「月の寵児たち」オタール・イオセリアーニ ~人から人へ、扉から扉へ、人生はめぐる~
ジョージア(旧クルジア)の映画監督オタール・イオセリアーニの作品を初めて見た。ジョージアからパリに来て初めて撮った作品だという。驚いた。とんでもない作品である。もっとヒューマンな人間喜劇のようなほのぼのとした温かい作品かと思っていたら、なんと企みに満ちて狡猾で作為的で挑戦的な映画だろうか。なにしろ、人間の心に分け入って描こうとしていないのだ。描かれるのは、モノが人から人へと渡り、人は扉から扉へと移動し、扉を開けて部屋に入って誰かに何かを渡し、誰かと恋を語らう。あるいは何かを盗む。車に乗り、階段を昇り降りし、人を殴り、人を殺し、恋やセックスをし、関係が深まり、絡まり、移り変わっていく。人生はめぐりめぐる。社会もめぐりめぐる。金持ちも貧乏人も殺し屋も爆弾製造人も盗人も売春婦もホームレスも警視も掃除人も酔っぱらいも・・・。みんながみんな、ぐるぐるとめぐる。そしてタバコを吸い、酒の飲み、歌を唄うのだ。その無常観。達観したような人間たちへの眼差し。そして描かれるのは徹底したアクションだけなのだ。一つの画面(ワンカット)の中で、人が移動し、出入りし、車が動き、カメラがパンをすると、別の登場人物が動き出す。登場人物に主役はいない。みんな並列な登場人物たち。
18世紀の美しい絵皿と貴婦人の裸婦画から映画は始まる。絵皿は美しく描かれるが割れてしまう。馬にも踏みつぶされる。裸婦画は美しいモデルたちがいて完成するが絵もまた飾り替えられる。そして現代のパリへと時間は飛び、絵皿がオークションである婦人に買われ、またしても割られてしまう。しかし、その割れた絵皿は、掃除人によってゴミ箱から拾われ、売春婦のもとに渡り、接着剤などで修復され、泥棒親子の息子(若きマチュー・アマルリック!)の灰皿になっている。また、裸婦画もオークションで落札された後に、泥棒親子によって盗まれ、また売られて画廊に飾られ、また盗まれ、一部切られて飾られている。
人間関係が複雑で、1回見ただけでは理解できなかった。いろんなところにいろんな人物が登場するので、誰が誰とどう関わっているのかがよくわからない。2回見直してみて、ようやく関係が理解できた。パリで画廊を営む女性とその愛人、鉄砲店の店主、美容師、警視、空き巣の父子、過激派の音楽教師、娼婦、暗殺者のアラブ人、ホームレス・・・。まぁ、人物関係が理解できたところでどうということはない。夫婦関係であっても、別の男や女とそれぞれ関係を持ち、入り乱れている。爆弾を製造した男が、テロ組織?に売買する森で、実験台となって一人の男が死ぬ。それを見て頭を抱え込む爆弾男(登場人物の心理が少しだけ描かれる場面だ)がいる。爆弾を作っても、それによって人が死ぬという現実までは想像していない。モノが人から人へと渡るだけだ。それは現代の資本主義社会の縮図でもある。また政治的な過激派の音楽教師たちが、公園の銅像を爆破する。それがどういう意図を持って行われたかもよくわからない。そんな理由に監督は興味がないのだ。ただ爆弾が渡され、銅像が破壊され。る偶然に公園にいた酔っぱらいのホームレスたちが、なぜか刑務所に収監されてしまう。だが彼らは歌を唄っていつも楽しそうだ。そのホームレスの一人の男が、刑務所での音楽の時間(過激派の音楽教師が囚人たちに歌を教えている)でタバコを吸って部屋から連れ去られる場面がある。「俺は感動すると、タバコを吸いたくなるんだ。それが人間だろ!」と叫ぶ。一人でも歌を唄うぞと、へたくそな歌を唄う。この映画で唯一、心に沁みるシーンだ。
美しい皿は割れ、18世紀からあった古い建物も壊される。ゴミ箱からお金を拾った掃除人がその後どういう人生を送っていくのか、金持ちの貴婦人の家財道具が運び出され、彼女がその後どうなっていくのか、誰にもわからない。誤って殺された売春婦の買ったリンゴを誰かが勝手に拾って食べるように、モノは人から人へと渡り、人生も有為転変、めぐりめぐる。ただならぬ映画だ。
1984年製作/101分/フランス・イタリア合作
原題または英題:Les favoris de la lune
配給:ビターズ・エンド
監督:オタール・イオセリアーニ
脚本:オタール・イオセリアーニ、ジェラール・ブラッシュ
撮影:フィリップ・テアオディエール
音楽:ニコラ・ズラビシュビリ
キャスト:アリックス・ド・モンテギュ、パスカル・オビエ、ベルナール・エイゼンシッツ、マチュー・アマルリック
☆☆☆☆☆5
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