに失ったり、失いつつある、さまざまな習慣や言葉、心根、精神が、いまも息づいていることを知りました。<br /> もっとも、ペルーを含めた南米、ハワイや北米、中米への日本人の移住は、100年以上の歴史を有しますし、各国ではすでに日系5世や6世が誕生しているので、戦後の移住者を除けば、日本語を話す人々は少なくなっています。しかし、彼らが話す言葉が英語やスペイン語、ポルトガル語といった現地のものに変化しても、彼らの習慣や行動の「本質的なところ」は、やはり日本人的なものなのかもしれません。<br /> たとえば、ペルーの日系社会において現在も普通に行われている「ソブレ」という習慣。<br /> ソブレというのは、スペイン語で「封筒」という意味です。<br /> 日本人やその子孫たちは昔から、同朋(どうほう)の結婚式や葬儀に際して、参列者が金一封を出し、経済的な面で支えあってきました。いってみれば、日本の祝儀袋や香典袋です。しかし、日本製のこうした慶弔封筒が手に入りにくいペルーでは、市販の封筒(ソブレ)に現金を入れて、新郎新婦や喪主(喪家)に渡したのです。そうしていつしか慶弔封筒はソブレと呼ばれ、この行為そのものもソブレと呼ばれるようになり、今日に至ったのです。<br /> ソブレなどという代物(しろもの)は、(日系ではない)ペルー人にとって、非常に奇異なもののようです。彼らの冠婚葬祭では絶対に登場しません。だいいち、日系人の冠婚葬祭に出席する(日系ではない)ペルー人は、ソブレを出すことを嫌がります。<br />「なんでお金など出さなければならないのだ?」<br /> という思いを抱くそうです。ペルーの人々に「支えあう気持ち」がないわけではないでしょうが、そういう気持ちが、金銭的なことに結びつかないのかもしれません。<br /> つまり、ソブレという行為の背景にある互恵(ごけい)の精神、もしくは互助の精神は、日系人特有なのでしょう。実際、ソブレの恩恵があれば、どんなに貧しい家庭でも葬儀を出すことができるのです。これは非常に重要なことでした。海外に暮らす日本人は、日本に住む日本人以上に、葬儀を大切にしてきました。<br /><br /><br />■見返りを求めない互恵の心■<br /><br /> 現在のソブレの額は、日本円にして数千円から1万円程度ですが、日本との経済格差を考えると、日本で言われているような香典の「相場」よりは若干、高額であると思います。しかし、日本の「香典」ともっとも異なるのは、香典返しのようなものがない、という点です。<br /> 結婚式の「お返し」は、多少手の込んだものが最近は見受けられますが、葬儀に際しては、故人の小さな写真をはめ込んだり、生没年月日や氏名を書き込んだ小さな置物や、参列への謝辞を書いたカードを会葬者に配ることが多いようです。しかし、これらは、さほど高額なものではありません。<br /> ということは、ソブレは「もらいっぱなし」「あげっぱなし」になる可能性があるのです。それでも、同朋(この言葉は、1世たちが好んで使いました)のためなら、ソブレを出すのです。見返りを求めない、素晴らしい互恵の精神だと思います。<br /> ソブレという相互扶助のシステムが今でも生きているのは、やはり、日系人が葬儀を大切にしているからだと思います。相互扶助は、金額だけの問題ではありません。ソブレは、連帯意識を形に表したものでもあります。「亡くなられた人を、みなで弔う」という気持ちを、ソブレという行為に託しているのだと思います。<br /> 香典とは本来、見返りなど求めない互恵の精神に基づく行為なのかもしれません。<br /><br />おおた・ひろひと/「ペルー新報」元編集長。現在、雑誌「SOGI」等に執筆中<br /><br />(2009年、埼玉県内の某葬儀社の会報に掲載)huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-31841464412606493012008-12-03T08:56:00.000+09:002008-12-03T08:58:38.790+09:00(墓83)「涼恵コンサートin Brasil」大成功 新渡戸稲造の後裔で、シンガーソングライター・涼恵さん(神戸市/小野八幡神社権禰宜)の里帰りコンサートがこのほど、ブラジルで行われた。<br /> 涼恵さんはサンパウロで生まれ、2歳まで同地で育った。「里帰り」は10年ぶり。今回は、今年が日本人ブラジル移住100周年にあたるため、それを記念したコンサート・ツアーとなった。<br /> 11月5日のブラジル日本文化福祉協会・記念講堂(サンパウロ市東洋人街)のコンサートは、日本学生海外移住連盟の発足50周年を記念した日本映画の上映会とセットで行われた。300人を超える聴衆は、涼恵さんの独特の歌唱力と雰囲気に息を呑んで耳を傾けていた。涼恵さんは「生まれた地で、初めて行うコンサートに感無量です」と感激しきりだった。<br /> 曲目は、「この道」「涙そうそう」「故郷」のほか、「さくら道」「豊葦原の瑞穂の国」「水の惑星」のオリジナル曲。<br /> その後涼恵さんは、マナウス等でのコンサートを二回行い、各地の日系人に盛大な歓迎を受けたもよう。<br /><br />写真は、ブラジル日本文化福祉協会・記念講堂で熱唱する涼恵さん<br /><br />以下は、当地の日本語新聞の記事<br />http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DO_N_ID=26277huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-26024849248424983502008-10-08T00:40:00.014+09:002008-10-08T00:54:02.709+09:00(墓82)大分「置地蔵事件」/鉄道で地蔵を粉砕<strong>大分で「置石」ならぬ「置地蔵」事件が勃発<br />自殺供養の石地蔵を線路で粉砕<br />徹底的な現場検証で浮かび上がった犯人像<br />警察も知らない目撃情報をキャッチ<br />取材・写真・文/太田宏人</strong><br /><br /><br /> 2006年。大分市内の某神社で、境内で暮らしていた多数の野良猫がボーガンか何かで惨殺される事件が起きた。地元の人々は、「若いものの犯行」「若い奴等は」などとウサワをしていたそうだが、この惨劇は、なにか、その後の事件のエピローグを飾るようでもあった。<br /> そして今年(2007年)の7月25日。多くの人が顔をしかめるものの、新聞の第一面を飾るほどでもなく、被害者がいるわけではないが強いて言えば「死者」が被害者になるという、すこし奇妙な事件が、大分市の郊外で発生した。<br /> 事件発生は午前6時12分ごろ。大分市元町のJR九大線・古国府(ふるごう)トンネル入り口で、この日の一番列車である大分発日田行き上り普通列車(2両編成)が、大きな石のようなものに衝突し、緊急停車した。<br /> 乗員乗客にけがはなかったが、車輌前部が破損した。運転士が調べたところ、現場付近には多数の石片が散乱していたという。<br /> 置石である。だが、置石にしては衝突の衝撃が大きく、石の破片も多い。<br /> 運転士からの通報を受けた警察が調べると、これは、現場近くに祭られていた石仏の地蔵尊であることが分かった。重量は約20キロだった。<br /> 地元民によると、約20年前、受験に失敗した地元の高校卒業生がトンネルの上部から列車に飛び込み自殺をした。地蔵像は、悲嘆にくれる遺族を見かねた地元の婦人達が、自殺者の供養の意味もこめて、トンネルの眼前に建立した「見守り地蔵」だったである。<br /> 同じ場所では過去に数度、自殺があった。地元では幽霊トンネルとも囁かれた場所。霊能者によると、トンネルのなかに「いる」そうだ。<br /> 置石ならぬ「置き地蔵」の舞台となった場所は、まさに複数の自死が発生したポイントであり、住民は「いたずらにしては限度を超えている」「祟りがあるのでは?」「自殺者が浮かばれない」と、一様に怒りと驚きを隠せない模様である。<br /> 大分県警大分中央署は列車往来危険容疑で捜査中だ。署内での正式名称は「線路内における置石(地蔵様)事案」。警察用語では「置石」だが、置石に分類することに躊躇があったのかもしれない。地蔵に「様」をつけるあたり、人情を感じる。<br /><br /><br /><strong>事件の背後に見え隠れする犯人像</strong><br /><br /><br /> 周辺では、石仏などに対するいたずらが頻発していた。<br /> 現場付近は石仏の多い場所だ。大分市の観光案内版の脇にも石仏が配されているのだが、数年前には古国府トンネル付近の案内板の石仏が蹴り倒されていた。だが、住民たちを驚かせたのは、見守り地蔵から数百メートルも離れていない「岩屋寺石仏」に対するいたずらだった。岩屋寺石仏は平安初期の作といわれる磨崖仏(まがいぶつ)群で国指定の史跡。<br /> 事件は昨年12月に発生した。岩屋寺石仏に設置された8躯の石仏と標識に、青色のスプレーペンキがべったりと塗られていたのだ。<br /> 被害にあった石仏は、幸いにも磨崖仏ではなかった。付近の寺院が、境内から移設したものだった。<br /> 付近の寺の住職らが作業をして、青色のペンキはどうにか落とすことに成功したが、騒動は続いた。今年1月には、近くの県立大分上野丘高校の庭のブロンズ像に金色のスプレーが、7月には、同じく付近の県立芸術短期大学の敷地に隣接する六地蔵にも、青のスプレーがかけられた。同じペンキだったという。<br /> 元町の見守り地蔵に対するいたずらも、じつは今回が初めてではない。今年7月上旬、「消えていた」。ある日こつ然と、姿を消していたのだ。<br /> 住民が探すと、線路脇の草むらのなかに倒されているのが、7月17日に発見された。地元の人々は地蔵像を元の場所に戻し、先ほどの寺の住職に供養してもらったのだが、25日には、何者かによってついに線路に置かれ、粉砕という結末を迎えたのだった。<br /> 石仏等に対する執拗な手口を考えると、同一人物の犯行と推測される。地元では「少年か若い者の仕業だろう」という声が多い。<br /> 大分の地元紙「大分合同新聞」も置地蔵事件に触れ、7月28日の朝刊コラムで若者のゲーム感覚での犯行や「祟り」をほのめかしている。<br /> しかし、である。<br /> 散歩をしていた人たちの証言によると、芸術短大隣接の六地蔵は、犯行のあった日の午前7時、元町の見守り地蔵は同6時には無事な姿が目撃されている。六地蔵は8時前までにはペンキを塗られ、トンネルでは6時12分ごろには列車が衝突している。<br /> それぞれ、早朝のわずかな時間での犯行ということが分かる。一帯には田畑が多いとはいうものの、住宅街である。朝に散歩をする高齢者も多い。農作業の人たちもいる。<br /> とくに、見守り地蔵のあった場所は、国道10号線から良く見える場所であり、国道の「岩屋寺入口」信号からも遠くない場所。停車中の車内からは、はっきりと見えると思われる。<br /> 自殺の「名所」なので(というよりも、近年は変態親父が出没するとかで)、夜は気味悪がって人通りが少ないものの、地蔵の脇を通る細道は、国道の抜け道になっていて、日中は人通りが、けっこうある。朝方は高齢者の散歩も多い。<br /> 高校のブロンズ像の一件は、岩屋寺石仏の事件に刺激された若者によるいたずらかもしれない。高校の件は、夜に行なわれた可能性が高いという。上野丘高校では近年、卒業生を装った男が卒業生の家に電話をかけ、個人情報を聞き出すといった事件も発生しているが、これは別件のようだ。<br /> 一方、六地蔵や見守り地蔵そして、そのほかの石仏の事件に共通して言えることは、犯行時刻が朝ということ。そんな時間に若者が何かをしていれば目立つだろう。<br /> また、散歩などの地元の人の流れを把握していなければ、犯行は不可能だ。そして、若者特有の「落書き」ではない。岩屋寺の石仏の顔を青で塗りたくった手口は、じつに粘着的だ。<br /> 愉快犯にしては、犯行が粘着質すぎる。しかも、逆に言えばこの程度の「いたずら」で愉快になれるものだろうか。<br /> そして、ターゲットは明らかに「石像」だ。愉快犯の対象になるのだろうか。<br /> 以上のことを総合すると、犯人は通行人に目撃されても怪しまれない人物、つまり地元の人間でかつ、ある程度信用された者ではないのだろうか。先に紹介した寺院とトラブルを起こしている、またはその寺院に対して嫌がらせをしたい理由のある中年の仕業かもしれない。<br /> 実際、聞き込みを続けていると「事件の当日、犬を連れた中年男性が、線路に入ってしきりに何かを探していた」と語る婦人がいた。この男は、何を捜していたのだろうか。<br /> 事件の朝、現場周辺では警察が地蔵の破片を拾うなどの現場検証を行った。その騒ぎが落ちついてからの時刻だ。何か、捜すものはあるのだろうか。ふいに胸をよぎった言葉は「犯人は現場に戻る」、それだった。<br /><br /><br /><strong>このいたずらの「罪」の重さ</strong><br /><br /> JR九州によると、同社では車輌前部のパーツ交換を行なった。損害額は約5万7000円。自然災害ではないので、犯人が捕まれば損害賠償を行なうことになるという。乗用車を壁にぶつけて、前部のバンパーを交換するより安い損害額だが、問題は刑事罰のほうだ。<br /> この地蔵様には持ち主らしい持ち主がいないので器物損壊罪が問われるかどうかは不明。一方、線路上に(石仏を含めて)置石をした場合、刑法の「往来を妨害する罪」第125条「往来危険」の罪に問われる。「鉄道もしくはその標識を損壊し、又はその他の方法により、汽車又は電車の往来の危険を生じさせた者は、2年以上の有期刑または20万円以下の罰金」。未遂であっても処罰対象になる。いわゆる未必の故意である。<br /> けが人が出た場合は「傷害罪」が適応され、10年以下の懲役。死人が出ると、罪はもっと重い。同126条「汽車転覆等及び同致死」の第2項目は「死刑または無期懲役」と規定する。<br /> 上記は、人の世の裁きだ。だが、この世ならぬ領域の「罪」は、だれが裁くのだろうか。<br /> 事件後、検証のために警察が石片を持っていったが、一定期間が過ぎたため、地元住民に返還された。その石片を受け取った地主は、「頭部は原型を留めていた」という理由で、もともと地蔵が立っていた台座に、頭部をじかに接着してしまった。これが、犯人の望んだ結末なのだろうか?<br /> 取材するために大分へ行ったとき(8月8日)、現場にはこの「頭部だけの地蔵」が無残にも佇んでいた。その「地蔵」を見たとき、強烈にギョッとした。<br /> 自分には霊感などはまったくないが、その場所に漂う怒りのような殺気を、たしかに感じた。<br /> 首だけという異様な形相に、吐き気さえ催し、そして、この原稿を書いているいま、ついに吐いてしまった。<br /> 犯人の動機はいまいちよく分からない。単なる変質者かもしれない。犯人のやったことは許す余地などまったくないが、この人の身の安全を、かえって心配してしまった。<br /> 取材で得られた情報を総合すると、犯人は地元もしくは近辺の者だ。そして現場を再訪しているはずだ。首だけ地蔵と対峙し、どんな表情をしていたのだろうか。<br /><br />(ミリオン出版「不思議ナックルズ」掲載)<font color=blue>[写真]事件後、警察から戻された石片のうち、頭部を地元の人が、もともとの台座にじかに接着した。台座に首だけが載っているのは異様な光景だ</font><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhp490Hzut7t9eiFRUMZ7xibnqSW0NwRL3XJ8waJzMHhp51ZolfZxhyvmxt-2zxn07z6LSbPOgPSE8UfueSmcUV2Px8kmkzkoDfMCZGb6oxWVcIK3QSsdd0V1MN2sZSk4gb73GV4RZ4yBsR/s1600-h/oita.JPG"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhp490Hzut7t9eiFRUMZ7xibnqSW0NwRL3XJ8waJzMHhp51ZolfZxhyvmxt-2zxn07z6LSbPOgPSE8UfueSmcUV2Px8kmkzkoDfMCZGb6oxWVcIK3QSsdd0V1MN2sZSk4gb73GV4RZ4yBsR/s320/oita.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5254439052571649906" /></a>huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-7587543281700688742008-04-17T00:35:00.006+09:002008-10-08T00:52:45.174+09:00(墓81)日伯司牧協会の日本巡礼団<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhN8BIWYk9_SKHCg-jryZmVIfdnwunWSMNSyqUzm72eWFTSDN-DLzQENwSIy0tRbyujxm431ElRKjtHhYMWnTQq-rCLwvPYI9cdNm6lER9QmLI_ZB7-gf4y2dSr-Qpgd-TPQ5uK3wgMzuJf/s1600-h/%E6%97%A5%E4%BC%AF%E5%8F%B8%E7%89%A7%E5%8D%94%E4%BC%9A.JPG"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhN8BIWYk9_SKHCg-jryZmVIfdnwunWSMNSyqUzm72eWFTSDN-DLzQENwSIy0tRbyujxm431ElRKjtHhYMWnTQq-rCLwvPYI9cdNm6lER9QmLI_ZB7-gf4y2dSr-Qpgd-TPQ5uK3wgMzuJf/s400/%E6%97%A5%E4%BC%AF%E5%8F%B8%E7%89%A7%E5%8D%94%E4%BC%9A.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5189868248595091378" /></a><br /><strong>日伯司牧協会の日本巡礼団 <br />長崎で中村神父の足跡たどる</strong><br /><br /> 【長崎発・太田宏人】日伯司牧協会(青木ファン代表=バチス勲・神父)では、ブラジル初のカトリック布教使として邦人に尽くし、「生ける聖者」とあがめられた中村ドミンゴス・長八神父を、尊者もしくはその上位の福者に列叙するようローマ法王庁に働きかけている。<br /> 同協会ではその運動の一環として、中村神父の出身地である長崎県五島を目指す巡礼の旅を続けている。青木神父やブラスヴィア旅行社(聖市)の石井久順社長らをはじめとする巡礼団は、豊臣秀吉によって処刑された「日本二十六聖人」が歩かされた京都から長崎への道を中心にたどりながら、このほど長崎入りした。<br /> 長崎では原爆投下に関するさまざまな施設を訪問。かつては「東洋一の大聖堂」と称えられたものの原爆で全壊した浦上天主堂(戦後再建)などで祈りをささげた。<br /> 青木神父は「移住百周年を機に中村神父が列福されることには大変な意義があると思います」と熱く語った。<br /> 中村神父は、隠れキリシタンの子孫。教皇庁からブラジルへの布教辞令を受け、一九二三年、五八歳で海を渡った。<br /> 2008年4月8日「サンパウロ新聞」掲載<br /> (写真:長崎市永井隆記念館前で日伯司牧協会の巡礼団)huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-38361768534142892452007-12-22T09:29:00.000+09:002007-12-22T09:35:13.395+09:00(墓80)神々の混沌、人々の葛藤、弥栄への祈りを歌ふ涼恵さん<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiEQEj1rPb7ibeS8HdgKVU8aZ-HxM0r24YSImWtrW9GOEZi3sOQG6PAqoLCteDWJX6CI9EZ5sNvIElJ8CYunJZpSm3LEwEm9uoCf2hmtIrG0LuuopGBiqBY1TXOumCblojQSfIiduE8sMDw/s1600-h/suzuesan+(4).JPG"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiEQEj1rPb7ibeS8HdgKVU8aZ-HxM0r24YSImWtrW9GOEZi3sOQG6PAqoLCteDWJX6CI9EZ5sNvIElJ8CYunJZpSm3LEwEm9uoCf2hmtIrG0LuuopGBiqBY1TXOumCblojQSfIiduE8sMDw/s200/suzuesan+(4).JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5146589017107982658" /></a><br /><strong>神々の混沌、人々の葛藤、弥栄への祈りを歌ふ涼恵さん<br />ライヴハウスには言霊が満ちてゐた</strong>太田宏人・記<br /><br /><br /> 彼女が唄ひ出すと、その場の空気が一変した。低音と高音を駆使する伸びやかな唄声に、聴衆は瞬時に魅了されてしまったやうだ。<br /> 声質が良く、歌唱の技巧に優れただけの歌手ならいくらでもゐる。だが、圧倒的な存在感、魂を揺さ振るメロディーと歌詞、ときに明るくときに暗く、聴く者の存在を抱き止めるやうな唄ひ手は珍しい。歌唱の姿が祈るがごとき印象を与へる歌手は稀有だ。<br /> 「言霊に祝福された唄ひ手」<br /> これが、涼恵さんのステージを拝見した時の第一印象であった。彼女のライヴは言霊のシャワーであった。<br />  ◎   ◎<br /> 十一月二十五日(日)、四谷天窓.comfort(東京都新宿区高田馬場)で行はれたスタヂオ言霊の特別公演「時代(とき)の風」を観た。脚本・構成は松田光輝さん。歌唱は神戸市の小野八幡神社権禰宜でもある涼恵さん。すべての曲が彼女の作詞作曲だった。<br /> 菊池智子さんのピアノ、松田さんの一人芝居(朗読)と涼恵さんの唄が絡み合ひながら、ストーリーが進行した。<br /> 以下、涼恵さんの唄について書かう。彼女の音楽世界は豊かな二律背反を奏でる。たとへるならば神と人、自然と人為、和魂と荒魂、優しさと厳しさ、光と闇。これらが同居し、混沌を極めるのだが、時として闇の側面が勝るやうだ。これは彼女の内なる闇なのかもしれない。だがその闇のなかに、希望や救済、人の世の弥栄への祈りを感じたのは筆者だけではあるまい。<br />【この世には良いことも悪いこともたくさんある。幸運に見放されてゐるやうな時もあるだらう。だが、生きてきたこと、生きてゐること、生きてゆくことは、当たり前のやうに素晴らしい】<br /> 彼女の闇は、我々にエールを送る温かい闇だった。<br />  ◎  ◎<br /> 芝居と歌唱、ピアノの生演奏といったそれぞれのパーツの練度は悪くはなかったと思ふ。ただ、演出として狙ったのか、各者がそれぞれの情熱と才能を無計画にぶつけ合った結果なのかは不明だが、三者の放つ存在感は凸凹であった。その不揃ひさの妙味は有名歌手や役者の公演では得られまい。インディーズの醍醐味であらう。今後は、三者が同じステージに立つことで生まれる相乗効果のさらなる輝きに期待したい。<br />(おほた・ひろひと=フリーライター)<br /><br />「神社新報」平成19年12月17日掲載huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-74217505543810791402007-12-20T00:18:00.000+09:002007-12-20T00:29:27.932+09:00(墓79)ペルー慈恩寺の100周年記念式典/麻生太郎氏が祝辞<strong>ペルー慈恩寺の100周年記念式典<br />麻生元外相が祝辞寄せる<br />報告と未来への課題<br />太田宏人</strong><br /><br />(サンパウロ新聞:2007年11月22日掲載)<br /> 南米最古の仏教寺院である泰平山慈恩寺(ペルー共和国リマ県カニエテ郡/無住)で11月3日(現地時間)、同寺の創立100周年を記念する式典が行われた。主催は慈恩寺有志の会。<br /> 式ではまず寺誌プレートの除幕式があり、南米とゆかりの深い麻生太郎元外務大臣から寄せられた祝辞が読み上げられた。元外相はペルーの日系人および慈恩寺の歴史を振り返りつつ、「日系の皆様が今後とも力と心を合わせ、この移民の聖地の中心である慈恩寺を永久に護持されんことを冀う」と結んだ。<br /> 祝辞の代読は地元ペルーでも屈指の金融機関であるKYODAIグループのハビエル・クズマ代表が行った。同グループは今回、寺誌プレートおよび歴住の写真額を新調する費用を負担した。<br /> 除幕式後、仏式法要が厳修された。法要には読経師と呼ばれる在野の宗教家の徳田義太郎(ロベルト)師のほか、ペルー人で初めて僧侶になったカスティーヤ仙玄師らが参加し、曹洞宗の法式だった。<br /> 慈恩寺100周年への参加を目的に日本からやってきたというある日本人は「慈恩寺内は空気が違う。堂外は南米だが、堂内は日本。しかも、独特の神聖さがある」と前置きし、「式典参加者は約30名で小規模なものだったが、慰霊の心がこもり温かい式だった」と感想を述べていた。<br /> 法要後、地元の互恵組織であり、慈恩寺の維持管理を行うカニエテ日系協会のミゲル・グスクマ会長があいさつ。参加者への謝意を表し、「これからも各方面と連携し、微力ながらもお寺を守っていきたい」と語った。<br /> その後、参加者に食事が振る舞われ、慈恩寺有志の会が用意したおにぎりや太巻きなどの手料理を食べながら楽しい一時を過ごした。式にはリマ市の日系学校「ヒデヨ・ノグチ校」の中学生4人と教師1人が招待された。生徒の一人は「おにぎり食べるのは久しぶり。とてもおいしい」と満足げだった。<br /> 慈恩寺は、明治40年に同郡サンタ・バルバラ耕地内に建てられた。二度の移転を経て現在に至る。現在の建物の落成は1977年。1992年以降は無住である。ペルー日系人協会および、その支援を受けるカニエテ日系協会が維持管理に当たっている。<br /> 慈恩寺有志の会はペルーと日本にメンバーがいる在家のグループであり、超宗教で超宗派。慈恩寺は曹洞宗の寺籍と言われるが、実質的に曹洞宗と慈恩寺の関係は切れている。その証拠に、盆と彼岸の法要は、日系人協会に後押しされた浄土真宗本願寺派が、曹洞宗と交代で行うという異常事態になっている。<br /><br /><strong>■大使館は不参加</strong><br /><br /> 慈恩寺有志の会では式典開催にあたり、リマの総領事館(大使館と併設)に大使もしくは公使等の参加を呼びかけたが、門前払いにあった。メールの返信文は「ご案内いただきました慈恩寺創立100周年祈念行事に関しまして、ご趣旨は理解申し上げますが、総領事館または総領事館館員として今回のプログラムに参加することは差し控えたく存じますのでご理解願います」(原文ママ)。<br /> 無論、これまでの慈恩寺の行事には大使館もしくは総領事館の参加はあった。現在の慈恩寺に移転した際は、小関領事(当時)が改築の音頭を取ったうえ、慈恩寺の看板は木本大使(同)の揮毫というふうに、慈恩寺と日本の在外公館の結びつきは強い。<br /> 式典前日、大使館に電話かけると「そんな話は聞いていない」と驚いた様子で、数時間後、領事館から電話がかかってきた。電話の主が門前払いをした人物だった。「じつは、赴任して数ヶ月。慈恩寺のことは良く知らなかった」という。<br /> リマの日系人や在留邦人の社会では大使館・総領事館の批判は最大のタブーといわれる。サンパウロでは想像もできないことだが、リマはこのような出鱈目がまかり通る世界である。<br /> ペルー日系人協会も参加に及び腰であった。これは、同協会と曹洞宗の関係が悪いことに原因がある。今回、主催した慈恩寺有志の会は超宗派で超宗教である。慈恩寺は近年、浄土真宗本願寺派と曹洞宗が「同居」する状態。その原因は日系人協会が介入したことによる政治的な要素が強い。また、信者団体や僧侶がいないことも影響している。<br /> そこで慈恩寺有志の会では両宗派に呼びかけて合同での式典を提唱したが、浄土真宗本願寺派は8月に独自に百周年の法要をやってしまった(寺の歴史さえ知らずに)。曹洞宗は教団としては不参加であったが、有志の僧侶が参加することとなった。<br /> この僧侶は、「有志の会」の制止を聞かずに曹洞宗をアピールしすぎた結果、日系人協会は「曹洞宗の行事」と誤解してしまったらしい。協会の関係者によると、式典の当日に曹洞宗の名前でリマの日秘文化会館のホールが借りられていたという。むろん、主催者である「有志の会」はそのようなことは誰も知らなかった。<br /> それでも、協会の何人かの幹部は参加を希望していたのだ。が、「領事館も行かないのでは」と、最後は辞退してしまった。<br /> 領事館の人間は、不参加の理由を「日系人協会が参加しないのであれば」「日系人協会が公認しない行事であれば」などといっていたが、本末転倒・責任転嫁もはなはだしい限りであろう。だいいち、近年の慈恩寺をめぐる騒動は、信徒団体でもない日系人協会が、自らの規約に反して宗教に絡みすぎた結果である。協会が正しいとは限らない。協会が道を踏み外した場合でも、公館は、協会公認の行事であれば出席するのだろうか。<br /> 僧侶といい協会といい在外公館といい、慈恩寺のことを真剣に考えることは今後もないのだろうか。先人の霊が泣いている。<br />[写真:法要で読経する徳田師(中央)とカスティーヤ師(左)]<br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh1tj94SKWLFcMZinIUzjyfDN2nGuEG444KqlLlyBV5sPVGjmyU6M8b88LswlcZ8pTs0MdK_4W7jDgCDhlovsHdNitTJXwBqIcju3lWQ-kGyir1N924hEzKh7yewU_OgnBOdbPrRZTWKZnR/s1600-h/IMG_0330.JPG"><img style="float:right; margin:0 0 10px 10px;cursor:pointer; cursor:hand;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh1tj94SKWLFcMZinIUzjyfDN2nGuEG444KqlLlyBV5sPVGjmyU6M8b88LswlcZ8pTs0MdK_4W7jDgCDhlovsHdNitTJXwBqIcju3lWQ-kGyir1N924hEzKh7yewU_OgnBOdbPrRZTWKZnR/s400/IMG_0330.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5145705512270424370" /></a><br /><br /><strong>麻生元外相による慈恩寺100周年への祝辞(全文)</strong><br /><br /> 明治32年、つまり1899年、南米へ向けた初の移民団が日本からペルーに到着し、今年ですでに108年の歳月が流れました。ペルーの日系社会は、南米の日系社会のパイオニアであり、これまでの歴史は苦難の連続であったことを思うと、こんにち、皆様が築かれた社会的地位の高さは驚異というほかはなく、同じ血を持つ同胞として、非常に誇りに思う次第です。<br /> 日系の世代交代は進みましたが、皆様がいまでも日本の心を失っていないことを、私は嬉しく思います。現在でも、日系のご家庭には仏壇が祀られるばかりか、泰平山慈恩寺という立派なお寺が大切に護られ、毎年欠かさず先没者の慰霊法要が続けられてきたという事実に、身の震えるような深い感銘を覚えます。これはひとえに、皆様の先人への感謝の念の表れではないかと思います。日本に住む日本人が失ってしまった大切な気持ちを、皆様がお持ちになっていると言っても過言ではないでしょう。<br /> 近年、慈恩寺の歴史が克明に調べられるにおよび、このお寺が南米大陸で最古の仏教寺院であることが判明しました。歴史を紐解けば、いまをさかのぼる100年前に、上野泰庵という禅宗の僧侶の指導のもと、当時は決して裕福とはいえなかった移民の方々がわずかずつ浄財をあつめ、サンタ・バルバラにお寺を建立したのが明治40年、西暦では1907年でした。創建当初から、お寺は宗教宗派に関係なく、多くの日本人が集まったそうです。<br /> お寺では、志半ばで病に倒れた同胞の霊を慰めるほか、お寺の隣には、これまた南米最古となる日本人小学校が建てられ、歴代のお坊さんが教壇に立ちました。<br /> 古い写真を見ますと、慈恩寺の建築は純和風で、日本庭園も備えていたようです。遠く遥かな異国にあって、この場所は移民の方たちにとっての心のふるさとだったのでしょう。カサ・ブランカ耕地には立派な慰霊塔の建つ日本人墓地もあります。また、慈恩寺にはペルー全国の日本人墓地から集められた土が合祀されています。かつて「カニエテは移民の聖地」と呼ばれていたそうですが、まさにその聖地の中心が慈恩寺でしょう。<br /> お寺は二度の移転を経て、現在の場所にあります。今回、慈恩寺の略史を刻んだプレートを設置するに当たり、パドリーノの栄誉を賜りましたことに、心より御礼申し上げます。あいにく公務のため、プレートの除幕式には欠席しますが、これを機に南米の日系の皆様との絆をさらに深めることができますことに鳴謝申し上げます。<br /> 最後になりましたが、皆様が今後とも力と心を合わせ、この移民の聖地の中心である慈恩寺を永久に護持されんことを、冀うものであります。<br /><strong><br />平成19年11月3日<br />日本国 衆議院議員 麻生太郎</strong><br /><br /><br /><strong><a href="http://www.geocities.jp/tontocamata/">記事の墓場WEBサイト</a></strong><br />http://www.geocities.jp/tontocamata/huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-67521170189479003982007-11-30T00:42:00.000+09:002007-11-30T00:51:30.118+09:00(墓78)ペルーの呪術師を取材/呪いで死にかけた!<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgVWbnBOuNKs-91U359FOBDiQLe6Jxh4kXAp8QjZUoMDWQEUJgeGqxBmDkVfGjL45FeivbLKh2YhrZRnLnifONfns0ASMr0UuvAcBLSm52N9NY-bjudZkQzUFtd8PE1SOK3YlcN3X6g5n_L/s1600-h/%E5%BF%83%E9%9C%8A%E6%B2%BB%E7%99%827.jpg"><img style="float:left; margin:0 10px 10px 0;cursor:pointer; cursor:hand;" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgVWbnBOuNKs-91U359FOBDiQLe6Jxh4kXAp8QjZUoMDWQEUJgeGqxBmDkVfGjL45FeivbLKh2YhrZRnLnifONfns0ASMr0UuvAcBLSm52N9NY-bjudZkQzUFtd8PE1SOK3YlcN3X6g5n_L/s320/%E5%BF%83%E9%9C%8A%E6%B2%BB%E7%99%827.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5138290186304414738" /></a><br /><strong><br />取材・文・写真/太田宏人</strong><br /><br /><br /> ペルーには、クランデーロという土俗的な呪術系の治療師がいる。<br /> 胃の痛みや肩こりの治療はもちろん、失せ物探し、悪霊払い、依頼すれば呪殺までやってくれるそうだ。クランデーロというのは、(ペルーの国語の)スペイン語辞書には「もぐりの医者」などと出ているが、言葉の原意は「治療する者」。<br /> シャーマン的な能力を駆使して治療を行なうという彼らは、ペルーでは市民権を得ている。<br /> 私は数年、ペルーに住んでいたのだが、長女の夜泣きがひどいときに、妻(日系人)がクランデーロのところに長女を連れて行った。すると、「邪眼に見られたからだ」と診断したという。そして邪眼よけのミサンガを渡し、生卵に邪眼の霊障を乗り移らせる方法を教えてくれた。<br /> それは、生卵を赤ちゃんの顔の上で十字に動かすというものだった。<br /> 生卵は遠慮したが、ミサンガはつけさせた。ちなみに、行きつけの小児科の先生は、「泣いたらお風呂よ」と言っていた。<br /> ミサンガの効果かお風呂の効果か分からないが、多少は夜泣きは改善したのを覚えている。<br /> それはさておき、南米にはアフリカ系の土俗宗教が大なり小なり入りこみ、スペイン征服以前の宗教と混淆しているというわけだ。<br /> ペルーでもナンバー1、2というクランデーロが仮名・O氏だ。一見、ただのおっさんだが、彼は警察の捜査にも協力し、フジモリ元大統領側近の家の「かくし部屋」を透視したことでも知られる。警察官からの信頼は厚く、「強盗との銃撃戦で弾が外れるように」というお祓いの申し込みが殺到しているとか。<br /> 今回、O氏を取材した。日本のメディアは初めてだ。彼の家は、リマ市郊外にあった。<br /> 体験取材である。そこで、ペルーに住む日本人の女性3人と一緒に行った。彼女たちはペルー人と結婚している人たち。むろん、O氏には彼女たちの事情を一切教えていないのだが、タロット占いで、彼女たちと、それぞれのダンナやダンナの家族との関係、日本にいる家族のことまで言い当ててしまった。ただし、人名を的中できるのはペルー国籍者に限るようだった。<br /> 霊視はほとんどあたっていた。私も、過去に関係を持った女性や裏切った女性の風貌、人種・国籍まで全部当てられて、冷や汗が出た。そのときに聞いた予言も、だいたい外れていなかった。<br /> この霊障相談を撮影した。しかし多くの写真が真黒く感光していた。他の取材ではこんなことは、後にも先にもない。<br /><br /><br /><strong>悪霊落としとハト除霊</strong><br /><br /> 次は悪霊落としである。これは私が体験した。担当はO氏の息子とお仲間2名。真っ暗で薬草臭くて湿気がむんむんする部屋に通され、目隠しをされる。そして、いきなり流される大音量の音楽。3人の男たちが金属の棒で、やはり鉄か何かを叩きつけながら、私の周囲を狂ったように踊り始める。そして「出ていけ、この糞野郎!」とかなんとか叫びながら、私の頭のすぐ近くで鉄を叩きく。そして、口に含んだ薬草のエキス(?)をブーッと、部屋中に噴出するのだ。要するに、私の体内にいる「なにか」を体外へ追い出すということらしい。<br /> 悲しいかな、文明に毒された身。ただの苦痛な1時間でしかなかった。が、精神が健康なペルー人だと、トランス状態になるのかもしれない。<br /> そして次に、ハトを使った霊障除去が始まった。これも私が体験。なにかの呪文を唱えた息子氏はいきなり、生きた野鳩の胸を裂き、その裂け目を私の頭にこすり付けたのだ。<br /> べちゃ。<br /> 内臓物が、凄まじく臭う。それより、あふれる血もしくは内臓液、またはその両方が、顔面や首筋に垂れてくるのだが、それが温かいのだ。変な意味で「いのち」を実感する。<br /> 次第にシャツやズボンにも垂れてくる。何より、まだ動いている心臓の鼓動が頭皮に響くのが、なんともいえない感覚だ。<br />「おまえの惚れっぽさは、憑依している霊が原因だ。こうでもしなければ治らない。悪い霊をハトの体に沁みこませるのだ」と説明しながら、ぐいぐいとハトの体の開口部を私の頭部になすりつける息子氏。惚れっぽさは霊の仕業か? などと疑念も浮かんだが、切り裂かれた2羽のハトの犠牲に報いるためにも、ここは素直に治療を受けた。<br /> 2羽のハラワタをたっぷり頭皮になすりつけて、治療は完了。<br />「24時間、飯は食うな。酒も女もタバコも駄目だ。ハトの死体はおまえが川に向かって、後ろ手で投げ捨てろ。さもなくば、呪われるぞ」と、息子氏に命じられた。<br /> ところが、宿舎に戻る途中、悲しいかな川がなかった。仕方なく海に捨てたのだが…。<br /> 数日後、リマの中心地で突然、私の乗っていたタクシーを挟んで警官と強盗団の銃撃が始まった。窓ガラスはすべて吹き飛び、車体は穴ぼこだらけ。奇跡的にケガはなかったが、これが「呪い」なのだろうか。惚れっぽさも、変化なし。やはり、ハトの死骸を海に捨てたからか。<br /> かわいそうなのは、巻き添えを食らったタクシーの運ちゃんかもしれない。<br /><br /><strong> <写真>面倒くさそうな表情の呪術師(息子のほう)</strong><br />ミリオン出版「ワールドストリートニュース」(2007)掲載huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-34039195852708264432007-09-07T23:59:00.000+09:002007-09-08T16:55:23.309+09:00(墓77)2003年春、SARS流行期。香港へ行った.<br /><strong>自殺? そんなわけがあるはずない</strong><br /><br /> 五月二二日から二四日まで香港および澳門(マカオ)へ、取材に行った。<br /> 「香港へ行く」ということを、「自殺行為」と捉えた知人も、周囲には何人かいた。滞在期間中の二三日には、世界保健機構(WHO)が香港(および広東省)に対する「渡航延期勧告」を解除したが、日本では現在でも「香港へ行く」ことは、危険行為とみなされている。<br /> だが実際には、香港の人々は日常の生活を送っていた。患者からの飛沫感染対策で、地下鉄内やバスの車内、駅など、混雑もしくは密閉された公共スペースではマスクをつける人が多かった。しかし、つけてない人もいた。なお、日本~香港への往復はノースウエスト航空だったが、乗務員はマスクをしていなかった。<br /> マスクをつける/つけないという泡沫的議論はともかく、香港は活きていた。通常どおりに子どもは生まれ、老いた者は死んでいった。人々は働き、経済は動いていた。<br /> 夕刻、次のインタビューまでに時間があまり、澳門行きのフェリー埠頭の隅で、船の出入りや釣り糸を垂れる人たちを見ていた。後ろのベンチでは若い二人の中学生の男女がじゃれあっていた。放心したように海を見ている人たちもたくさんいた。本を読んでいるサラリーマンもいた。むろん、感染経路が明瞭に判明され、患者との濃密な接触や飛沫感染を防げば、日常生活には支障はない病気だという認識が香港において広まりつつある時期でもあった。<br /> たしかに、未知の伝染病は原始的で本能的な恐怖を我々に与えるとはいえ、SARSアウトブレイク(爆発的な感染拡大)の張本人はウイルスそのものではない。マスコミだ。“感染地帯”の人々がマスクを着用した写真が配信されれば、「あそこの人たちは皆、マスク着用か」と思いがちだ。絵になる写真ばかりを報道したマスコミに非がある。「地下鉄からは人が消えた」などの一般的ではない特殊な事例を強調し、いたずらに恐怖を煽ったのは、だれか。そして、それを鵜呑みにしたのは、だれか。<br /><br /><br /><strong>在外公館、ここでも不評? SARSで露呈、香港総領事館の機能不全</strong><br /><br /> 重症急性呼吸器症候群(新型肺炎/SARS)が集団発生した香港で、在住の日本人(在港邦人)たちは、在香港日本国総領事館に対する不信を強めている。<br /> その原因は、SARS騒動への総領事館の対応の不味さだ。たとえば四月の上旬、外務省福利厚生室の医務環が香港に臨時で出張し、「個別相談」を行うことになった。が、案内が直前になったうえ、「広報が徹底していなかった」(在港邦人)。しかも当初は、「御相談を希望される方が多い場合は、お断りすることがあります」(在香港総領事館のホームページより)という不誠実なものだった。<br /> さらに、SARSに関する説明会の開催が四月九日に急遽決定したものの、会場は一〇〇人程度しか収容できない香港日本人倶楽部「松の間」だった(在港邦人は約二万人)。さらに「座席数が限られておりますので、希望者多数の場合には、入場を制限させて頂くこともあります」(同上ホームページ)という、あいかわらずの“切り捨て”姿勢が目立つ。はじめからこんなスタンスなので、当然、広報も行き届いていない。当日集まったのは、領事館のホームページを見た人だけが中心。それでも数百人が集まった。会場に収容できない。そこで、説明会を計四回に増やした。当初は、午前と午后に一回ずつだった。<br /><br /> 当日の医務官の説明も「推測に基づく発言ばかりで、かえって不安になった」(参加者)というもの。さらに、会場の選択ミスは領事館の責任であるはずなのに、説明会の担当者は、最終回において参加者を前に「私はもう、同じことを三回も喋っている。疲れてます」などと暴言を吐いている。<br />「総領事館は、これまでも広報が不得手だった。在港邦人全体への連絡体制も確立させていないし、する気もないようだ」と、香港在住一三年目の男性が憤慨する。今回のような“非常時”でも、日曜日は完全休館という下駄の高さ。これでは紛争やテロ、大規模災害などが香港で発生しても、邦人の安否確認など望めない。<br /> これは、香港だけのケースなのだろうか。<br /><strong>(2003年に書いた記事。某誌にて不採用、某誌にて採用)</strong><br /><br />追記。<br />香港の邦系企業の駐在員の家族は、今秋のSARS流行をうけて、<br />いっせいに日本へ帰国したが、<br />一時保育などでは、「香港帰り」の子どもの預かりを拒否する<br />保育園もあった。<br />実際わたし自身、自分の子どもが通う保育園では、<br />送り迎えのときに「香港行ってました」とは<br />言えない雰囲気だった。huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-16668098194086227552007-09-04T10:48:00.000+09:002007-09-06T09:46:47.399+09:00(墓76)鬼木市次郎さん、死去ブラジルに鍼灸マッサージ学校設立の功労者<br />両親はペルー移民<br /><br /><br /> 鍼灸マッサージ師で教育家、事業家でもあった鬼木市次郎さんが3月26日、療養先の福岡県柳川市で死去。94歳だった。死因は老衰。密葬を済ませ、葬儀はブラジルで行なわれる予定。<br /> 鬼木さんは両親がペルー移民。父親(伝次郎)の墓はリマ市のエル・アンヘル墓地に、母親(カメ)の墓はリマ市北方のサン・ニコラス墓地にそれぞれある。<br /> 鬼木さんの両親は鬼木さんを残してペルーで働いた。いつかは鬼木さんを呼ぶつもりであったが、果たせずしてペルーで亡くなった。<br /> 鬼木さんは福岡で育ったが、小学生のときに視力が0・03まで低下。1932(昭和7)年、柳川盲学校を卒業。その後、中国大陸で鍼灸マッサージで成功するも、敗戦により、妻子と裸一貫で帰国。鍼灸マッサージの治療院やレジャー施設を経営し、東京に学校法人鬼木医療学園・国際鍼灸専門学校を建設。<br /> 1973(昭和48)年には父母の眠るペルーを初めて訪問。感激の墓参を果たしたほか、鍼灸マッサージの無料治療を行い、好評を博した。<br /> 鬼木さんの胸中には次第に「南米の視覚障害者に自活の道を与えたい。それには鍼灸マッサージの学校をつくる」という夢が膨らんでいった。<br /> 1990年、ブラジルのサンパウロに鬼木東洋医学専門学校を設立。盲人教育に貢献するとともに、ブラジルでの東洋医学の普及に大きな役割を果たしている。同校には診療所も併設され、地域住民らに好評。<br /> 近年、鬼木さんは体調を崩し、生まれ故郷の柳川に帰国。療養中だった。(太田宏人)<br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/oniki.JPG target=_blank><font color=blue>【写真】</font></a>サンパウロ市の鬼木学校・診療所<br />サンパウロ新聞等に投稿<br />--------------------------------------------<br /><font color=blue size=2><a href=#tag><b>このページの先頭へ</b></a></font><br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/><B>記事の墓場HP</B><font color=blue size=2><br />(メインページへ飛びます)</font></a>huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-29351873671689850382007-09-04T10:47:00.001+09:002007-09-06T00:44:37.686+09:00(墓75)深澤要と鳴子温泉.<br />.<br /> 戦前の童話作家で詩人・版画家の深澤要(ふかざわ・かなめ1904~57)は、本業よりもむしろ、こけしの研究にのめり込み、その蒐集に没頭した。<br /> 彼は600余点のこけしコレクションを、のちに鳴子町(宮城県)へ寄贈。これをもとに鳴子温泉の近くに「日本こけし館」が開館した。<br /> 深澤はこけしを求め、兵庫県西宮の住まいをあとに、まるで巡礼者のように東北への旅を続けた。彼の歌には寂しさと貧苦がにじむ。<br />「空晴れて山さむざむと雪のこり炭焼小屋に煙りは立ちぬ」(昭和15年、福島県・小原温泉)<br />「みちのくは遥かなれども夢にまでこころの山路こころのこけし」(遺作『奥羽余話』)<br /> 鳴子および遠刈田(宮城県)、土湯(福島県)はこけし発祥の地とされる。だからこそ深澤は、鳴子への寄贈をおこなったのだが、実はこれらの土地は、古くから湯治客で賑わった温泉地である。民俗学の宮本常一はじめ多くの学者によれば、こけしは湯治土産であったらしい。<br /> 深澤要のこけしを求める旅は、同時に温泉を訪れる旅路でもあった。<br />(あるムック本に書いた原稿)<br /> <font color=blue size=2><a href=#tag><b>このページの先頭へ</b></a></font><br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/><B>記事の墓場HP</B><font color=blue size=2><br />(メインページへ飛びます)</font></a>huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-60478049633717419372007-09-04T10:42:00.000+09:002007-09-06T00:43:51.479+09:00(墓74)南米最古の神社/東京植民地神宮の夢<b>南米最古の神社/東京植民地神宮の夢<br />ペルー新報 元日本語編集長・太田宏人(神道学専攻)</b><br /><br /><FONT FACE=HGPゴシックE SIZE=3><FONT COLOR=gray><br /> ブラジルに東京植民地神宮という神社があった。<br /> この神社の名前はブラジルの移民史において頻繁に語られることはない。忘れ去られた神社であるが、南米大陸最古の神社である。<br /> 海外神社論の大家として知られる小笠原省三が書いた『海外の神社』(昭和8年)によれば、かつてブラジルにはサンパウロ州内に「ボーグレ神社」と「東京植民地神宮」が鎮座していたという。<br /> ボーグレは、先住民「ブーグレ」族のことであろう。所在地は第一上塚植民地(プロミッソン)。一方の東京植民地神宮は、その名の通り東京植民地(モツーカ)にあった。<br /> 同書ではボーグレ神社をブラジル最古の社とするが、実際は違う。上塚植民地は大正7(1918)年、東京植民地は同4(1915)年の建設。同書によれば、二つの神社は、それぞれの植民地が開かれたのと同時期に創設されたというので、東京植民地神宮のほうが早い。南米の他の国に神社は存在しなかったので、同神宮が南米最古であろう。<br /> 小笠原は昭和3(1928)年に渡伯し、実際に両社へ参拝している。しかも現役の神主であり神道学者だ。そのため、建物や鳥居の形状等の記述は精確で、信用に値する。<br /><b>◎……◎……◎</b><br /> 本年2月、東京植民地の跡地を訪れた。<br /> サンパウロ市からアララクアラ市までは長距離バスで約4時間。同市に住む馬場實子(じつこ)さんを訪ねる。東京植民地の指導者だつた馬場直(すなお)の長男で故・馬場謙介氏の夫人だ。謙介さんは東京植民地生まれ。戦前に日本で教育を受けた。日本の敗戦後、日本にいたブラジル出身者を帰伯させるために奔走したことで知られる。また、日本軍兵士として戦場へ赴き、戦死したブラジル二世たちの足跡を追ったほか、自身も朝鮮戦争では従軍記者として活躍した。ブラジル帰国後はサンパウロ新聞アララクアラ通信員として記者魂を感じさせる名文を多く発表したことは、読者のよく知るところだろう。<br /> 謙介さん亡き現在、實子さんは日本語教師をしているとのこと。<br /> 東京植民地神宮について質問すると、<br />「神社はよく知りません。東京植民地の出身者に訊くと、それらしいものが小学校の校庭の片隅にあったそうです」<br /> 残念ながら、社殿などの写真は持っていないという。しかし、實子さんから東京植民地や指導者であった馬場直について、他では聞くことのできない貴重な話を伺うことができた。<br /> 同地は、「日本人による日本人のための」初の植民地だった。平野植民地よりも早かった。<br /> 馬場直は長崎県南高来郡出身で大正3(1914)年に渡航。ブラジル人地主の下でなかば農奴のように扱われる日本人の境遇を憂い、自ら植民地経営に乗り出すことを決意。同志の15家族とともにパウリスタ線モツーカ停車場の近くに土地を求め、「東京植民地」と命名、コーヒー等を生産した。<br /> 馬場の理想は「半永久的な農業王国」の建設だった。植民地の中心に、伊勢の御神霊を祀る大神宮を設置したのも、馬場が永続的な「日本人村」の理念を持っていたためであろう。先に紹介した小笠原の資料によれば、馬場はキリスト教徒だった。だが、戦前のキリスト者は現在と違い、国を愛し、皇室を敬い、寺社を大切にした。馬場が神社を創建しても不思議はない(實子さんによれば、馬場は「一番嫌いなものは神父と僧侶」と公言していたそうだが)。<br /> 一方、その後、ブラジル各地に出現した日本人植民地で社寺が建設されることはなかった。代わりに日本人小学校(兼集会場)の御真影が御神体の機能を果たした。この点、東京植民地神宮は異色だ。<br /> 東京植民地神宮とはどんな神社であったのか。前掲書を引用しよう。<br />「始め周囲に木柵を巡らした純日本風の小社殿を建築したが、(中略)今では周囲一坪ばかりの煉瓦建の堅固な建物の中に小さな住吉造りの社殿を安置し、鳥居を建て、玉垣を巡らし、玉垣の内には美しい砂利を敷いている。(中略)縄を張った鳥居(中略)、社殿には紫のメリンスの幕が巡らされてあった。年に四回神社の祭典を執行する。神職は小学校長を兼務せる生駒氏、生国の伊勢で二ケ年間神職と小学教員を奉仕せる人」<br /> 植民地建設の当初から、移民はマラリアで斃れた。初年度だけで8名の家長が死んだ。最初の入植戸数の半数である。馬場の娘も死んだ。<br /> 前掲書は、神社創建によってマラリアの猛威が低減したと強調する。しかし実際は、犠牲は続いた。同植民地への入植者数は延べ約1500人だったが、死亡者は約300にものぼる。<br /> それでも同植民地は発展を続けた。歴代の総領事が視察に訪れ、戦前は「模範植民地」と呼ばれた。<br /> 昭和5(1930)年前後が同植民地の最盛期だった。それを境に、植民地から人が減っていった。<br /> 焼畑に依存する当時の開拓農法は、30年ほどで地力を奪い尽くした。移民たちは、そうした耕地に見切りをつけ、次なる開拓地へと進出した。こういった植民地に「村の鎮守」が建設されなかったのは、移民の漂泊性が影響しているのだろう。<br /> 東京植民地神宮も終焉の時を迎えようとしていた。同地出身者によれば、6月にはミヤマツリと称する奉納相撲が大々的に行なわれていたが、人が減り、祭典も消滅した。<br /> 終戦時には30家族しか残っていなかった。<br /> 昭和21(1946)年、馬場一家は東京植民地からの退去を余儀なくされた。皮肉なことに、日本人による農業王国の建設という理念を燃やして耕地に残留したほとんどの者たちは「勝ち組」だった。一方、理性的な馬場は認識派であった。また、謙介さんの弟の道雄さんの岳父は、勝ち組の凶弾に倒れた野村忠三郎だった。<br /> 馬場家は連日、文字通りの石打ちの被害を蒙り、屋根には穴があいてしまった。<br /> 馬場直はのちにサンパウロに移り、昭和48(1973)年に逝去した。遺産はなかった。<br /><b>◎……◎……◎</b><br /> 馬場實子さん、同地出身の外間(オカマ)エレノアさんの案内で、アララクアラ市からタクシーでモツーカへ向かう。<br /> 多くの人に「現在は植民地のよすがを感じさせる物は何もない。行くだけ無駄」と忠告されたが、その土地を自分の足で歩き、その空気を肺に吸い込んでみなければ判らないことの方が多い。<br /> 驟雨のなか、現地に到着。たしかにかつての植民地は、一面のサトウキビ畑に変わり果てていた。神宮はいうに及ばず、小学校も移民の家も、何も残っていない。<br /> だが、移民たちが死力を尽くして格闘したテーラ・ロッシャは往時のままだ。子供等が泳いだという小川も、昔日の流れを留めていた。<br /> 民家が一軒だけ、見えた。尋ねてみたが、留守のようであった。<br /> 建物を見ていると突然、「あのバルコニーは、昔のままです」とエレノアさんがいう。實子さんによれば、そこはエレノアさんの生家の場所とのこと。<br /> 庭先で柿の樹を発見した。柿は、日本人がこの大陸に広めた。<br /> ここに、日本人の生活があった。<br /> この場所で人が生き、そして死んだ。<br /> その中心に、南米最古の神社があったのだ。(おわり)<br /><font size=2><br />※ 本取材にあたり、ブラジル日本移民史料館の小笠原公衛氏には大変お世話になりました。心より感謝します。</font></font><b><br />「サンパウロ新聞」2007年3月28日、29日掲載<br /><br />…二礼二拍手一礼(忍び手)</b></font><br /><br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/toukyou.JPG target=_blank><font color=blue>【写真】「ミヤマツリ」と称された奉納相撲(撮影年不明)。行司は馬場直か(サンパウロ市・清水ホーザさん提供)</font></a><br />--------------------------------------------<br /><font color=blue size=2><a href=#tag><b>このページの先頭へ</b></a></font><br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/><B>記事の墓場HP</B><font color=blue size=2><br />(メインページへ飛びます)</font></a>huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-53096588342752746032007-09-04T10:37:00.000+09:002007-09-06T00:43:12.722+09:00(墓73)パドレ・マルティネスの葬儀ミサ(個人的な回想).<br />.<br /><i><b><font color=green size=4>忠実なよい僕だ<br />よくやった<br />主人と一緒に喜んでください<br />(マタイ25-21)<br />“Siervo bueno y fiel entra en el gozo de tu Señor”<br />(Mat.25-21)</i></b></font><font color=gray size=2><br />.<br />.<br /><br /> 2007年3月10日、JRの四谷駅の階段を上ると、一点の曇りもない快晴だった。<br /> パドレ・マルティネスに、しばしの別れをするために、聖イグナチオ教会のマリア聖堂へ向かう。この日は、雑誌「SOGI」の取材で訪れた。在日のラテン系コミュニティー関係のスペイン語メディア以外は、彼の葬儀も生涯も取り上げてはくれないだろう。だが、パドレ・マルティネスという存在は、日系ペルー人の歴史を語る上で、欠くことのできないものであると思う。たとえそれが、良きイエズス会司祭の「平凡な」生涯だったとしても。<br /> そして僕は、書くことでしか、彼に応えられないのだから。<br /> そういう意味でも、雑誌「SOGI」の存在は、ありがたい(雑誌「SOGI」のライターとして言えば、カトリックの葬儀は、かなり好きだ)。<br /> 施行する葬儀社との約束の時間は、開式の1時間前の午前9時30分だった。<br /> 少し早くついたので、大聖堂の土曜ミサを拝見する。改修が済んだ教会は、全体的に簡素で都会的な造りになっていて、なにかますますプロテスタントの教会ように見えてしまう。<br /> 時間になったので、カメラマンの関戸さんと合流し、マリア聖堂へ。祭壇等の写真撮影を行なう。柩がない。聞けば、目下、火葬中とのこと。つまり、事情があってこの日の朝早くに火葬にしてから、会場に遺骨を運ぶというのだ。<br /> 骨葬にした理由は、宗教的もしくはパドレの出身地の慣習等によるものではなく、早く火葬にしなければならない極めて個別的な理由があったためだ。<br /> 前日、「葬儀ミサは骨葬だよ」と聞いていたが、こういうことかと理解した。<br /> 在東京ペルー総領事館の供花のネームカードがスペイン語だった。施行社の人に「芳名板に日本語で書きたいが、どう書けばいいのですか?」と質問されたので、手伝う。<br /> 式前には、パドレと親しかったエルマーノ(修道士)・エルナンデス(スペイン出身)と、パドレ・マルティネスの僚友で、日本での国際布教の先頭に立つパドレ・マギーナ(ペルー出身)に、パドレ・マルティネスについての質問ができたのは幸いだった。むろん、二人とも日本語は完璧。こちらからは、スペイン語で話しかけた(礼儀だろう)。<br /> しかし、やはりカトリック教会はすごい。日本の「内なる国際化」にきちんと対応している。デカセギ労働者を排除しない。日本のほとんどの宗教団体(とくに伝統教団)は、未だに「国際布教」は海外へ、という認識しか持っていない。日本国内でいえば、ホワイトカラーのみだ。明らかな偏見。人種差別。<br /> 思えば、伝統教団に憤慨して、よく、パドレ・マルティネスに意見をぶつけたものだ。そういうときのパドレは、巌(いわお)のように動ぜず、しかし、晴れた日の森のように穏やかな笑顔をたたえて、<br />「カトリックのカミサマは、富士山と一緒ですよ」と、変化球で諭してくれた。<br />議論が突っ込んだものになると、位牌論・仏教経典論などで盛り上がった。「仏陀の名前を連呼するだけのお経に、どんな意味があるのですか?」<br /> 家庭のことについても、よく話をした。多くの日系ペルー人の家庭同様、うちも結婚式ではパドレにお世話になり、二人の子どもの洗礼もしてもらった(上の子はペルーで。下の子は日本で)。<br /> 忘れえぬ先生だった。<br /><br /> 開式の少し前に、遺骨が到着した。<br /> そして、開式。<br /><br />「ヒロヒト。私のね、横顔はあんまり写さないでくださいよ」と冗談交じりにパドレが言っていたことを、なんとなく思い出す。<br />「上智で教えていたとき、学生が『花王』って言うんですよ」<br /> アゴが長いから、とのこと。<br /> 目が滲む。<br />*      *      *<br /> 式では白い祭服を着用した20人を超えるイエズス会司祭が列席し、「素晴らしい同志を世に送り出してくれた神に感謝を捧げた」…と、カトリック風に書けばこういうことになるのだが、こちらはただ、「悲しい」の一言。<br /> 涙が止まらなくなり、声を押し殺して聖堂の隅で突っ立っていると、葬儀社の方(この方も、立派なキリスト者だった)が、「聖体拝領しなよ!」と誘ってくださる。<br /><br /> この葬儀社は、まったく宣伝をしないし、いずれかの神父の紹介でなければ葬儀を受けないという。キリスト者の帰天に心を込めて奉仕したいから。<br /><br /> 聖体拝領のために、祭壇に近づく。語りかけるような頬笑みの遺影をあたらめて、…見ようとしたが、焦点が合わない。作法も何もなく、聖体拝領し、せんべいを噛み砕く。しょっぱい。<br /><br /> 告別式でロヨラ・ハウスのリベラ館長が挨拶した。<br />「ルーチョ(ルイス・マルティネスの愛称)の人生は、旅でした。スペイン時代も数多くの土地で仕事をし、日本、ペルー、そして日本と。しかし、その旅は、自分で決めた旅ではありませんでした。でもルーチョは、言われれば、どこへでも喜んで出かけました。<br /> そして最期にたった一つだけ、自分で決めた旅をしました。それは、帰天です」<br /><br /> パドレ・マルティネスは昨年12月26日に入院し、その後、一時退院。3月7日に再入院が決まっていたという。その日の朝、自分のベッドで逝去した。再入院を、嫌がっていたという。<br />*      *      *<br /> 私は、カトリックの洗礼を受けていないし、カトリック教会にそれほど親しみを感じていない。そんなことは百も承知で接してくださったパドレ・マルティネス。<br />「日系ペルー人に対するカトリックの布教史を調べて、何かの形で発表しましょう」という二人の約束を、私は決して忘れません。ただし、その布教史の1ページに、あなたの人生を過去形で書かねばらないことが、とても悲しい。<br /><br />「ヒロヒト、疲れたときはね、コカ(コーラ)ですよ。びんびんになりますよ」<br /><br /> ルイス=サンティアゴ・マルティネス=ドゥエニョス先生、<br /> どうぞ、これからも見守っていてください。</font><br />--------------------------------------------<br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/misa1.JPG target=_blank><font color=blue>写真:葬儀ミサの風景</font></a><br />--------------------------------------------<br /><font color=blue size=2><a href=#tag><b>このページの先頭へ</b></a></font><br /><br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/><B>記事の墓場HP</B><font color=blue size=2><br />(メインページへ飛びます)</font></a>huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-50668835666156748822007-09-04T10:34:00.000+09:002007-09-06T00:42:58.998+09:00(墓72)パドレ・マルティネス帰天(77歳).<br />.<br /><font size=3 color=gray> <strong>日系ペルー人に対するカトリック布教に多大な貢献をしたルイス・マルティネス神父(パドレ・マルティネス)が日本時間の3月7日午前5時30分、心不全のため宿泊先のイエズス会・ロヨラ・ハウス(東京都練馬区)で帰天した。77歳、イエズス会生活は60年6か月だった。<br /> 通夜は3月9日(金)午後5時からロヨラ・ハウス、葬儀ミサ・告別式は翌10日(土)午前10時30分から東京四谷の聖イグナチオ教会マリア聖堂で執り行われる。<br /> 連絡先はイエズス会日本管区(電話:03-3262-0282)。<br /> パドレ・マルティネスはスペイン生まれ。戦後のカトリック教会の日本布教を担うため1953年に日本へ赴任。上智大学で教鞭を執った。その経験から日本語が堪能だった。その語学力(スペイン語・日本語)を評価されて、1964年にペルーへ赴任。セントロのサン・ペドロ教会に執務室を構え、日系人のasesor espiritual(心の助言者)として35年間の長きにわたって活躍した。数多くの結婚式や洗礼を行なったほか、カトリカ大学でも講義を行った。また、パドレ・マルティネスの代表的な著作である日西辞典は、いまも多大な好評を博している。<br /> 「いまや、数万人のペルー人が日本にいる。彼らの役に立ちたい」と、2000年以降は再び日本での布教生活に尽力。群馬県や栃木県など、ペルー人が多く住む場所へ精力的に出かけるほか、電話やe-mailによる相談も受けていた。一時期、パドレ・マルティネスの事務室のあった上智大学や、宿泊先のロヨラ・ハウス(イエズス会修道士の老人施設)には、訪問客が絶えることがなかった。また、WEBページでの教話も行い、教話をまとめた著作集(スペイン語)も一年に一冊以上のペースで出版した。<br /> パドレ・マルティネスの御霊に安らぎあれ。</strong></font><br />--------------------------------------------<br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/Ogawa12.jpg target=_blank><font color=blue>写真①パドレ・マルティネス(1968年/左側は旧リマ日校の小川長男先生)</font></a><br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/padre5.JPG target=_blank><font color=blue>写真②晩年のパドレ・マルティネス(2000年/上智大学で)</font></a><br />--------------------------------------------<br /><font color=blue size=2><a href=#tag><b>このページの先頭へ</b></a></font><br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/><B>記事の墓場HP</B><font color=blue size=2><br />(メインページへ飛びます)</font></a>huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-43522949798785989422007-09-04T10:29:00.000+09:002007-09-06T00:49:14.344+09:00(墓71)「人間性を持たない研究開発が、人間に益することはない」<strong>「人間性を持たない研究開発が、人間に益することはない」<br />~産総研35億円事件の取材メモ~<br />ライター・太田宏人</strong><br /><br /><br />(2006年)9月22日発売の「週刊金曜日」に、産業技術総合研究所(産総研)のつくばセンター第6事業所を舞台にした35億円事件を告発する記事を書きました。勇気ある内部告発がなければ、この事件は表面化さえしませんでした。事件のあらましと、取材をしながら考えたことを書いてみたいと思います。<br /><br /><br /><font color=red><b><br />●児戯もしくは悪質な冗談?</font></b><br /><br /> 記事の内容は、①第6事業所で35億円にものぼる公金が無駄遣いされていること。②実験動物の管理が、あまりにもずさんである―という2点です。<br /> 35億円とは、膨大な金額です。いったいどんな無駄遣いかというと、「実験施設(6-13棟)を作ったら、まったく使えないシロモノだったので、産総研ではなく、外部の施設を有料で借りた。外部だと何かと不都合なので、今度は、産総研内の使えない施設を改修して、使えるようにします」という顛末です。35億円のうち、幾ばくかでも私的に流用された証拠があれば刑事告発も可能でしょうが、誰も責任をとらず、このような児戯にも等しい愚行が、現在も続けられているのです。<br /> ②に関しては、産総研の第6事業所におけるカルタヘナ法(*)違反は、政府も認めています。<br /> 産総研35億事件を告発したのは、第6事業所で実験動物と施設のメンテナンスを行なっていたアニマルサポート社(岩崎啓吾社長)です。同社は2004年にも、東京理科大学の実験棟(千葉県野田市)の実態を内部告発しています。そのさい岩崎啓吾さんに取材し、原稿を書きました。以下、その一部を抜粋します。<br /><br /> <b>理科大の実験施設の実態は「驚愕」そのもの。動物はマウスを使っていたが、普通は数匹しか入れてはいけないケージに、雄雌を入れっ放しにするので、勝手に繁殖し、それをさらに放置するため、最終的には何十匹にもなってスシヅメ状態で共食い。こうなると、岩崎さんらが、尻尾を引っ張って頚椎を脱臼させて殺したり、死に至る量の麻酔を投与したり、場合によっては首を鋏で切るなどの「処分」をする。もちろん、こうならないようにするのは研究者の義務だが、彼らはそんなことには関心がない。研究者が少し気をつけていれば、無駄な間引きを防げるはずなのに。<br /> これが、普通の現場だ。生命倫理的にもおかしいが、もっと変なのは、「実験施設内で勝手に繁殖する」ということ。こうなると、個体を特定できない。遺伝系統は不明になってしまうのだ。そしてそんなマウスが、さも遺伝系統が分かっているかのようなIDをつけられて論文に書かれる実態に、岩崎さんたちは憤った。<br /> さらに「可哀想だから」(可愛いから?)という理由で、若い研究者や学生が、遺伝子改変マウスを自宅に持ち帰ったりしていたそうだ。実験施設の外を徘徊するマウスを、近所の住民が目撃したこともある。バイオハザードという言葉を、この子たちは理解していないのだ。<br /> 「これで『科学』が成立するわけがない。なんのための実験なのか?」と岩崎さん。税金を、外部のチェックも受けずに湯水の如く使えるような環境にいると、感覚が麻痺して、小学生でも分かるような善悪の判断さえできなくなるのだろう。幼稚だ。日本の科学のベースにも「幼児性」がはびこっている。(漫画実話ナックルズ/2005年12月掲載原稿を一部修正)<br /></b><br /><font sidze=4 color=red><b><br />●市民が検証できない科学行政</font></b><br /><br /> もしもあなたの住んでいる場所の自治体で、1000万円の無駄遣いが発覚したとします。「市役所の倉庫を作った。しかし、雨漏りが激しいので、民間倉庫を借りたものの、やはり不都合があるので、市役所の(使えない)倉庫の屋根を改修する」というようなケースを想定しましょう。1000万円というのは、産総研35億円事件に比較すれば、「わずか」350分の1の金額です。しかし、大問題になります。市長の対応の仕方によっては、リコール請求されることもあるでしょう。<br /> 1000万円といわず100万円でもいいでしょうが、とにかく、自治体ではここまで住民の監視ができます。しかし国が管轄する科学行政の内部は、本当にダークゾーンです。軍隊に対するシビリアン・コントロールという言葉がありますが、この言葉は、いまは自衛隊だけではなく、科学行政にも適応されるべきでしょう。<br /> よく、「タダ酒(誰かのおごり)は何杯でも飲める」などと言います。自分の懐がダイレクトに痛まない出費に対して、財布の紐は緩みがちになるものでしょうか。産総研事件にも、どうも同じ臭いがします。科学の「先端」を担う学者たちこそ高潔な人間性を有して欲しいものですが、現実は理想とは反しています。<br /> 彼らの人間性の低さについて、岩崎さんもたびたび指摘しています。私も、取材にあたって痛感しました。たとえば取材に対して、やたらと専門用語を並べ立て、しかも回りくどい答え方をすることです。科学者とは思えない理路「不」整然です。公金を使っている以上、自分達の行動について国民に説明する義務が確実にあります。それをせずに「一般人を見下した物言い」(岩崎さん)をするのですから、何かが狂っています。<br /><font sidze=4 color=red><b><br />●科学者の危険な人間性</font></b><br /><br /> 産総研35億円事件について、参議院の谷博之氏が国会の質問主意書で取り上げ、国が回答しています(AVA-netの120号参照)。これに基づき、文部科学省が今年9月8日に発表した報道資料があります。要点は、産総研ではカルタヘナ法違反があったが、不適切な措置は是正した、というものです。「不適切な措置」とは、<br /><font sidze=4 color=red><b><br />① 拡散防止措置をとらずに遺伝子組み換え(TG)マウスを飼育していた(ただし、動物は逃げなかった)。<br />② TG動物の飼育施設ではカルタヘナ法によって、その旨表示する義務があるが、されていなかった。</font></b><br /><br /> ここで大きな問題になるのは、「逃げていない」ことの信憑性の低さです。産総研でも理科大と同じようにずさんな飼育をしているため、まさにネズミ算式にマススが繁殖しています。ケージは小さいので、個体の上に乗ることによって、別の個体が簡単に脱走できます。アニマルサポート社の元スタッフの手記によれば、ケージの給水瓶を入れない研究者がいるため(つまり、マウスは水さえ与えられない)、その穴から脱走していたそうです。しかもアニマルサポート社のスタッフが、脱走したマウスを捕まえて研究者に抗議すると、「お前たちが管理しないからだ」と叱責されるのが常でした。挙句の果てに研究者の私用まで押し付けられる始末。<br /> 文科省のリリースにある「拡散防止措置」とは、実験室のドアの下部に、鉄板を立てることなどを言います。それが設置されていない部屋がいくつもあったわけです。アニマルサポート社がかろうじて捕まえた(つまり、逃げていた)マウスのほかに、建物外に逃げた個体がいても、おかしくはない状況です。「実際には逃げていない」と言いますが、ネズミ算式に増えてアニマルサポート社のスタッフが仕方なく処分していた状態で、逃げていないことを物理的に確認できるのでしょうか。敷地内の野外で白いネズミを見た、という情報もあるほどです。まったくの詭弁です。<br /> このリリースの中に、驚くべき一文があります。「清掃等を行なう管理業者が遺伝子組換え生物等の使用者であるという認識が(研究者に)なかった」。<br /> アニマルサポート社の吉村さんは「『掃除屋がそんなことを知る必要はない』という意味でしょう」と解説する。彼らには実験動物の情報を伝えなくてもいいというのが、少なくとも産総研での「常識」のようです。<br /> 今回のリリースでは、琉球大学でも「許可を受けずに遺伝子組換えHIVウイルスを使用した」と報じられています。清掃業者には、やはり教えられていなかったのでしょうか。実験施設や器具の清掃管理、実験の終わった動物の遺骸の処理も、“間引き”も清掃業者の手で行なわれます。しかも産総研の第6事業所では、規定数以上に動物がいるため、糞や床材、死骸が多すぎて、廃棄物が膨大な量になります。すると、冷凍式ゴミ箱に廃棄物が収まりきらず、ゴミ箱の上に、黒のポリ袋が山積みにされていたのです。むろん常温です。<br /> 清掃業者は、必要な情報も与えられず、リスクの高い生物汚染の最前線に立たされています。<br /> 人を人と思わない研究の現場。人間の尊厳さえ認めないこのような場所で動物実験の3R(数削減、苦痛軽減、代替)は期待できません。<br /> 彼らの高尚な研究開発は、本来は人間を幸福にするためのものです。だからこそ公金を使うことが許されるのです。しかし、その実態は公共の利益になど結びついていないのではないでしょうか。逆に、公金を無駄に浪費し、バイオハザードの危険さえ撒き散らしている。何よりも、現場には人間性が欠如しています。このような研究開発が、本当に人間を幸せにできるのでしょうか。<br /> <br /> <font size=2><br />(*)カルタヘナ法…遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律。生物多様性の確保を目的とするカルタヘナ議定書の発効にともない、議定書の実施を目的として制定された法律(2004年2月19日施行)。</font><br /><br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/S13.JPG target=_blank><font color=blue>【写真]産総研第6事業所</font></a><br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/gomibako.JPG target=_blank><font color=blue>【写真】冷凍ゴミ箱に入りきらず、その辺に置かれている実験動物の死骸その他の廃棄物(ビニール入り)</font></a><br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/DH000022.JPG target=_blank><font color=blue>【写真】ギュウギュウ詰めのマウスたち(産総研@つくば)</font></a><br /><br /><a href=http://www.ava-net.net/ target=_blank><font color=blue>AVA-net</a></font>:121号(2006年11月号掲載)<br />--------------------------------------------<br /><font color=blue size=2><a href=#tag><b>このページの先頭へ</b></a></font><br /><br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/><B>記事の墓場HP</B><font color=blue size=2><br />(メインページへ飛びます)</font></a>huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]tag:blogger.com,1999:blog-7447284482713639725.post-51227551129208605842007-09-04T10:27:00.000+09:002007-09-06T00:45:32.555+09:00(墓70)治安が悪いけど安い!ペルーへ行こう!!<font saize=4>治安が悪いけど安い!ペルーへ行こう!!<br />■人質事件を解決するために沖縄から神がペルーに来た!<br />ルポ&写真/土崎英穂(ペルー在住ライター)</font><br /><font size=2 color=green>1997年当時の記事です</font><br /><FONT SIZE=3 COLOR=gray><br /><br /> 今なら、ペルーは、安いよ。<br /> 乗り継ぎなら、往復13万円を切るってさ。<br /> 行くなら、観光客が激減している今に限る。ペルーの観光業のサービスは世界的にも低い部類だけど、今なら笑顔でお出迎え。<br /> 旅行するなら、今だ。<br /> 治安はね、人質事件とは関係なく、悪いよ。<br /> いつものことだもん、ひったくりに強盗、レイプ、警察官の汚職は当然。あまり、事件の影響はない。でも、観光客が減った分、ペルー人が襲われているって。それと、中心街のゴミ溜めみたいな市場(どろぼう市)の撤去が始まって、道路に寝ていた少年犯罪者集団がまるでクソ暑い夏のスズメバチみたいに気が立っているのは事実。こいつらの強盗だけは、ちょっとひどすぎる。<br /> 公邸の周辺も、警官が多くて、みんな自動小銃持っているからちょっと物々しい。こっちの警官は自動小銃は当たり前で、バズーカも戦車も持っているから、これが日常なのだ。驚くことじゃない。<br /> 先日、イエス・キリストに会ったよ。日本人だった。自分で言うんだもん。「聖書に書かれているキリストは私だ」って。この人質事件を解決するために、沖縄県の宜野湾市から来たって。46歳。去年の暮れあたりからリマにいるらしい。<br /><b>「私は、日本の沖縄県宜野湾市大字×××の又吉光雄という者です。去年(1996年)の4月以来、沖縄県において、私が再臨のイエス・キリストであることを表明しています。(中略)再臨の目的は人間の人格そして地球をその破綻・破滅から守るため、うんぬん。再臨の目的のひとつとして、今回の日本大使公邸人質事件を解決するためリマに来た、うんぬん」</b><br />  --あの、神様ですよね?<br /><b>「そうです(注=神とキリストは別物じゃないの? まあ、いいか)」</b><br />  --全智全能ですよね、トーゼン。<br /><b>「言うまでもない」</b><br />  --だったら、今すぐこの事件を、その特殊なちからで解決して見せてくださいよ。<br /><b>「それはできない。私がゲリア(注=テロリスト)とペルー政府の両者を納得させなければならない。そのためには、私の救済プランを保証人委員会(注=今回の事件での調停役)が採用するしかない。それしか人類が救われる道はないのだ! 私が保証人委員会に入るべきだ!! 時にあなた」</b><br />  --はい?<br /><b>「スペイン語が出来ますか?」</b><br />  --ええ、まあ。<br /><b>「通訳して頂けないでしょうか?」</b><br />  --……。全知全能なんでしょう?<br /><b>「そうです」</b><br />  --いいや、あんたはニセモンだよ。<br /><b>「うぬぬ。あなたの目は曇っている。いつか必ず、バチ被るぞ」</b><br />  --ありがとう。<br /> このカミサマ、日本の大使館やペルーの大統領府にまで足を運んだが門前払いにされた。話を聞いたのは、ボクが勤めるペルー新報(日刊紙)だけだった。他にも、日本のボランティアを職業とする若者が「ボクが、ペルーの貧困をなくすよう、犯人たちに働きかける。だから旅費を送って欲しい」というお願いの手紙がペルー新報に届いた。<br /> 政府はドス黒いけどさ、一応「国家」なわけで、個人がどうのこうの言って事態が変わるわけないだろうに…。<br /> それから、この事件のどさくさに紛れて、統一教会がペルーの実業界(とくに、日系社会)に触手を伸ばしている。「世界平和女性連合」とかいう名前で日系人の家を回ってるんだけど、大脳新皮質を破壊された、あの神がかった独特の愛らしい眼差し。バレバレだよ。この「眼差し」って、匂うよね。世界のどこにいても。<br /> だいたい貧困貧困いうけど、餓死者なんていないんだよ、この国には。道路で物乞いしている乞食は、新宿にだっているじゃないか。<br /> バスに乗り込んで「僕は泥棒していました。娑婆に出ても仕事がありません。パパはアル中です。お兄ちゃんはラリッてます。ママは病気で弟のミルクにも困ってます。お助けを…」というやつがたくさんいて、聞くところによると、一日に70ソーレスくらい稼ぐ奴もいるとか。これを週休2日でやったら、一ヶ月に1400ソーレス(5万円強)。週休1日であくせく働いている僕の給料の2倍以上あるじゃないか。<br /> これも、ペルーの「貧困」の現実の一部なんだ。<br /> ペルーは、食べ物がおいしい。ジャガイモやトウモロコシの原産地。野菜がウマイ。トマト、ピーマン、紫タマネギ、カボチャにレタスなどなど。<br /> 肉も豊富だよん。若鶏(ぽーじょ)の丸焼きには首や脚がついてくるから、ワイルド派には応えられないよ。ジューシィ。うまい。<br /> シーフード(まりすこす)もいいね。ピリッと辛いマリネ(せびちぇ)なんて、一皿50円ですぜ。もちろん、酒も飲んだら、一食数万円もするディナーだって食べられる。「貧富の差の激しい国」の典型というわけだ。<br /> ぼったくりと強盗の多い国だけど、人情がある。日本人だけが狙われているわけじゃない。油断していれば、この国の人だって被害にあう。新聞社の同僚(おじいちゃん)なんか、この2年で18回も強盗にやられた。彼、現在も前人未到の記録を更新中だ。<br /> スラムや泥棒、日本大使公邸の周辺なんて、観光客は行く必要ないよ。マチピチュやナスカ、そのほかのインカの遺跡、地方の村、アマゾンの国立公園、トラックの二台に憲男婚で、三日も四日もかかるアンデス越え、博物館、リマ郊外のリゾート地…。変なとこに行かなければ、いつものペルーを、今なら低料金で満喫できること、請け合いだ。<br /><br /><br /><font size=2 color=black>1997年、雑誌「GON!」(ミリオン出版)に掲載。一時期、ペンネームなどを偉そうに使っていた・・・。<br />※あまりにひどい事実誤認のほかは、当時のままです。書いたときは、大使公邸人質事件の解決前だったが、掲載時には終結していた。又吉光雄は、教会の牧師と名乗っていた。「沖縄に戻ったら、宜野湾市長になり、その後、沖縄知事になる」といっていた。当選しなかったが、市長選と知事選に出馬したことは、風の噂で聞いた。ネットでは「又吉イエス」とか言われていたとかなんとか。</font></font><br /><br />--------------------------------------------<br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/Jesus_Matayoshi.jpg target=_blank><font color=blue>【写真】リマに光臨したキリスト(沖縄出身)、又吉光雄。</font></a><br />--------------------------------------------<br /><font color=blue size=2><a href=#tag><b>このページの先頭へ</b></a></font><br /><br /><a href=http://www.geocities.jp/tontocamata/><B>記事の墓場HP</B><font color=blue size=2><br />(メインページへ飛びます)</font></a>huaquerohttp://www.blogger.com/profile/03335460691448969301[email protected]